Ⅰ.
私は「あぁ」といって生まれた瞬間から、教養を強く欲していた。だから、他の裕福な子女たちと肩を並べ、うるさい教師どもに頭をたれる頃には、大抵のことを知っていたといえる。
そのせいで、大いに煙たがられたが、おかげで、幼少期より、私は私のために時間を使うことができた。
父は、私がそれほどできのいい息子とは思わなかったようで、反発するたびに、教師たちの「お気に入り」になることが最良なのだと言い、これが生きていく知恵だと教えた。しかし、そんな人形じみた毎日を送るための処世術など、私にとっては余計だった。
そんなこと、周囲の人間の様子を、二日、三日、真面目に観察していればわかることだ。日ごろの注意深さは、すべての学びにつながる。私は独学を主とした。そして父にも教師にも、私のことに口を出さないよう、言いふくめることに成功したのである。
どこか頭のおかしい兄と、きれものでありながら甘んじて「女」を受け入れた姉。そして飛行機に夢中になっている弟と、自身の見栄えが悪いのを始終気にして家族に寛容を求め続ける妹。どうでもよい兄弟たち。
姉は、私が幼いころは私の手をひき、フィールドワークの面白さを教えてくれたものだが、私が立派に二本の足で歩き、馬を駆れるようになる頃にはすっかり家に閉じこもる生活。母は、男だてらに外交だといって、奇抜な世界のあれこれをまくしたて、家には時折しか姿を見せない癖に支配者気取りであった。
父は、母を英国人にしたつもりが、ただのロシア女を借りただけだと知り、母のことは放任している。確かに政治についての知識は父よりも母の方が勝っており、その点では、父の古びた社交界の模様に耳を傾けるよりも、母の取り留めのない、うっかりすると聞き逃してしまうようなスラングの意味を拾っている方が私にとっては有用であるように思えた。
私の家族は誰も「哀れ」ではなかったが、互いに共感を持ちうる関係にはならないと定められていた。まぁ、なんでも結論を先取りしてしまうのが私の最大の欠点であると言われれば、どうしようもないが。
私が十八になったとき、兄がとうとう官憲に引っ張られるという、ちょっとした騒動があった。兄は二十六であったが、それも仕方がない。婚約者にすでに気の無いことを知らず、式の段取りまで母にさせていたのだから、兄の失意はたとえまともでない頭でも十分にこたえたはずであった。母は「よくあることだ」などといって、また別の家の婚約話に身を浮かせに行ってしまったが、兄は、どうやら自分が何をする予定で在ったのか、忘れてしまったようだ。
婚約者のところに押しかけるということは、馬車もひとりで乗れず、徒歩で行く道も知らないために無理だからか、事実兄はやらなかった。ただ、日曜の朝の野菜市で、売り物のキャベツを一つ残らず、もちろん唐突に無断で、地面に叩きつけて何事かをわめきちらす、という暴挙をやってのけた。なぜキャベツだったのか、なぜ朝の七時に路傍の朝市で思いが募ることがあったのか、私にもわからない。
幸い、兄はアルコールを飲んでいなかったので、傷心の結果として多めに見てもらえた。帰って来た兄は、疲れた顔の父と姉をよそ眼にパンケーキをたらふく食べ、まだ不機嫌な様子だったが、すぐさま伯父の家に、半ば強制的に連れて行かれた。
伯父は兄に優しく、また背の高い城柵をもった城に住んでいるので安心だからだ。姉は、なんのきっかけだったのか、兄の騒動から一カ月も経たないうちに旧家の家の年下の男の家に嫁いだ。私は姉の夫が私と同じ歳であることを知って、その男と面識のなかったことを喜んだ。あまり出歩かない男らしい。庭いじりが人生で最高の幸福だとかなんとか、結婚後一度家に招待されたが、勉学のためとか何とか言って、断わった。姉は幸福らしい。ふと私が姉のことを思いだす頃になると、手紙をよこした。
私は順調に大学で文学と政治学、そして兵器製造のメソッド、戦術論などに関心をもって学んだ。弟は私より早く、母の親せき筋の道楽家のところにいい娘を見つけたと言って、結婚すると同時に飛行機の設計の仕事に就いた。
兄は、伯父の家と自家との間を行ったり来たりしているうちに、イタリアに魅せられたとかいって、そのままどこかへふけてしまった。父は、放浪癖のある家系だから仕方がないとか言ってそのままに、母は八方手を尽くして探してみたが、どうやら名前を変え油田を掘っているとか、信用のおけない情報をつかんだきり、パタと兄の話はされなくなった。
