Ⅷ.
クレタ嬢の姿はそれ以来見ていない。私が家から迎えの馬車を呼び、和やかとは言い難いフォンヤード氏の面前から消え去った時も、彼女は屋敷のなかへ籠ったきりだった。
私はその別れを重大なことと感じていた。もし、彼女が自ら命を断つようなことがあったら、という杞憂がないわけでもなかった。しかし、そこまで自惚れていいわけではない。それに、彼女が死ぬようなことになったら、私だってもう「死んだも同じ」だと思われた。
そのあとのことは、詳しく語ろうにも、忙しくて何がどうだったか覚えていない。実は、父方の伯父、ミンツ男爵が私を屋敷で待ち構えており、恥ずかしげもなく私にクレタ嬢との婚約破棄を迫ったのだが、私は、兄をどうしたのかという話に無理やり切り替え、伯父の我慢のならない面構えをどうにか抑え込むことに成功した。
そのあとは、母の配慮があり、私は「愛おしい女性を捨ててきた傷心の男」として、しばらく放ってもらえた。事実私は、気付くと自分がどこにいるのやら、いわゆる放心状態に陥ることが多くなっていた。だが、気忙しい妹が思い出づくりを強要するので、その相手としてはこの上なく望ましかったことを付け加えておこう。
待ちに待った母方のアメリカ人で、クリストファー伯父からの手紙が届き、なるべく急いで来てほしいということから、父も私も出国の手続きに屋敷を出て歩くことが多くなった。
周囲には一年ほどの留学だと言ってはいたが、そんな生ぬるいものではなかったことは、私が、大手を振って船に乗り込んだ時にはすでに、わかっていたことだ。
一度死んだ男がよみがえる場所は、戻る場所の無い人間には似つかわしい国であろう。
私は、うねる海水の深さを見下ろし想像するに似合わず、身震いした。それはようやくクレタ嬢の面影から自由になった瞬間であった。また、何も持たない私が、かの母国で一体何を考えていたのか、ようやく私は認めることができた瞬間でもあった。
それは単に「刺激を求め」、そして「人を殺す」行為に対する強い憧憬であったのだ。私は人の肌を見つめるときや、身体の脈動する様を見るたびに思っていたことがあった。それは異様に短な距離間において、それを征服したいという野蛮な欲求だったのだ。
「反社会的である」というのは、まだ美しい表現である。私は望まずにして、平和な人間社会を壊す生き物であることを自覚していたのだ。
そしてそこで大事なことは、私が破滅型ではなく、営々と生き残ることだけを目的にし、それ以上も以下も解らない、簡略な人間であるということだ。
私の呼吸が高ぶるのは、そのような行為の絶頂において、自分だけが一人、真の征服者であると感じるときであった。
私は生来、一人を好んだ。それは一人の世界が「完全」であるという、狂った思考のためだ。二人や三人、そんなものは不完全極まりない。私は、報復と征服の折り重なる心地よい世界のなかだけに、自己満足の言葉を知らないまま、長い間生きていたのである。
クレタ嬢の手紙に、何が書いてあったか。それは、彼女の切なる想いと、一つの秘密であった。何の申し開きもない。彼女の左太ももの内側には、大きな花のような形の
そして御丁寧にも、その手紙の最後の一枚には、その痣の形が、文字と同じ黒いインクで描かれてあった。私はそれが花弁のあでやかな、一輪のマーガレットの花だと思った。そして、彼女の手紙の大意は、その痣を彼女だと思って記憶の形見にしてほしいということだった。
確かに変わった願いではあったが、私はその幾何学的な模様を愛することにした。そう、彼女の顔形を忘れるようなことがあっても、その模様だけは、常に私の頭の中に残り続けた。彼女は正しく、また賢かったことがこれで知れよう。
マーガレットの痣をめぐってはやはり、これを言っておかねばらない。
私がようやく戦場に慣れ、跨ぐ死体の数に気にもとめなくなったころ、私は一度だけ、後ろから撃たれたことがあった。右脇腹からの出血で気を失いかけたとき、私は露わになった自分の腹を見て、ぎょっとしたのだ。そこには目に焼き付いたマーガレットの花が咲いていた。と同時に、私は安心を得た。自分がここで死なないという確信は勿論、これが彼女の言っていた意味だと、深く感動したのだ。
その時から真っ赤な鮮血の色も、どんなに汚れ、腐敗した傷跡も、生々しい肉の内側も、真っ白な骨も怖くは無くなった。
私が、人という入れ物を愛しはじめたとき、何か、それは永遠の愛に近付く道標のように心強く、私の人生の在り方を示し始めた。
私は過去の自分から遠ざかり、また若かったころの迷いや、瑞々しい感情の息吹さえ、かつては自分のものであったことを信じられないほどに、自分の務めに生きる男になった。
乾いた大地と、故郷の空より青い空と、強い日差しの中で、私は二つ目の人生を心残りなく、全うすることに命をかけることができるようになっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます