Ⅳ.

昨日とは違って、私たちは二人で馬車に乗り込んだ。

御者は、フォンヤード氏とその夫人が出払ってしまっているために、慣れない農夫のチョムスキーとかいう男が、これまた馬車に慣れない二頭の馬の手綱をにぎった。図体ばかりは様になっていたが、予想のできない荒っぽい運転で、おかげで私たちはお互いこともできず、何度も驚いた顔を見合わせ、馬車の窓枠にしがみついた。四十分ほどだったろうか、笑いは絶えなかった。すっかり打ち解けた様子の彼女に、私も少し、くつろぐことができた。

 

船着き場につくと、よい天気につられて、同じ目的で集まった華やかな人々の影が多くあった。一人で来るには躊躇われる場であるが、今日は事情が違う。私は知人の姿が無いか、即座に見まわし安心すると、クレタ嬢に言った。


「あと二時間は馬車に乗らなくていいのかと思うと、ほっとしますよ」

「えぇ、ほんとに。「彼」にはかえって悪いことをしましたわ」


質素な外套はよして、今日のクレタ嬢は、薄黄緑の装いに、レース遣いの肩掛けを羽織っていた。似合っているかはともかく、装いが明るく、外出に前向きなのはいいことだ。彼女が失神することの多い女性であること忘れてはいけない。もし彼女が怪我をするようなことがあったら大変だ。


 空は晴れていたが、太陽光は強くなく、絵画のような雲が空の半分を隠していた。雄大な空とはまさしくこのようなものだろうと、私はひとりで満足した。一度も自分が来たことの無いところへ他人を連れてゆくという習慣は私には無く、「おそらく」クレタ嬢も満足してくれるだろうという、予想がついていた。


彼女は、私から付かず離れず、もっぱら人よりも景色の方に顔を向け、川面のうねる蒼を、ときどき、食い入るように見つめていた。私は乗客のほとんどが、良識のある人間であることを願った。まさか、彼女が何かを思いつめていて、それを私が見過ごしているなどという、そんな指摘をされたなら、この優雅な時間もおしまいだ。私は乗船してからはじめてクレタ嬢に話しかける。三十分はゆうに黙りこくっていた。


「クレタ嬢、お知り合いは見つけましたか?」

クレタ嬢は、肩かけを直しつつ、目を細めて答えた。


「いいえ、見ませんでした。社交が苦手なのもいけませんわね」

「まぁ…」


私は、自分もいっしょだと思った。苦手なことがあろうと気にすることは無い。ほかで補って余りあることもあるのだ。私はまた口を閉ざした。


「あら、お友達じゃありませんの?ジョナサン」


私が彼女の視線を見やると、確かに学友のケント・コーカショットが、その友達のモジーニ・ニコルソンというイタリア系の顔をした男を後ろに引き連れるようにして、やってきた。モジーニはとにかく大柄な男で、二人でいると、ケントは小さな愛らしい存在に見えた、だが、ケントは私より少し低いくらいだ。ケントは私の肩を叩くような勢いできたのだが、クレタ嬢に気付いて、距離をとって私に笑いかけた。


「やぁやぁ、ジョー。今日は珍しいじゃないか、紹介してくれないのか」

「いや、こちらは僕の婚約者の、ミス・クレタ。フォンヤード氏の一人娘だ。クレタ、こちらは僕の…と、言うまでもないだろうが、ケントと、それからモッジーニ」


ケントとモッジーニは帽子を脱いで、かわるがわる挨拶をした。クレタ嬢はやや不安げに、私と彼らの顔をみやって、肩を下げた。ケントは自分の資質をひけらかすことの無い、感じのよい人間である。ただ、すでに私も気付いていることなのだが、男の前ではうまいことをいって笑わすのが関の山であるのに、ことさら美人の前では、あれやこれやと饒舌になる癖があり、そのせいでひんしゅくを買うこともあった。私はそれが嫌味に思うことはなかったが、ケントの眼にクレタ嬢がどう映ったかは、すぐにわかった。


「あぁ、クレタ嬢、あなたはおきれいだ。ジョーが何かしたとは思えないなぁ。こいつはとにかく堅物でとおってる。酒も煙草もどうゆうわけだが、気に入らないときた。でもね、人の気を良くすることに長けてるから。こっちも気付かなくて、あれよあれよと酒をつがれてね、困ったものさ。いや、ほんとにジョーは隠し事がうまい。こんな素晴らしい婚約者がいながら、一度も大学に連れてきたことがないじゃないか。ジョーは壁の花をきめこんでて、それで女には困らない。ほら、あのミルトン教授の祝賀会でさ…」


