DORMITORY―『妖精の間』―

 誰しもに幼い頃がある。けれど、すでにその人生という時の萌芽において、私たちは孤独を知り、また己を知っているのだ。そこでは何もかもが始まっていて、今後一切の希望のためにさえ、為す術が無い様に思われる。


 次の自身の行動を決めるのは、願望では無く、捨て鉢な目新しさかもしれない。もしくは、秘匿すべき性質の、滲み出た結果かもしれない。


 時代の中で、しごくまっとうな生き方をしたいのなら、何より、人殺しに慣れなくてはならない。なぜなら資本主義も戦争も、人殺しを育てるのに躍起になっているから。我々の良心は脆弱で、日々の生活の必要に迫れて、彼らの言いなりになるよりほかは無い。ただ、そこに自らすすんで従うか、しぶしぶ、という体で倣うか、という違いしかないのだ。

 

 ジョナサン、という一人の少年貴族が何を想ったかは、よく知らない。ただ彼には、一切のことが選択肢で、しかも、その選択を選り分けるほどの強靭な精神が無かったことは確かだ。だから彼はせめてもの償いに、時代に対して「YES」を提示した。


 それは、軍人として、みずからすすんで人殺しになるということだった。彼の良心がそれを忌避していれば、彼はそうならなかっただろう。けれど彼の良心は、健やかな彼自身の健康以外に興味が無かった。むしろ彼の理性が、そうした危険な職業に就くことを止めさせようとしたのだけれど、それに対しては、彼の無垢な情熱が、ある種の献身行為に対する彼の探求心が、勝利した。

 

それは、貴族という彼のプライドや、戦闘行為に対する血の高ぶりなど、男性性の為せる技の結集であったのかもしれず、どちらにせよ、彼は己以外の世界と交わろうと試みた。もっとも遠回りで、分かりにくい方法で、交わろうとしたのだ。


軍人と言えども、何も他人の命ばかりを奪うのが仕事では無い。ただその限界が、命のやり取りに発展する可能性があるということなのだ。その仕事の重さも、儚さも、彼の気に入る所となったのには、そういう幅広い他者とのやりとりがあったことによる。


結局彼は、人生の選択に満足して死んだ。幼くして、あやふやな自己を認識した彼のことを思えば、なんという「成長」だろうか。




J・ウィンチェスター 14 YEARS OLD



ノヴァーリスの作品をよく読んだ。

とても理解するには難しいものだと思った。


言葉では言えなくとも、惹かれるなにかがあれば、私はそれにしばらく夢中になる。けれど、それは、そう長くは無い。小説もなにもかも、人相手となればなおさら、眠って起きたら、重要では無くなっている。


誰か迷惑かとか、嫌いかとかでさえ、もし一生、自分の部屋から出なくて済むなら、きっと忘れてしまうだろう。


よく花の咲く花壇の前で、ぼうっとした。幼い頃からそうだ。


公園の光る様な芝生や、針葉樹林の濃い緑にも、私の心を捉えるものがあるらしい。不快でないから、そこから意識が戻るのもまた、自然におきる。そのまま、自分が人であるとか、空腹だとか、考えないで済むならそうしたい。


私にとって、人間相手に生じる感情には、価値が無い。私は、おそらく人では無いのかもと思ったけれど、見た目は人間だし親もいる。


けれど、歳を重ねれば、そういうことは、あまり意味が無いことにも気づく。自分が何を感じて、死ぬかでさえ、おそらく他人には理解できない。


他人に関心がない上に、理解も望まない不自然さが存在できる世界。こんな世界が許すのは、なんでも、そして、何もかもだ。


悪も善も、もし必要なら必要だし、正義も、望むなら命をかける意義があるのだろう。けれど、私の見ている世界には、そういったことが現れない。いや、存在しないわけではないけれど、塵一つほどの価値もない。あるということが、重要では無い。


自分のそうした世界が、他人にとって居心地がいいとは思えない。けれど私は、すごく心地がいい。時の流れもあやふや、もしくは、そもそも時の感覚も無い。老いて死ぬはずの命のことを思い返しながら、それでもまだ、終わりを知らない自分のことを、感じている。


何を望むだろう。自分の望みはなんだろうか。誰に?何に?他人が望むものは、与えてきた。心も、身体も、労力も。


けれど、引き換えに何が欲しかったのか、思い出すことが出来ない。あったはずだが、おそらく私にはすでに価値が無い。もし大事なものなら、覚えていられるはずなのに。


どうして他人が自分を見る目が、こんなに不快なのか、思い出しても、理解できない。異質ななにかをそこに認めても、感じられない。ハトや木々と「目が合う」感覚はわかるのに、人間が自分を見る目と、自分の目が「合わない」。


「目が合う」とは、つまるところ、互いの存在を認め合う「共在」感覚だろう。しかし、人間相手となると、いつも、「一方的に見ているだけ」の感覚しかない。


それはいったいどういうことなのか。


考えても分からないから、昨日も他人の目を見た。けれど、望ましいものも、好ましいものも、安心できるものも無かった。


無いのがわかるから、見ないのか。あっても、望まないから見えないだけだろうか?


見えるより先に、分かってしまうだけで私が省いている沢山の行動を、他人は今日も、最初から順番に行っているはずだ。


それほど違いすぎる私のことを、他人はあまり知らないし、私も知らせはしない。少し教えただけで、突き放すか、否定することしかしないから飽きてしまった。たとえ近づいてきても、私がそれを望んでいないことは、相手にも分かる。


そんなにつまらないか?でも、お前を喜ばすために存在しない私のことを、私は少し好きになる。


理解できなくて、どこかに自分と共通点があることを見抜きたいか?でも私は、そうした共通点に価値があるとも思えない。


知らない誰かの方が、そう言う意味で共通点があるのかもしれないし、そんな事実を発見するか否かだけのことの、なにが楽しいっていうんだ? 私は、そうしたことを許す感情を知らないから、喜べない。


誰かに会いたいとか、本当に思ったことがあるだろうか。慣れない土地に行って、その不安を糧に、見知った場所を思い出すことがあっても、それは人のぬくもりでは無く、場所や空気の感覚だ。


人なんていう小さくて濁ったものが、私の意識を留め置くことが出来ないことを、今更ながら痛感する。どうしてだろう、私も小さくて濁った存在のはずなのに、人間に満足できない。人に惹かれない。関心が続かない。


成長と共に、変化した身体が、異性に反応することは確かにあった。しかしそれが、重要なことだという認識も、恋とか、愛とか、命を左右するような感情に昇華することも無かった。そのことを、おかしいと思うことさえ無かった。それが今になって、他人と違う点だと気付く。違いすぎて、違う生き物だと思うくらいに。

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