そして私が二十になるころには、落ち着きのない妹と私と父、そして足が痛むようになってから家にいることの多くなった母と、それっきりになった。当然私は次のことを考えた。結婚したいなどと言う希望は大学に通う同輩たちと同じく、まだまだ年寄りになってからと考えていたし、何よりも仕事である。私はずっと英国にとどまっているつもりはなかった。
「父さん、私はアメリカに行きたいのですが」
父はクリームスープにパンを浸して口に運ぶところだったのをやめ、何を言ったのかもう一度私に尋ねた。私はくり返し、念を押すように今度はゆっくりと言った。
「父さん、私はアメリカへ行って、陸軍にはいり、できれば世の中を見たいと思っています」
父の穏やかな顔はだんだんと驚いた顔になり、顔色が変化しとうとう赤くなった。思いつめた顔だった。
「おまえは・・・またなんてバカなことをしようというのだ。一体何を勉強している?ん?アメリカがどういうところだか知っているのか」
「もちろん」
私は、この時期にアメリカに渡らねば、その後二十年は行けないだろうと考えていた。この国の対岸では何やら物騒な秘密主義のもとで、着々と平和の崩壊が始まっているし、何にしてもヨーロッパ人が国を超えて信用などできるはずもない。それならばいっそ、アメリカに行ってしまった方が、軍事力にしても戦法にしても、大胆に勝算を勝ち取ることができる。イギリスとアメリカ、関係がこじれる前に私は移りたかった。
父は何度か大きく息を吸い、考えをめぐらせていた。私はそれがアメリカ人の伯父に手紙を書いて、私を陸軍に入れてもらえるよう算段を考えているあいだだと期待しつつ待った。
「おまえは、戻って来るつもりがないんだな?」
「・・・はい」
たしかに未練が無いわけではないが、どうしてこんな家にいることができるだろう。このままいけば家の主になり結婚して貴族をやり、よしんば派兵されることがあっても戦場では厄介な客人の待遇になんの面白みも無く、あとは結婚できて子どもが残せれば、「これ人生の幸福」としなければならなくなる。
私は先が見えることに興味を持てない性質だ。私は椅子に着き、冷めたスープに波紋が浮かぶのをみた。妹が鼻息荒く、私を睨んでいたのだ。私は妹を正直相手にしたことがなかったが、このときばかりは微笑んで見せた。
妹は怪訝な表情のあと、みるみる泣き顔になり、涙をぽろぽろとこぼし始めた。私は婦人が泣くような場合、優しくしてやるのが義務であることをわきまえてはいたが、惜しいことに、妹は目をふせて涙をこぼすという、それだけの違いも忘れてしまっていた。こんなにも堂々と泣かれたら、男の方もたまらないだろう。私は妹に真新しいハンカチを手渡し、それで足れりとした。
「ジョナサン、母さんの伯父さんに手紙を書いて、良ければ・・・良ければだぞ。行けるだろう。それが叶わなかったらいいな。黙って大学に行くなら好きにいけばいい。だがこの家から、この国から出ることはこれから先、一度も許さない。いいな」
私は父が頭ごなしに断わらなかったことを感謝した。伯父なら大丈夫だ。いつか二年前ほど会った時は、私に来てほしいと本気で言ってくれていた。伯父はアメリカ陸軍の大将をつとめている。私は進路が切り開けそうだと高揚した気分で、残りの食事を胃におさめにかかる。
「ところで…」
父がことさら言いにくそうに切り出した。
「ミス・クレタにはもう言ってあるんだな」
「あぁ…ミス・クレタ…」
私は自分の手落ちをうらんだ。そうえいば、といった程度だが、私には婚約者がいたのである。ミス・クレタは恥ずかしがり屋だとか、顔の見えない帽子やベールを身につけ、まず、どうあっても私に近付かないという戦法で私をじらしにかかっていた。
そのために、彼女の存在さえ、ぼやけて感じられて、今まで思い出しもしなかったのだ。少々私は自分の夢に夢中になりすぎていた。彼女は間違いなく障害である。うまく断わって、果たしてそのまま破談になってくれるか。
「はい、ミス・クレタには前々からお話をしているので…」
「私にも言わなかったことをミス・クレタに?」
「えぇ…まぁ…彼女は素晴らしい聴き手ですから」
