Ⅵ.
その後どうしたかといえば、遊覧船はもう出ていなかったので、速い足の馬車を頼んで、例の農夫を置いてきたところまで戻った。だが、そのチョムスキーの姿もクレタ嬢の馬車も見つからず、そのままロンドンからの馬車で彼女の屋敷へ戻った。空には半分欠けた月が明るく輝いていた。
馬車から下りると、すぐにフォンヤード氏と、フォンヤード夫人が出迎え、彼らの娘であるクレタ嬢を、氏から夫人へと順に温かく抱きしめ、無事を確認した。
「申し訳ありません。私が言いだしたことで、すっかり遅くなってしまい」
さすがの私も、言葉を失ったようなクレタ嬢と二時間もいっしょにいると、くたびれてしまっていた。
「あぁ…いいんだよジョナサン。疲れているだろう」
フォンヤード氏は何やら落ち着きなく、私とフォンヤード夫人の間で、視線を結ぼうとでもしているようだった。私は、夫人の方を見たが、夫人は、今度は自分の娘と私に、すがるような眼差しを向け、口をしょぼしょぼとさせた。意味がわからない。
私が当惑していると、氏が軽く手のひらを打って、目を大きく見開いた。
「うん、疲れただろうし。ジョナサン、話でもしつつ、何か食べようじゃないか。お腹が空いているだろう?当然」
これは明らかに重要な話があるのだ。私は、「断崖絶壁に立った気持ち」にはならなかったが、それはどうやら、秘密が明らかになるのが遅すぎたような、ロマンス映画の終盤の倦怠感に似たものに満たされていたからだ。
「えぇ、わかりました」
私は氏の言うまま、やや重たくなった足を運んだ。そのついでに、フォンヤード夫人がクレタ嬢の背中に手をまわしつつ、「ごめんなさい…」と小声で言うのを聞いた。クレタ嬢の表情は暗闇で霞んでみえ、私は眼をこすり、突然始まった頭痛をこらえた。
食事はクリームスープからはじまり、鶏肉のサラダとシソ入りの堅いパン。それからオレンジのタルトが続いた。私は食べるのに年甲斐もなく夢中になり、氏の話が本題に入るのを意識的に遠ざけた。クレタ嬢はというと、状況がややこしくなるを予期したのだろうか、同じテーブルに着き、私の横で食事をとっていた。
久方ぶりに会った時の、あの意識喪失の症候はどこへ行ったのか、という感じだ。私は、だいぶ長いこと自分の買い物の話や、そこから自分の幼いころの話をし、フォンヤード夫人が、妙に甲高い声で、「あらそう」「素晴らしいわ」なんていう、短い相槌をいれるのを相手にしていた。
夫人も言葉少なだったが、氏は目元を青くしながら、私をつとめて見ないようにし、食べるためだけに口を動かしていた。そのため私は、終始、氏の堅そうな頬を見つめながら話をしていた。食後のコーヒーのカップが運ばれてきたところで、私は口火を切った。
「どうして私が突然ここへお邪魔したか、その理由をまだ、申し上げていませんでしたね」
その瞬間、フォンヤード氏と夫人は、手を止めて、息をとめた。クレタ嬢はわからない。
「私は、この国を出て、海を渡り、広い世界を見て来たいと思っています。いうなれば、長期の留学でしょうか。語学の関係もあって、共和国アメリカに行こうと思っています」
フォンヤード氏とようやく目が合う。「信じられない」という表情か。私は続けた。
「他意はありません。ただ、こんな勝手な男にクレタ嬢を、これ以上、つきあわせるわけにはいきませんから、お断りしなくてはならないと思うのです。私は行って、帰って来るかどうか、また、帰って来るのが可能かどうかわかりませんから、約束ができないのです。表向きには、どうかフォンヤード家から、私の様々な身体上の理由にしても、性格にしても、どうしても我慢のならない部分があったために婚約は破棄したと、言ってください。父も母も、また伯父も、そんなことを気にはしないでしょう」
自分でいざ言ってみて驚いたのは、私の今言ったことは、あまりに強引であり、すべて憶測の上に成り立っている、ということであった。
「それは…そのままの意味ですかな?」
フォンヤード氏は、ぐいと身を背もたれに預けて、怪訝そうに首をかしげる。
「えぇ、本当にそのままの意味ですよ」
私は小さく言い放った。次は夫人が言葉を挟んできた。
「ジョナサン…わたしが貴方のことを信じるから言うのだけれど、誓って娘のことを、その…ただ…」
夫人が何を言わんとしているのか、皆目分からなかった私は、クレタ嬢に救いを求めた。
「何のお話なんでしょうか。すみません。私には…」
クレタ嬢は眼を伏せたまま、手を膝の上に重ね、小さく口を開いて答えた。
「なんでもありません。母も父も優しいだけですわ。できれば私ひとりで任せていただきたかったけれど。もう、自律した大人ですのに」
私は彼女をまじまじと見つめたが、そこには、一輪だけ咲いた薔薇を思わせる、明確なあでやかさがあった。私は思わず息をのんで、言葉を返すのを忘れた。
「ジョナサン・ウィンチェスター、ジョナサン」
フォンヤード氏が、話しかけてきた。氏の眼は小さく潤んでいるように見えたが、一種の怒りだろうと私は即座に判断する。
「君は、私の娘との約束を、忘れてはいなかったかね。もちろん君のお父様の、自らの言動に対する責任感の重さ、堅実さは私の知っている範囲にある。しかし君は、君のことを私はよくは…直接には知らないのだ。知らないのだが、娘や妻の言うことを信用して、私は今日まで君をこの家においた。
だがどうだ? ますますわからん。約束は私と、君のお父上が、確かに効力があるものとしておいたはずだ。もう、十二年も前だが、たったそれだけの時間だ。私の人生において娘は、ずっと、娘だ。何十年経とうと、私にとっては娘を得た日はまるで昨日の出来事のように、喜ばしいことなのだよ、ジョナサン。
私は娘が喜ぶことを、たとえ、私が大したことの無い会計士の、ちょっとばかし儲けた男の息子だったとしても、出来ることを精一杯やってやりたい。そこに君は、たかだか数年の知識で、すべてを分かった気になって、知りもしない土地へ行って、知りもしない人間の間で暮らすと言うのか?狂ってるんじゃないのか、君は。娘のどこが不満だと言うんだね。娘がどんな気で」
「お父様」
クレタ嬢が止めた。フォンヤード氏はすっかり熱くなっていたが、娘の言うことが聞けないほどではなかった。私は、娘と父親の関係を、過去、自分の姉と父の間で見ただろうかと、ひとり振り返っていた。しかし、自分がその閉鎖的な関係を壊す「敵」になるとは、どうやら覚悟が足りなかったらしい。クレタ嬢が話している。
「良いんですの。私もジョナサンも、このままでしたら何も変われませんわ。ドナルディー伯爵さまの大事にされている、既に一度御結婚された、お美しく、賢明なローズ様が、たとえジョナサンのことを勝手に知って、勝手に想い人と定めて、人知れず、御自分の人気と権威に任せて、婚約者である私の意志を変えさせるために、私の唯一の友人を説き伏せ、更には、お母様にまでそんなことの片棒を担がせて。えぇ、もう充分ですわ。「うんざり」と表現させていただきたいですわ、ねぇジョナサン!」
急に自分の名前が呼ばれたが、私は彼女の言っていることで、「事実」が何なのかようやく理解したところだった。すぐには応えられない。
「ジョナサン。私、知っていましたわ、そのことなら。驚かないでくださいね」
私は何も言えないまま、唇を舐め、
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