Ⅴ.

二人で黙りこくって歩いてはいたが、どこに行くかぐらいは決めてあった。クレタ嬢は、既に生地を決めて仕立てを頼んでおいた服飾店へ、どうやら「最初から」出向く予定であった。


時間はとっくに昼を過ぎていたし、日も傾いて、ややマンダリン色に西の空が光りはじめていた。とはいえ、ロンドンに出てきたのだから、彼女と母親の用事に過ぎないようなことを、私が付き合うべきか、とは思った。


彼女にとって私がどのような人間であるか、それは彼女の思い込みに拠るとしても、私は何かしたいと思った。私にとって彼女がどういう人間であるか、特別な意味においてそれは、十分ではないからだ。


私はクレタ嬢の顔を、やや斜め後ろから観察していた。そうすることで私は、彼女が極めて静かな、稀なタイプの女性であると分かった。何より、観察の正確さは、対象が私を見つめない、ということにかかっている。彼女は私のほうを努めて見ないようにしており、私は好きなように彼女を見つめていることができた。

 

 見るものを喜ばせるような、控えめな額の張り具合から自然に導き出される美しい鼻の形、そして、ふっくらとした唇から、少し驚く、やや鋭角な口元の筋肉と、形のよい顎、それから長さの程よい首と、肩から背中にかけて、ことさら若い、負担をそれほど強いられては来なかったであろう骨付きが、申し分なく、まとう服を際立たせるであろうと思われた。

 

彼女の感情の起伏が見られる目元を除いて、これほど「問題」が見当たらないのは、やはり、稀なことだ。私は何度となく、彼女の可愛らしい腰元を引き寄せたい気に駆られたが、理性で押しとどめた。


服飾店へは、慣れた道なのか、一度も迷うそぶりを見せずに、歩き続け、気がつくと扉の前に来ていた。最近の、ロンドンの女客向けの商店は、パリを気取ってか、外装にまで男の気をどうかしようという誘惑で満たしている。


そんなところは、「悪徳」の看板を下げているように目に付き、私は近づくのも嫌だったが、彼女とたどり着いたのは、全くそのようなところではなく、むしろ紳士向けの服飾専門店のような、伝統的店構えであった。ドアも質素で間口が狭く、何より、何の店かわからないことがその特徴である。


クレタ嬢はドアに顔を近づけ、曇ったガラスから中を伺うと、どうやら安心したように、振り返って私に言った。


「いつものパンデニール婦人がいらっしゃたわ」


私はどういうことかよくわからなかったが、ドアを自ら引いて中に入る彼女の後について店内に入った。

 

中は期待通り、温かく、豪勢であった。けして広くはないが、居心地良く調度品のあれこれが似合いの場所におさまっていた。店内の色は濃い青、強いて言えば"ノーブルブルー"にほぼ統一されており、悪趣味な金メッキより、本物の銀を選んでいた。


「ミス・クレタ!」


子どもが三、四人は産み終えたのではないかというような、「丸く大きな」体格の女性が、狭い店内を飛ぶようにしてまっすぐ私たちの方へやってくると、一言も挨拶を交わさないうちにクレタ嬢に抱きつき、ロシア風の挨拶を交わした。


すぐに、それがロシア風に挨拶だとわかったのは、いうまでもなく母の生まれのためだ。私は自分が幼いころ、母が朝・昼、人前だろうと構わず、顔を合わせるたびに、やたらと頬にキスしてくるのを嫌って、そんなものはイギリス紳士の挨拶ではあり得ないのだと、子どもながらに母を叱るようなことがあった。私は久々の思い出の噴出にひとりで苦笑しつつ、クレタ嬢とその立派な夫人の様子を見ていた。


「パンデニール夫人、お元気そうでよかったですわ」

これはクレタ嬢だ。


「やだわ、ミス・クレタ。「ミセス・シューと呼んで」と前回お会いした時、わたし、貴女に言いましたのよ。いつまでもよそよそしいのはいけませんわ。あら、そちらの若い紳士はどなた?」


パンデニール夫人の、人に好かれそうな小さく、輝いた目に向って、私は怖じけることなく一歩進み出て挨拶をした。


「パンデニール夫人。私はジョナサン・エルナード・ウィンチェスター。ジョージ・ウィンチェスターの二人目の息子です。今日はクレタ嬢のお買い物に付き添わせていただきました。もう貴方に興味津々ですよ。お目にかかれてうれしい」

「あっら!」


パンデニール夫人は丸い目をいよいよ丸くして、クレタ嬢と私を交互に見やる。


「素敵な方ね! フランス風の挨拶を私なんかにしてくださるなんて、面白い方! もう、こんな商売をしてると「お堅いイギリス紳士」という先入観で見ちゃうけど、そうでもないのね!救われたわ、ミス・クレタ。貴女はピンクのミニローズだと思ってたけど、こちらのかたは・・・」