その場ははぐらかし、私は早々に席を立った。だが私のアメリカに対する思いはその夜には母の耳にも届き、母は夕食後に二人だけで話をしようと私を呼んだ。母の出方が読めなかったが、しぶしぶ従った。
「ねぇジョナサン。あなたは多分この家を継ぐ予定だったのよ」
「えぇ、そうでしょうね、でも妹がいます」
「そうね。わかってるわ。でもお父さんが何のためにあなたに勉強させたと思って?この家を任せたいから。そうでしょう?」
「えぇ、わかっていました。でも、私は我慢がならないのです。行かなくてはならない気がするんです。ここの平和は私の肌に合いません」
「そう…」
母は、目の端に悲しみを浮かべて笑って見せる。
「やっぱり私の息子だわ。居てもたってもいられないのよね。確かにあんまりよくないわ。イギリスにとどまっていて、どこまでやれるかしら。アメリカとは仲良くやらないといけないわ。でもそれは国同士のこと。あなたが行くというのは止めないけれど、結構大変よ、国が違うのは。同じ言葉を話し、同じ肌の色をしていても違うことはいっぱい見つけられてしまう。荒探しをされると覚悟しなさい。あなたが強いのは知ってる。やれる?」
私は母の言葉が心地よく響くのに、何か、自分の心境が起因していると考えた。母方の親戚を頼るのだから。母とは縁が切れることはない。しかし戦争になった時、母はこの国に居て間違いなく異邦人だろう。それをどうにかできるのは私ぐらいでは無かったか。
母はもう覚悟を決めているようだった。そうでなければ、これまでもこの国でやってこれたはずがない。私は、母に初めて申し訳なく思った。
「母さん、伯父さんに迷惑を掛けないように精一杯やります。ご心配なく。私は十分この国に育てられ、また、まだまだ若いですからアメリカ人にもなれます。きっと」
母は私の手をとり、ぎゅっと力を入れた。私は同じだけの力で握り返し、涙をぬぐった。
翌日の昼過ぎ、父か母かわからないが、ミス・クレタに会いに行くための馬車が用意され、彼女に渡すプレゼントまで準備されていた。
私は大学が長期の休みに入り、伯父の手紙が帰って来るのにかかる日数と、それから、大学が退学を受け付け、役所が出国の手続きをやってくれるのが二カ月も先になるのもあって、しばらく自由にやるつもりだった。私はこの最後の休暇を「ミス・クレタに捧げよ」と言われたのだと判断した。
ピンク色の縞のリボンのかかった大きな箱は妙に軽く、何が入っているのかと私は振って見たが、わからない。開けてはならないと出かけに妹に言われたので私は興味が募るのをおさえて、ミス・クレタの開けてくれる瞬間を待つことにした。ただ、もし私が彼女と結婚しなくてはならないようなそんな誓約文でも入っていないか、そればかりが気がかりだった。
彼女の屋敷は私の屋敷からまるまる馬車で二時間かかる。私は馬車が好かないし自転車で行けば速いものをと、着いたころにはほとほとうんざりしていた。日が長いのでまだ外は白く日の明かりに輝いていたが、季節が違えばとうに夕暮れ。私は何か間違ったかもしれないと、彼女の屋敷の変わらぬ老いた執事が出てくるのをみながら、後悔した。
「ウィンチェスター様、長い馬車旅、お疲れ様です…」
「あぁ、いいんだ。たいしたことはないよ」
そう言っている間にプレゼントだけが先にメイドによって彼女の元へ行く。
「あぁ、ミス・クレタはいらっしゃいますか」
私は彼女が出迎えることなど無いとは思っていたが、事情が事情だけに、気が焦った。
「はい。クレタ様はお茶の時間でして、できればそこにいらしてほしいと」
「うん、じゃあ、その場に」
私は彼女がその場に両親に囲われて座っているのではないかと、そればかりを想像した。幼い感じの彼女は、話すのを他人に任せて黙っている方が得意なのだろうと、私は思っていた。彼女との付き合いは、十年以上になるのかなと、いまさらながら少し驚いた。
「こちらです」
招かれたことのない、小さな喫茶室であった。緑の配色と明るい花の模様が、贅沢に、しかし品よく装飾の献身的な域を出ていない。部屋の内装にこだわった覚えのない私だったが、感嘆した。
「ミス・クレタ。突然お邪魔して申し訳ない。危急の用があり、参りました」
明るい日差しの下に円形の茶卓と、ブルーのテーブルクロス。彼女は予想に反して一人きり。花嫁衣装を想起させるような白っぽいドレスに身を包み、緊張した面持ちで立っていた。左右の手を握り合わせ、平常を装っていたがもしかして口がきけないほど高揚しているのではと、私の方は一息ついて、身構えていた自分をいさめる。
