2.私は妄想なんてしない
「ただいま」
ダサいピンク色の薄いドアをあけると、奥からバターを焼いたような匂いがした。
「おかえりぃ」
商店街から歩いて5分ほどのところにある、少し古くなった団地の506号室が私の家だ。
キッチンから、ビーズののれんをくぐって母さんが顔を出した。いつもと同じ、赤いチェックのエプロンだ。
「鮭のムニエル。」
「ざんねぇん、鮭のバター焼き。」
こんなやりとりも、いつもと同じ。
「はっ、ムニエルじゃねぇか。」
「ユウリ、今日はバイトじゃないの?」
「違うよ、明日。」
「あら、そうだったかー」
母さんはいつもこんな調子だ。
バイトの日の夕飯は賄いで済ませるからいらないっていってる。だからわざわざバイトのシフト表を渡しているのに、母さんはカレンダーに書き写すのを間違えるのだ。
「うーん、どうしよう。鮭、2人分しか買ってないのよぉ。」
「カップラーメンある?」
「うん。」
「じゃ、大丈夫。」
「そうね、お父さんにはカップラーメンで我慢してもらいましょう。」
うちの夕飯優先順位は、母>私>父を徹底している。哀れ、我が父。
「はあー、男の立場は弱いねぇ。」
「じゃ、部屋にいるから、夕飯できたら呼んで。」
「はぁーい」
廊下の突き当たりにあるドアの先が、私の部屋だ。ベットと勉強机、細い本棚が置いてあるだけの狭い部屋だが、別に不自由はしない。
ベットにスクールバックを放り投げた。薄いノートと筆記具くらいしか入ってないのでパスッと手応えのない音が鳴る。
背負っていたクマのリュックサックを勉強机に置いて、私はキャスター付きの椅子の上で体育座りをした。
ちゃっちい壁掛け時計がカチカチとチープな音を立てている。
商店街でもそうしたように、私とクマはしばらく見つめあった。クマは相変わらずダルそうにしている。
「ねぇ。」
先に言っておくと、私はいくら自分の部屋だからといって、大きな独り言をしたりはしない。
「ねぇ。」
さらに言っておくと、私はいくら女子高生だからといってクマのリュックサックに話しかけたりするお花畑を持ち合わせていない。
「…キミさぁ」
私は妄想なんてしない。どこまでも現実的で論理的な最強女子高生、
「さっきから、喋ってない?」
田端ユウリである。
「ガァおおおおお!」
前後、若干の間はあったが、時間にしておよそ5秒ほどの咆哮だった。
「ドヤっ。」
クマは目の端をキランと光らせた。
「…うん」
私がこくりと頷くと、クマはつまら無さそうに鼻…と思われるフェルト部分を擦り始めた。
「…俺の求めたリアクションじゃねぇな」
「どんなのをご所望だった?」
「慌てふためいた挙句、死んだフリでもしてくれたら、最高に笑えたな」
「ゴメンね、ご希望に添えなくて。」
「けっ」
「仕切り直そうか?」
「白けるだけだろって。」
「そうだよね。」
そこで一旦会話が途切れた。喧嘩した後の夫婦ってこういう感じなんだろうな。お互いを少し警戒して、微妙に牽制している、この感じ。
「以外と渋い声だね。」
「そうか?」
母さんが好きな刑事ドラマの警部役の俳優さんがちょうどこんな声だった。
喋り方は、外画の吹き替えのような、大仰な感じだけど。
「名前は?」
「ない。お前は、ユウリとか呼ばれてたな。」
「うん、田端ユウリ。」
「JKか。」
「高2。」
「いいねぇ」
クマは手を顎(?)のあたりに持ってきて、私をジトリとみつめてきた。
「いくらクマでもそれはキモい」
「そりゃ失礼。」
また会話が途切れた。ずいぶん饒舌なクマだけど、クマ相手に話したことがないから、すこし戸惑っている。
「なぁユウリ。」
フェルトでできた鼻の少し下に、口があるみたいだった。刺繍糸が動くと、あの渋い声がする。その光景はなんだかグロテスクにも感じた。
「なぁに?」
「お前、感情の一部が欠落してるとか、そういう、アレなのか?」
「え、ううん、」
小学生の時、家の近くの長い下り坂を自転車で滑り降りたことがある。でも効きすぎたブレーキのせいで身体が前に投げ出され、膝を派手に擦りむいた。それだけの事故にも関わらずそのような軽傷で済んだのは、落ちた先が何も障害の無い野っ原だったお陰だ。
当時の私の感情は、馬鹿なことをした自分に対する行き場のない怒りと、無事だったことの安心感と、破けてしまったおニューのジーンズに対する悲しみと、数秒間、空を飛んだ感覚を味わえた嬉しさとがないまぜになって、パブロ・ピカソの絵のようだった。
「別に、みんなと同じだよ。」
その記憶が確かなら、私の感情はこれ以上ないくらい正常に動いているはずだ。
「なら、なんでそんなに普通なんだ?」
クマの言葉に私は少しムッとした。
私が〝普通〟なのはわかっていたことだけど、第三者に言われるのは癪である。
「俺、動いて、喋るんだぞ。」
クマは見せつけるように踊ってみたり、早口言葉を言い始めた。
〝東京特許許可局〟に苦戦しているのが笑えた。私も言えないけど。
「俺、リュックサックなんだぞ、一応。」
「あぁ、そうだね、喋るリュックサ…」
人間というのは、本当に信じがたい出来事に遭遇した時、クラッシュした思考回路を元に戻すため、
「…リュックサックが、喋ってる…」
5分くらい時間を要するらしい。
「遅えよ。」
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