パンデニール夫人は私を見て、「あっ!」と気付くと、


「ごめんなさい。ジョナサン。あら、「ジョナサン」とお呼びしてもいい? ミス・クレタと一緒にいらっしゃるような方だから、許してくださるわよね? あぁ、肝心なことを! 爵位をお持ち?それならとんでもない失礼を言ったわ!」


そういいつつ、夫人はこの状況を多いに楽しんでいるように見えた。もちろん、悪意など微塵もない。あとでクレタ嬢から聞いた話では、どうやらどこかの名のある紳士に気に入られて本国に来たものの、こちらから愛想を尽かして「独立」してしまった、素性はよくわからないが、自由を愛する信頼のおける女性、だという。私は打ち解けて言葉を返した。


「いえいえ、伯父はともかく、私がそのようなものを持っているように見えますか?お気になさらず。「ジョナサン」で構いません」


「よかったわ、ジョナサン。宜しかったらあなたの服も見て行ってくださって」

「えぇ、有難うございます」


用事はすぐに済むと思ったが、私は店内の奥へと足を運んだ。パンデニール夫人はクレタ嬢に覆いかぶさるが張り付くように何事かを話している。クレタ嬢が何かを言っているのかさえ、夫人のむっくりとした背中のせいで見えない。


私はじれったく感じた。どうせ、私がどこのどいつか、なんていうことをクレタ嬢に確認しているのだろう。兄や姉、そして弟はそれなりに話のタネにも上ろうが、私の場合はすっかり子どものときから自由にされているせいで、社交界の知り合いなど、ろくに覚えていないのだ。てきとうに名前の一部を変えて自己紹介、なんていうのも、根気良くやれば通用してしまうのがイギリスだ。


私は、夜会服の生地だろう棚を見上げて感心しつつ、暫く考え事を中断した。右の棚と左の棚で紳士用・婦人用が分かれているらしい。私はクレタ嬢の住まいに長く滞在していることもあって、フォンヤード氏の若かりし頃の服を貸してもらっていた。本意ではなかったが、腰回りがゆったりとしているほかは、悪いものではなかったので、気にはしていない。


ただ、目の前のきらびやかな布を見ていると、こんなことで頭を悩ます機会にはついぞ遭遇することなくこの国から発つのかと思うと、なんだかせいせいする。


他の勲章持ちのお歴々や、期待に胸をふくらますデビューしたての貴族の少年、そしてとっくに遊び癖のついた私と同じくらいの男どもでさえ、服にはことさら気を遣うのだ。


バカバカしいと思う風習だが、仕方ない。金をかければかけるほど良いなんて、仕立てやが悪いのだ。彼らはいい客といい国に恵まれたものだ。私はほっと息をつきつつ、右の婦人用の棚に目を移す。やはりこちらも負けじと色とりどりで、紳士用と揃いのドレスが出来上がるのではと思われた。その中でも気になる色と光沢の布があった。私は思わず引き出して見たのだが、それは灰色がかった薄青で、あまり見ない色であった。その色で連想したのは、あの「ヒヤシンス」の毛の色だったが、私はクレタ嬢がこのような色身の服を持っていたかと思いだそうとした。


 あぁ!初めて会ったときにこのような色を着ていた。私はまじまじとその色を見つめ、おそらくこの色は彼女が好きであろう色と考えた。しかし…そうだ、あまり似合わない。


残念ながらこの色は、もっと年増の女性。そうだ、女王くらいの年齢にならなければとても着られる色ではない。それにしても、ませた色を好むクレタ嬢だ。私はクレタ嬢の瞳と肌の色を思い出しつつ、どんな色が彼女を引立たせるか想像した。それはすぐに見つかった。


新緑の色。若草のような弱弱しさなどからは無縁の、はっきりとした意思表示をする健全さ。知性。しかしお堅いのではなく、どこまでも人間らしく、柔軟で若々しい。新緑の色はそんなイメージを彼女にもたらしてくれるだろう。私はその色の布がまだ多くストックされているのを確認し、これで一着服を作ってやろうか、と考えた。


「ジョナサン!宜しいかしら!」


パンデニール夫人が叫んでいた。クレタ嬢の姿はどこにも見えない。なんだ?という顔を出私が応えたためか、夫人は笑って説明してくれる。先ほど私たちと入れ替わりに最後の客が出て行き、他に客がいないのが幸いだった。


「ミス・クレタを見てあげてください! なんだか困ってらっしゃるようで。婦人の服を買うのに付き合うのは初めて?ジョナサン」


もう私は夫人のそばまで来ていた。確かにどういう仕組みかは知らない。夫人の後について、仕立て部屋のさらに奥の部屋に向う。やや室内の光が暗くなり、夜会の明かりを想起させる色合いの光源が目に入る。


ひっそりとした暗がりに隠れたドアをノックと同時に開けると、柔らかな赤の絨毯の上に、クレタ嬢が、仕立て上がったばかりのドレスを着て立っていた。

 

