Ⅶ.

フォンヤード氏は肩を落として、そのまま自室に戻られた。


夫人は、少しの間だけ嫌がるクレタ嬢を引き止めて、早口で言葉を投げかけていたが、敢えて私は二人の間のことを訊かなかった。いや、訊くまでもなく、想像がついた。クレタ嬢は、いまさっき、余りにも明らさまにしてしまったことに関して後悔しているようで、それもそうなのだが、私と一度も目を合わせることなく、やや音を立てて部屋に帰って行った。夫人がひとり、私のところへやってきて、


「ごめんなさい。主人はあんなふうな言い方をしない人なのに、今日はどうしたのかしら。気を悪くしないで、どうかもう遅いし、泊って行ってね」


と、自分のための慰めなのか、日常を取り戻すためなのか、《当たり前》のことを言う。

「ありがとうございます」


私は、明日こそは家に帰ろうと決めて、昨日までと同じく部屋に戻った。

部屋に戻って思うことは、と考えると、それはそれは、耐えられない「寂しさ」だろうと思った。だがいざ帰りついてみると、私は月光を求めて窓際へ行き、安堵の溜息を漏らしたのだった。


腹が膨れたのは、何も食べたものばかりではなく、何らかの達成感であった。私は満足だった。


惜しまれつつ嫌われて、しかし愛されてもいて、私は十分に彼らに関わっていた。熱く話し合うことはなかったかもしれない、こちらが特別何かをしたことも無かっただろう。何故だろうか、私は満たされていた。


偶然が偶然ではなく、恩恵であることを認めるのはこれほど容易かったのだと、私は自分の胸に手を当て、思いを馳せた。


自分のやってきたことを思い返すには、あまりにも乱暴な時間だった。たくさんの箱に納められた古い記憶が盗難に遭って、巷の、不特定多数のためのダストボックスに投げ込まれてしまったかのような、そんな痛みを感じた。


私が眠ろうと考えたとき、灯が見えた。


その光は暫く私の窓の下にとどまり、そして、その持ち主の白い腕を輝かせた。月の光で十分なくらいに明るい庭には余計な光だったが、今の私には、その《余剰》が妙に魅力的であった。


私は足音を忍んで扉を開け、庭に向った。気付かれないよう、もしくは気付かれても言い訳ができるほどに私はゆっくりと明かりを避けて歩いて、屋敷の中を抜けた。今思えば、おかしなくらいに私の目は冴え、また運も付いていた。



黒いフードの主は、ランプを植木のそばに置き、か弱い声で言った。


「もう、最後だと思って」


その途端私は、自分が抑えていたものを解放した。彼女が私を見ないうちに、彼女のガラスのような瞳が自分を捉えないうちに、私は彼女を胸に抱きしめた。


無理やりでは無かったと思う。ただ、意表を突かれた人をおとなしくさせておくには、もう少し、説明が必要だった。硬直した彼女の肩や腰を感じつつ、私は言った。


「最後なんて言うのは、少し早いじゃないですか。もし永遠が何かを説明するなら、私はそれが《一瞬》のことだって言いますよ」


ようやく彼女の息遣いが聞こえ、私は腕にやや力を込めた。彼女の存在がいま、自分に何を与え、これまでも、何を与えてきたのか、私は正直に伝えなければいけなかった。


「過去と現在が十分に、自分の胸にあるとき、すでに未来は予想されたもの。調子のいい話ですが、私にとって貴女は、どうして《過去の人》にできるでしょうか」


私は、すっかり舞い上がっていた。誰か別の人間が私の口を借りたように、熱を込めて彼女にささやいていた。だが、それに彼女が応えたとき、私はいよいよ自分がそこにいることを自覚しなければならなかった。


「ジョナサン、もし貴方が私を認めてくれるなら、愛なんて言う言葉を取り交わすのはやめましょうね。脆くて危なっかしくて、持て余してしまいますわ。ローズ嬢にでも語らせておきましょう。私はそこまで欲深くなく、私はずっと控えめに、貴方だけのものであることを誓いましょう。えぇ、もちろん永遠の約束。ですから、お願いですから今だけは、貴方も私のものだけで…」


「えぇ、私がこんな風に話をするのは、貴女が初めてだ。それを知ってほしい」


そうして私たちは庭を二人で歩き、どこまで歩いたか、覚えていないくらい私は彼女のシルエットを見つめていた。


夜のなかでは、自分も彼女も影のように存在が先鋭化して、私はその夢のような感覚のなかに、自分が戻ろうとしている場所や、これから行こうとしている場所からすっかり縁の無い男になって、ただ、彼女の後を追い、また追われて歩いていた。


疲労感と温かな感情が私の身体を支配して、どうにも足だけは動かしていたのだが、彼女と何度頬笑みを交わしたのか、数えられはしなかった。


朝方、東の空の色が変わり始めたとき、彼女はポケットから一通の封筒を取り出し、私の胸に押し当てた。


「これは、私の唯一の形見ですわ。貴方が居なくなる時、私は死んだものとして貴方のなかに永遠にとどまれる。でも、私の全てでなくていいんです。だからこれだけ…」


彼女は、ふいと私の前から身をかわし、またたく間に屋敷のなかへ戻って行った。私は、渡されたものに彼女の熱が、そのままこもっているような気がして、その手紙をすぐに開けることはしなかった。暫く空を見た後、彼女の後を追うでもなく、私は屋敷のなかへ戻った。

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