Ⅱ.
私はそれから3日、クレタ嬢の
もうじきに、この温和で口数の少ない、それでいて恨みごとの多い人々の視界から消えようと言うのだ。
私はいつも我慢していた。なんでも明らかにしたがるのが私の性質で、それはどう訓練してもどうにかなるものではなかったのだ。それを誰もわかろうとはしない。立った一言でいい。
「なぜあの花は昨日はあったのに、今日は無いの? もしかして女中が引っこ抜いたんじゃないの?」それくらい言ったっていい。馬鹿じゃないのだ。誰が花を盗んだか知っている。その痕跡だって少しみればわかるのだから。しかし母も父も言わないし、姉などはそんな話を聞こうともしない。まるで聞こえないふりをして、季節がよいのだとなんだのと、当たり障りのない話で心を落ち着けようとする。
私は、あらためて自分の国の「国民性」というものに腹が立った。「そうだ、それもいやだった」と、私は故郷からの離脱の理由を見つけるのに
「今日の朝は、何を食べましたか?」
フォンヤード氏は、訊かなくてもよいことを私に尋ねる。
「えぇ、珍しく今日は卵を食べました。とてもおいしかった。新鮮なもので?」
「えぇ、そうです。とかく新鮮で。そうでなければあんなもの、お勧めできません。
バターの方がずっとましですよ。」
笑みをたたえて、氏は食堂の方へ帰って行った。今朝は一緒に食事をとらなかった関係で、確認する必要があったのだ。私がどこか他所へ行かなかったか、でなければ、きちんと私が客人の対応を受けているかどうか、ということを。
しかし、妙な聞き方だとは思わないか。私でなくとも夫人に訊くような訊き方だ。私は、庭に咲いている薔薇の仲間の名前をほとんど夫人に尋ねあげてしまっているので、今日はそれらに
意味がない。くたびれる仕事だ。私はクレタ嬢の姿を思い出そうとしたが、うまく思いだせなかった。初め思ったほどには、私は女性たちに興味が無いらしい。気味が悪いことだ。しかし、ことの重要性から言って、
彼女には悪いが、「憎らしい女」とでもみなせば、私はさっぱりできるだろう。アメリカ人は、殊に、「さっぱりと言う」ことに美徳を認めているらしいから、それがいいだろう。
さんざん悩んだ挙句、およそ遠回りなことを言って、もし都合よく解されたりなどして、向こうも遠慮がちに、「えぇ、そのようなことだと思っていました」なんて、何の真実味もないことを言われたりなどしたら、それこそ私が、いたたまれない。悔いを残すことになる。悪いのが誰か解っていて、どうして追及しようとしないのだろうか。
誰が責任を放棄し、誰が自らの自由を最大限にしようと、他人の自由を脅かして平気でいるのか。そんなこと、心のうちで留めておいていいことなど、何もない。社会にとっても、ましてや国の正常さを維持するにも、こんな腐敗を生むような精神性は他にはないのだから。
だから私は帰ることができない。あたかも、宿の代わりにクレタ嬢の城を使い、御両親には最大の気をもませ、私は悠々として、哀れな婚約者が現れてくれるのを持っている。当然、彼女が急に倒れたことは彼女に謝らせて、それからだ。
「今日はあまり風がありませんでしょう。ですから娘も出てくるかもしれませんわ」
「はぁ」
夫人がそのように言ってベランダを見やった。少々疲れているようにも見えたが、気のせいだろう。テーブルの下に今さっき猫がもぐったのを私は見ていたが、夫人は気づいていない。私は夫人の注意を喚起するように、強めの口調でこういった。
「猫を飼ってらっしゃるんで?」
「あぁ」
夫人ははたと、私のほうを見て言った。
「友人からもらいましたのよ。娘が「ヒヤシンス」と名付けましたの。尻尾の色は灰色がかっているんですけれど、光の加減なんかでは薄紫にも見えて。まぁ、静かな猫ですわ。娘ほどにも手がかかりませんから」
夫人がこのように言い終わるころ、テーブルの反対側からその「ヒヤシンス」はでて行った。確かに何もしない。ただ、何か言いたげだ。私は人間よりも猫の方が苦手だった。ましてそれを、女性方が胸に抱いたりなどしているのを見ると、無性に嫌な気分になった。いったいその気味の悪い動物は何を考えているのか。猫が女性の秘密の唯一の理解者であり、そして代弁者であるように見えた。
「ところでジョナサン、あなたゲートボールはお好き?」
夫人は期待のこもった眼で私を見やった。腕に覚えがあるような、そんな体格の持ち主である夫人を前にして、私はこう返した。
「いいえ、初心者のレベルですよ。こちらに滞在している間に夫人に教えて頂きたいくらいで」
夫人は、さも驚いた、というように手を組んでこう答えた。
「私が教えてさしあげてもいいのだけれど、娘の方がいいでしょう?でなかったら主人が。あ、でも今日はフランスからのお友達と猟に、明日は銀行に行くって言ってたのよ」
夫人は頭のなかで、フォンヤード氏の予定をもう一度並べ直していた。私はクレタ嬢が運動を楽しんでいる光景を想像できなかったが、この夫人の娘なら、やはり実は違うのかもしれない。
「ジョナサン、あなたは今日、どうするの?」
夫人は親しみをこめて私の名前を呼ぶのを、どうやら楽しんでいるようだった。
「私は…図書館に行こうと思っています。もし気が向けば博物館の方にも足を伸ばそうかと」
「そう」
夫人は満足げだった。私は何か夫人の隠れた意図があるのかと、いぶかしんだ。