一瞬、立ち入ってはいけないところに立ち入ったのでは、と思ったが。パンデニール夫人が私を押して、どうだ?という眼差しを送ってくるので、これがそういうことかと合点がいった。

 

クレタ嬢はというと、あまり喜ばしい雰囲気ではなく、もし間違いを怖れず言わせてもらうなら、どうにも「厭そう」であった。何が気に入らないというのは、彼女の、私を見る目に正直に答えれば、色もデザインも最悪だ。


まず、赤が幼稚すぎる。それに首回りから腕にかけての多すぎる襞が、彼女の若さを「これでもか」と散々な「やぼったさ」に替えてしまっている。


私は、あまり自分の物を見る目を誇りたくはないが、これはあんまりであった。こんなものを買う位なら、男物の新品の靴を五足買って、道に投げておいたほうが世のためである。他の女性ならともかく、彼女には絶対にありえない品だった。

 

私は目で不賛成の意をクレタ嬢に伝えたが、クレタ嬢はなにか、私の知らない事情があるかのように口を固く閉ざしていた。沈黙をはらって、パンデニール夫人が言う。


「どうですか? ジョナサン。あなたでもこのドレスのくらいはおわかりでしょう。どうか、言ってやってくださいな。お母様やお友達の趣味に合わせてドレスは選ぶもんじゃない。自分で見て、確かめて、それでも買うかどうか思案して、そうじゃなきゃだめだって」


 やはり、夫人は悪い人ではなかったようだ。私はドレスの悪趣味さが、クレタ嬢のせいではないことに察しはついていたが、まさか、母親と友人の趣味だとは。私は妙に腹立たしくなって、思わず口走った。


「こんなものを着られたら、私は我慢がなりませんね。いいでしょう、私が別のを貴女に買ってさしあげる」


この一言に、クレタ嬢本人より、パンデニール夫人が喜び、驚いたようだった。


「あら、じゃあ!いいんですのね?」


パンデニール夫人が、ぎゅっと力を入れた目で私を見ていた。その表情から出る威圧感はたっぷりで、これが若いころからの表情なら、さぞかし魅力的だったろうと思われた。私が「いいんだ」というように軽く頷くと、夫人は鼻の穴をふくらませ、大きな胸を張って、いまにも笑い出しそうに言葉を続けた。


「高いわよ! ミス・クレタを素晴らしくさせるドレスを作ろうと思ったら、覚悟しないと大変!いい?ジョナサン?」


夫人は手を叩いて飛び上がらんか、という様子だったが、さっそく部屋から私を追い出しにかかる。


「そうと決まったらまず、布ね?」


夫人の鼻息が荒く、私は男でもこんなに興奮した知人を見たことが無いと思っておかしかった。


「え?あぁ。そういえばさっき、良いのがあったんですよ」

いよいよ楽しくなってきた。


「あら、見せていただきましょう? あなたの目が本当に、正しいか」


私が振り向きざま目に入って来たのは、落ちつかない様子で、固まったままのクレタ嬢であったが、彼女を小部屋に残し、最初の部屋まで足早に戻ると、私たちは布地の交渉に入った。先ほど私が見定めた布地を基調に、結局六種類もの贅沢な布を買うことになった。


交渉の間、夫人はドレスのデザインばかりが気になるのか、値段のことは何ひとつ言わなかった。それが彼女のやり方なのかもしれないが、何分、自分の服はいつも後から金額を知っても、私の気にするべき事柄ではなく、必要経費として母が管理していたので、私にとってこれは、初めての法外な買い物になるだろうと思われた。


私は父や伯父、もしくは母の反応がどうであろうかと、途端に不安になったが、これまでの自身の質素な生活を振り返り、この先の贅沢を一度に使うようなものだから構わないだろうと、どうにか自分を納得させた。


なんだかんだと、日が暮れてしまい、二杯目のお茶を飲む頃には、くたびれた顔のクレタ嬢と、満足、満面の笑みのパンデニール夫人が、ようやく私のそばに戻って来た。


「きっと、女王様のパーティにまでは間に合わせますわ」

と、パンデニール夫人。


「女王様の?あぁ、そんなものがありましたか」


と、これは私。夫人は「呆れた」という顔をして私を見る。


「よくまぁ、そんな予定なしで。まぁ、いいですわ。ね、ミス・クレタ?」


夫人の問いかけに、クレタ嬢はやや微笑んで、私から少し離れるようにして立った。その挙動にやや不機嫌になる自分を抑えつつ、私は他の店員が持ってきた小切手にサインをした。


「また、いらっしゃってくださいね。ミス・クレタ。そしてジョナサン」

「えぇ、また今度」


クレタ嬢はそう言って夫人から受け取った肩かけを肩に装うと、すっと小さくなったように、先に扉を出て行く。


「ではまた」


クレタ嬢の様子を気にする夫人と、私は無理やりロシア式のあいさつで別れると、急いで彼女の後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る