「申し訳ない。危急の用とは言いましたが、貴女とお茶をしに来ただけです。それだけですから、どうか気を楽に」
彼女との間はそれでもまだ10mはあった。それ以上近付くのに彼女の同意が要る様に思われた私は、彼女に請うしかなかった。
「よろしいですか?お邪魔しても?」
彼女はしばらくじっとしていたが、小さな声で「どうぞ」というのが聞こえたので、私は遠慮がちに彼女のテーブルへ向かって真っすぐ歩き始めた。彼女は微動だにせず、立ったままである。もしや人形ではと私が思いかけ、彼女の顔が明らかになろうというときだった。ふにゃりと彼女の姿勢が崩れ、そのまま無防備に床に倒れ伏した。
「クレタ!」
私は思わず駆け寄って、彼女を抱きあげる。どうやら彼女は気絶したようだ。だが私は同時に驚いた。彼女は美しいのだ。なぜいままで近くで見ることができなかったのか、その理由が分かったような気もした。そしてまた、彼女との婚約を破棄しようというときになってこのことに気付くという、その人生の皮肉にも「参った」と言わなければなるまい。
私は彼女がこのまま目を覚まさず、寝物語の姫のように恋人を待つヒロインになってくれればよいのにと思った。私は彼女の顔に見入ったまま、少なくともいまは自分が小人役でいられることを喜んだ。
「どうされました?」
扉の開く音がして、メイドが一人、駆け寄って来る。私は夢を振り払ってメイドにクレタの様子を見せる。
「あら、クレタ様また気絶を…すぐにアルコールをお持ちします」
「うん、頼む」
クレタ嬢はたびたび気絶をするようだ。では、社交の場で彼女が最後まで立っていたのは、奇跡と言うほかない、彼女の「頑張り」の結果だったのだ。気力の強い女性は嫌いではないと自分に言い聞かせ、自分が、彼女を諦める身だということをもう一度確認した。
クレタ嬢は自室に運ばれ、私は彼女が回復するまでといいつつ、彼女の茶室で、それから庭と図書室の散策に時間を費やした。その間彼女の両親とも顔を合わせて、とりあえず世間並みのことを会話の種にし、決して穏やかならぬ空気を漂わすことはないように気を付けた。どちらにしても婚約の話は、彼女本人にしてからでないと、自分にますます誠意がないように思えた。
「ジョナサン、今日は泊っていくかね。娘は仕方がない。起きてこない。これから帰るのも大変だろう」
クレタ嬢の父親であるフォンヤード氏が尋ねる。
「えぇ、そうですね。ご迷惑にならなければ…クレタ嬢のことが心配ですし」
私は、後ろめたい気を隠して婚約者を演じることにした。
「いやいや、娘はいつもああなのですよ。初めは飼っていたアヒルがいなくなったとき。おそらくイタチかなにかにやられたんでしょうけど、白い羽根が落ちているのをみて気絶です。まぁ、感の鋭い子なんですが、行きすぎることが多くてもう少し、どんと構えていないと、このご時世、そう安穏ともしていられないでしょう。私は不安でなりませんよ。ああも「か弱い」と。はっはっはっ…何が起きるかわかりませんからなぁ」
もしやフォンヤード氏が、私のことをどこぞで聴いて知っているのではといぶかしんだが、そのようないやらしさは、氏に認められない。私は安心して言葉を続ける。
「いいえ。ご婦人がたにとってあのように「か弱い」部分をお持ちであることは、一つの魅力でしょう。それに、いつかのマリアンヌ夫人のパーティでは素晴らしく毅然としてらっしゃって、あのような気力の持ち主であられるのですから、御心配はいらないでしょう」
私は素直な気持ちからそう言った。彼女にはおそらく賛辞が足りない。私が感慨深く過去を振り返っていると、フォンヤード夫人がその話のあとをついだ。
「いえいえ、あのときは初めて着たドレスで、サイズが合わなかったらしくて、倒れるにも倒れられないほどで。あのときは、ほとんど立ちながら気絶していたようなものですわ。私はもう、はらはらして…。いつか失礼なことにならないかと気をもんでいましたのよ」
「そうですか、それは可哀そうな」
彼女の姿が母親の目にはそう映っていたのかと、おかしくも可愛らしくもあった。
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