「もういい、もういいよ、ケント」


私はケントの口に手をやる様にして、なんとか黙らせた。モッジーニも何か言いたそうにしていたが、ケントが黙るとすかさず言った。


「クレタさん。あなたの美しさは霊妙だ。男が秘密にしておくには、ふさわしい女性だ。ジョーとはいつから?」


「私が子供のころからですわ。五つでしたかしら。もう私、十八になりますの」


モッジーニは口髭を触りつつ、少々驚いた様子で、クレタ嬢から私に目を移した。

とっさに私は、モッジーニが何かを疑っていると感じた。「なぜまだ結婚していない?」とでも言いたげな黒く、意志の強い目だった。


「いやぁ、お邪魔しちゃいけない。クレタ嬢、どうか楽しんで。ジョーが学問の話ばかりで肩が凝ったら、いつでもお付き合いしますよ。では」


ケントは耳まで真っ赤にして、興奮した様子で立ち去った。モッジーニも、「イギリス紳士らしく」努めたようで、何も言わずにそのままケントと話しながら向こうへ消えた。


「男二人で遊覧船とは。ケントに会うとは思いませんでした」

「そうですか?お二人、たしか同じウィリアム教授のチームに入ってらっしゃるんでは?考古学研究の権威の」

「えぇ、そうですね。もしかしたらその付き合いですかね」


私はそういいつつ、背筋の寒い思いがした。なぜ彼女は、私の大学とその交友関係のことを、本人である私よりも知っているのか。私は我慢できずに尋ねた。


「クレタ嬢、私の大学に来られたことがおありで?」


クレタ嬢は、目を瞬かせ(しばたかせ)て、「何の話か」という様子だったが、「あっ」と、思い出したようにして言った。


「私の通っていたスクールで、お友達になったフラレンスのお母様が、あなたの大学の学長のリテリア・マックビール侯爵と昔からのお知り合いとかで、それで話を聞きますの」

私は「答えになっていない」と、追求しにかかった。


「いいえ、そういうことではないんです。まさか、リテリア侯爵が僕のことをあなたのお友達のミス・フラレンスの母上にお話しするんですか」


「いいえ、ミスではなく、ミセス・フラレンスですわ。そうです。リテリア侯爵は、海軍大将もお勤めでしょう?だから、あなたのことを御存じなのです」


私は納得がいかなかったが、クレタ嬢の眼付と、態度がいつになく堅固であったので、それ以上は無理に思えた。リテリア侯爵は、大学内ではあくまで「教授」か、もしくは「リテリア氏」と呼ばれることを好む、変わった方だと聞き及んでいたが、私は氏の講演以外に、会ったことなど無い。元来お忙しい人だと聞いている。


それにしても、さっき、クレタ嬢は私よりも先に、ケントに気付いた。彼が私の知り合いだと、写真を見せた覚えもない。クレタ嬢と私は、この一週間より前は、本当に名目的な関係でしか無かった。私は彼女の友人など、今聞いたミセス・フラレンス以外は、人っ子一人、名前さえも知らないのだ。

 

とたんに所在なく感じた私は、川面に目を落とした。わずかだがそうしていると、風を頬に感じることができた。


「どうしたのですか、ジョナサン」


クレタ嬢が右わきに寄り添った。


「いいえ。ただ、ここ一週間ほど、抑えていた癖が出てきたんです」

「癖?」

「えぇ。いいかげんで曖昧なことを、すべて明らかにしたいと思ってしまう、癖です。私はどうも、思いついたことを色々と言ってしまわないと、自分が、おかしくなってしまうんじゃないかと、そんな強迫観念があって。だめですね。クレタ嬢はどうですか?」

「私…ですか?」


私は、クレタ嬢が口をつぐんだ様子を、あえて確認しなかった。自分の言っていることが、もとより矛盾していることがわかったからだ。私はどうやら言えなくなってきている。重要なことだ。彼女に言わなくてどうする?


しかし、そうさせているのは、何も私の気分だけでは無い。彼女だ。日が経てばたつほど、彼女がすでに「知っているのでは?」という疑念が強まって来る。彼女は私に直接言わないで、「告白」を急がせる術を知っている。私はもう少しで屈しそうであった。私はもう何も言うまい、と考えた。


「私は…」

クレタ嬢は、私の気持ちとは関係の無いところで、話を続けようとしていた。遊覧船はもう少しでロンドンに到着で、にわかに人がうるさくなってきていたところだった。

私はにぎやかな街並みに目をやった。クレタ嬢が大きく息を吸い、思い切ったように言葉をついだ。 


「私はずっと秘密にしておきますわ。だって、すべての事柄の理由や意味を日のもとにしたところで、現実には、あまり意味がないことですもの。どうして打ち明けられたからといって…何かが変わりますの?私はきっと変われませんわ。それどころか、そのせいで相手の心を失うことになったら、私は、後悔しますわ」    


私は「はっ」として彼女を見、一方、彼女は私から目を背けた。そのとき私は、肝心なことに気がついたのだ。

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