Ⅲ.
次の日、私はノックの音で目を覚ました。やはりソファーで眠ってしまっていた。背中が痛んだ。
「昼食のお時間ですがいかがしますか?」
ドアの外から聞こえる声は確か…女中のメアリだ。いつも忙しく動き回っている。目まいを感じつつ、立ちあがってその声に応えた。
「申し訳ない。フォンヤード氏にいますぐ行くと伝えてくれ」
てっきりもう行ったものと思い、シャツを脱ぎはじめたが、まだ居たようだった。
「フォンヤード氏はいらっしゃいません。クレタお嬢様がどうしますかと、訊いてくるように言われましたので」
私の眼は、間違いなくそれでしっかりと開いた。
「わかった! クレタ嬢にあと三十分もあれば伺うと、伝えてくれないか。本当にすまない。いま起きたところだ」
どうしたのか。寝過ごすようなことはまず無いのだが、寝た場所が悪かった。私はバタバタと支度をし、二十分ほどで部屋を出た。
ダイニングに着くと、そこにはクレタ嬢が、まだ何も載っていないテーブルにひとり着いていた。
「申し訳ない、クレタ嬢。寝過ごしてしまって」
席を立ち、私を迎えてくれたクレタ嬢に私は心から謝った。クレタ嬢は晴れやかな顔で、しかし、まだ起きたばかりといった顔を向けて微笑んで言った。
「実は私も寝過ごしてしまって、母において行かれました。こんなこと今までありません。どうぞ」
席に着き、一応の格好はついたものの、自分が常日頃と変わって、考えなしに動いてしまっている事に気付いた。だいたいなんで、彼女と二人で昼食を? 昨日は外であったから仕方ないが、今日は彼女の家だ。まだ早くは無いか?
クレタ嬢は、と見ると、そんなことにはお構いなしの様子で、紅茶に口を付けていた。
青く湖のように澄んだ瞳には、まだはっきりと、眠そうな気配が漂っており、あまり彼女を驚かすようなことを言うべきではないと思われた。
食事がすみ、そのまま甘いものが運ばれてきた時にやっと、私は口を開いた。
「あの、クレタ嬢。昨日はどこかお出かけで?」
クレタ嬢はすうっと、目をあげ、僕を見ると不思議な顔をした。
「一緒に博物館に行きました。とても楽しかったですわ。それとも…」
彼女は、はたして人の心を見抜く得意があるだろうか。私は、じっと彼女をみつめた。クレタ嬢は、ゆっくりと瞬きをした。
「なんだか、不思議ですわ。あなたと二人でいるなんて」
彼女はようやく、フォークの先に目を落とす。薄いカラメル色の髪が、頬にかかって日の光に輝いた。
「ごめんなさい。夢と現実の区別がつかなくなるほど、「薬」を飲んだんですわ。もちろん、止めなくてはいけない悪習です」
私はそれを、比較的正直な「自白」とみるか、巧妙な「アリバイ」の提示と見るか思案した。夜になれば…そうだ。月の美しい夜遅くに、娘がひとりで出歩くなんて正気じゃない。それとも彼女は、隠れた狂人の仲間なのだろうか。
私は、無礼にも彼女に「兄の臭い」を探したが、私の限られた想像力は、それを嗅ぎつけなかった。
「どうされました?」
彼女はクリームのかたまりを口に運ぶ途中であった。
「いいえ、何も」
私は内心で勝ち誇っていた。彼女、すなわちクレタ嬢のイメージが、にわかに具体的に、この小さくせまい私の胸の内にも、形を成し始めていた。思っていたほどに「自我の無い」、「自分の望みの無い女性」とはまさに、彼女のことであり、その色香の無さは、彼女の容姿の上での美しさを十分に損なって余りある。
"飢えている"という形容が、公には決して適切ではないことは認めるが、女性たちにとってその真実こそ、唯一公平なる魅力の
なぜこれまでクレタ嬢がヴェールの下に、声ばかりの交際を私に求め、私もそれ以上の期待を「露ほども」しなかったのか、これではっきりとしようものだ。
私の欲は、今にも彼の国へ向けて溢れんばかりであるのに、彼女ときたら、小鳥ほどにも若くはなく、少女ほどに無知では無いはずであるのに、この
「クレタ嬢、食事が終わったら、遊覧船に乗って対岸観察でもしませんか。もし御用事が無ければ、ですが」
空にした皿をテーブルの端へ寄せて、私は言った。クレタ嬢もあと一口、というところだった。
「えぇ構いませんわ。でも…」
「でも?」
私は少々彼女の方へ身を乗り出した。彼女は反対に、のけぞるように椅子に身をあてがい、遠慮がちに答えた。
「そろそろご自宅に連絡した方が宜しいのでは? お母様も、お父様も御心配なさっていらっしゃるかも」
クレタ嬢は、この期に及んで「らしい」ことを言ってのけた。一瞬、彼女の顔は新品の皿のように見え、「表情」が、まったく読み取れなかった。私はこう言って返した。
「それは大丈夫です。三日前に母には手紙を書きましたし。失礼ながら、あなたを待つ必要があったものですから、クレタ嬢」
彼女は少し遅れて微笑む。
「それならいいんですの。あら、ヒヤシンス」
あの猫がおでましだ。私はつくづく遠慮したい。姿を目にするだけでも嫌なのだ。猫に引っかかれた記憶のせいだろうか。猫に膝に乗られるくらいなら、犬にかまれたほうがいくらかましだ。
「どうしたの、ヒヤシンス? ご飯は食べたわよね」
ヒヤシンスは「ニャァ」と小さく鳴いて、尻尾をふり、「イエス」と答えたようだ。私は妙な気分でその猫を見やった。クレタ嬢は腕を伸ばして、ヒヤシンスの頭を掻いてやり、ことさら嬉しそうにほほ笑んだ。
私は、あらためて思った。婦人の笑い方には、一万の方法と意味が隠れていると。しかし、それら重要であるはずの笑みの意味は、当の本人にも曖昧なままにされ、「ほほ笑む」という行為は、次から次へと使い捨てられる。
私は、ヒヤシンスが「わかっている」とばかりに私の方には目もくれず、背中を向けて歩き去ってゆくのを見送った。クレタ嬢に視線を戻す。
「私は猫が苦手で。申し訳ない」
「はい?」
我に返ったように私を振り仰ぎ見たクレタ嬢は、「まぁ」といいたげに、口を開けた。少しの間があり、彼女は首を小さく振って、指を合わせた。
「それはいけませんわ、あの子が、御迷惑をおかけしていなければいいんですけれど。何か、あの子がお部屋にお邪魔をするようなことでもありまして?」
彼女の、わざとらしくも少しうろたえた様子に、私は口元を隠して笑みを浮かべ、
「いいえ、絶対にそんなことはありません。おとなしくて」
と、話を終わらせることにした。彼女も、冗談を笑うように目じりを下げ、穏やかに言った。
「本当に、不思議ですわ」
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