3. ムニエルから考察する未来
鮭のムニエルは少々焼き過ぎな部分もあったが、そこも含めて、美味しかった。
「ごちそうさま」
いつもそうしているように、食器を重ねて洗い場の方へ持っていく。
持っていく、といっても、この狭いダイニングキッチンは、手を伸ばせば届く距離にシンクがあるのだけど。
「あ、ねぇ、ちょっとまって」
ビーズののれんに手をかけた時、母さんに声をかけられた。振り向くと、母さんの食事はまだ3分の1も終わっていない。
相変わらず母さんは、おっとりしてるというか、トロイというか。
「なに?」
「これ持っていきなさい」
母さんは電子レンジの上に置いてあった小皿を取って、私に渡した。
何かと思えば鮭のムニエルだ。
「え、なにこれデザート?」
普段醤油なんかを入れて使う小さい皿に、鮭のムニエルの切れ端…いや、単なる切れ端ではない。そこは面積こそ小さいが、旨味の凝縮された、より尾に近い、あの部分。
あの部分のムニエルがラップに包まれて置かれていた。
ハタ、と、さっき自分が食べたムニエルを思い出す。
ない…ない、ない。
そうだ、私が食べた私のムニエルは、鮭の最もムニエルたるこの部分が…スッパリと切り取られていた。
次に今母さんが食べている食卓を見る。
ある…。
母さんは、器用にその部分だけ残して、残った白飯の頂点に乗せ、今まさに、緑茶を注ぎ込もうとしていた。
私は知っている。一見邪道に見えるこの行為が、人を惹きつけてやまない錬金術であるということを。
ムニエルのバターが緑茶の苦味を程よく緩和し、鮭の甘みが白飯の甘みと合体して、桃色のハーモニーが生まれる。数滴醤油をたらしたなら、それはもう単なるムニエルでも、茶漬けでもなく、ジャンクフードに似た中毒性をもつ1つの世界となるのだ。
「ねぇ、これ、何よ。」
母さんは、自ら創造した世界にバターの油が広がるのをじいっと見つめていた。
私の目も、鮭から出た薄ピンクの油に釘付けになった。
「あ、それね、あのクマさんにあげたらどうかしらと思って」
「え、クマ?」
醤油差しの先から、濃茶色の一滴がポタンとおちて茶碗の淵まで広がった。
続けざまに、2滴、3滴垂らしたところで箸に持ち替え、まるでミルクでも暖めているような柔和な顔で、母さんはゆっくりとかき混ぜ始めた。
「ほら、さっき背負ってたクマさんよー」
「え、あぁ」
「最近のクマさんは喋るのねぇ」
「あー、うん」
「クマさんて鮭が好きだったわよね、確か。生鮭じゃないけど、食べるかしら」
「あー、どうだろ」
あのクマの声は母さんにも聞こえていたということ、喋るリュックサックに何の疑問も持っていないこと、あの布の集合体が捕食をすると決めつけていること…色々なツッコミどころが頭の中で渋滞を起こしているが、私の頭は目の前の錬金術の行く末を見守ることに精一杯だった。
母さんが茶碗を持ち上げた。唇と茶碗が触れ合う瞬間、私は「あっ、」と声をあげた。
茶碗の中に創造された芸術が、あっけなく流し込まれていく。
私は母さんの恍惚の表情を見るのが辛くなって、くるりと背を向けた。
「ごちそうさま」
他に言葉が見つからず、2度目の礼を言った。
「お粗末様。」
小さな声で返されたことが、より一層嫌みたらしく聞こえた。
部屋に戻る道中、私は手に持った鮭の切れ端に思い馳せた。
もし、母さんがクマのためにこの切れ端を残そうと思わなかったら、今頃私の茶碗にもあの素晴らしい世界が広がっていたのだろうか。
そもそもなぜ母さんは、母さんの勝手な判断で、私の鮭を切り取ったのか。母さんの鮭じゃダメだったのか?
いや、そんな疑問はもはや疑問ともならない。
母さんは慈愛の精神が強い聖母のような女性だが、自己犠牲…特に、食べ物に関することは絶対にしない人間だ。
見知らぬクマのしゃべるリュックサックに食べ物をあげたいという慈愛の心はあれど、自分のムニエルを削る自己犠牲はしない…そういうわけだ。
我が家の夕食優先順位は母>私>父。
父の夕食がない今日、削られるとなると当然、私のムニエルになるわけだ。
ー 待てよ。
私の脳にピカリと衝撃が走る。
削るにしたって、その部位が酷すぎやしないか?なぜよりにもよって、脂のよく乗ったこの部分なのだ。母さんはこの部分がどれほどの可能性を秘めているのかわかっているはず…そう、あのお茶漬けを創造せしめた母さんなら、当然…。
もしかして…。
膨らんだ嫌な予感は、確信に変わりつつあった。
もしかして、これまで母>私>父で絶妙に保たれていた力関係が、あのクマ1匹(?)の登場によって、変わったのではないか?
だとしたら、クマの入り込む位置は間違いなく…私の上…!
私はこの事態を重く受け止めた。
一刻も早くあのクマをうちから追い出さねば、私の夕飯に未来はない。
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