予感はあながち当たるものだと知ったのは、私が曇り空を見上げながら図書館から出てきた時だった。見覚えのある馬車が停まっている。それはそうだ。クレタ嬢がその馬車の前に立っていた。
まず婦人が馬車の外で男を待つなんて言うのは、聞かない話だ。それに病人というか、四日前に気絶した人間のすることじゃない。私はあわてて彼女の前に走りよった。
「あの、クレタ嬢?」
私はその女性がクレタ嬢では無いことをなぜか期待してしまった。いや、「気付いたのだから」いうまでもなく彼女なのだが、本当に、濃いブルーの外套を身にまとって、細く伸びた影のような存在の彼女に、私は心底、おそれを感じ取った。何か恐ろしいことをしてしまった。そうでなければなぜ、こんなにも彼女はじっとわたしを見つめているのか。
「ジョ…ジョナサン?」
彼女も私に、私の名前を尋ねるように私を確認した。彼女は目深にかぶった同じくブルーの帽子から、形の整った赤い唇だけを印象的に、顔を上向けて、私の目を捉えていた。
「えぇ、私が…そうです」
私は、目を逸らしたいとこれほど思ったことは無い。何だろうか、彼女からもこの国からも逃げようとしている私を、彼女が決死の覚悟で追いかけてきたようだ。彼女の顔は静かに冬の景色のように、ただ、とても夢想的なベールが覆っているように輝いて見えた。雪のようにちらちらと目のなかに光が散ったような気がして、私は思わず、今がまだ春であったことを記憶から確かめてほっとした。
彼女は二言目を言わずに、私の次の言葉を待っていた。あわてて答える。
「クレタ嬢、お加減はいかがですか。私の方は…なんともありません。ただ今日は向学心が収まらず、貴女を放っておいて無愛想な記号の羅列に、つまらない…自分の顔を見せにきてしまいました。すみません。まだてっきりお休みになっていると思っていましたから」
「いいえ、そんなことは…私の方こそ、もう起きていられるほどになっていましたのに、恥ずかしくて、いつあなたにお会いしたらいいか、分からなくて…でも今日は博物館に行かれると聞いて、御一緒しようと思いました」
「はい、それでは…クレタ嬢がよろしいなら御一緒に」
そのあとは何事もなく、彼女と談笑しつつ図書館から歩いて目的地へ向かった。博物館までの距離はそれほどでもないのだ。フォンヤード夫人が言ったように風が凪いでいるおかげで、クレタ嬢が風に飛ばされるのではないかという気遣いは無用であったことも幸いした。
昼過ぎには彼女と簡単に食事を済ませたあと、博物館のあれこれを見て回り、彼女は口数の少ない、よくいるようなお嬢さん方と変わらぬ様子で微笑んでいた。満足した様子で、他に何かを求めているようでもない。私はこのまま博物館から帰ろうともちかけるのが難しいのではないかと思ったくらいだ。だが心配は無用だった。
「ジョナサン、そろそろ家へ帰りましょうか」
クレタ嬢は何気なくそういい、私は反対しなかった。馬車に乗るときと降りるとき、考えなしに差し伸べた手を、クレタ嬢は迷いなく取った。私はひどくそのせいか緊張して、馬車のなかはともかく、夕食から自分の部屋に戻るときまで、ふわふわと落ち着かなかった。
もしかしてクレタ嬢をはじめ、フォンヤード氏、フォンヤード夫人、手伝いの者まで皆、私が海を渡るつもりで、帰ってこないことを知っているのではないか、そんな疑心はほぼ確信にかわりつつあった。
まだ私の渡航も、国籍の問題も、認可が下りているわけではない。めどがたつのはせいぜい二週間後、確定するのは二カ月も先だ。あぁ、そんなことを考えても無駄だ。彼女たちが知っていることが十分にありえることも、また、実際知っていてもどうしたことか、と腹をくくっているはずの自分も、その大事な自信を失っている事に気付いた。寝るに寝られず、私は窓辺に座って月を眺めていた。窓際にソファーがあるのは、いいことだった。そのまま気にせず夢を見ていたって、構わない。
うつらうつらとしないまでも、気分がぼんやりとしてきた時分だった。私は夜の闇に、動く明かりが窓の下(つまり庭のほうだが)に突如出現したことに目を覚ました。何だろうか。もしかして良からぬ者が入り込んだか、それとも使用人か。それにしても時間が時間だった。後者は無いと思われた。
私はソファーから身を乗り出すように、窓に額をつけ、目を凝らした。どうやらきちんと明かりをとるランプを掲げているようで、その腕は白く細かった。そうだ、クレタ嬢に間違いがない。フードのようなものをかぶっているのだろうか。腕以外には彼女を判断するものがない。
動きも昼間よりも増して、俊敏な気がした。「彼女」は庭を横切って、広い畑のある方へ歩いて行った。それだけしかわからない。私は何とはなしに、彼女が怪しげな黒魔術の類、いわゆる秘密の集会に出向いたのではないか、そんな馬鹿げたことを考えた。社会的に地位もあり、際立って優美に見える人間ほどそのような裏があるものだ。
彼女にそれほどの度胸と図太さがあるようには全く見えないのは、百も承知で、ただ、私は自分の想像力のくだらなさを笑いたかっただけだ。ありえない、彼女がいったい何をしようというのだ。こんな平和な家に生まれ、何を願うだろう。それもリスクの高い願い事を…私は最後まで考えるに至らず、深い眠りに落ちた。
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