第2話

 放ったほんの僅かなブレスで、この場に居た人間達は跡形もなく消滅した。

 竜が放つ威圧感に暴れていた馬たちも、ブレスが吐かれた事で大人しくなる。

 それを見た竜は緑の眼に慈しみを浮かべ、目を閉じる。

 瞬間、森の木よりも大きな竜身が縮み、大柄な人と変わらぬ男性の体躯へと変わる。

 髪は鱗を移したような黒で、尖った耳のやや上の方からは白金色が黒くくすんだ色へと変わった角が左右に二本生えている。

 喉には逆さに生えた鱗と、鋭いかぎ爪が生えた人と変わらない大きな手。そして尾てい骨から伸びる太い鱗がびっしりと生えた尻尾。

 鍛え上げられた体躯はどこからか現れた服で覆い隠され、閉じていた眼は開かれる。

 先ほどの竜と同じ、縦に避けた瞳孔を持つ緑の眼を瞬かせながら興奮している馬のもとへと向かう。

「悪いな、怯えさせて」

 低い声音に優しさを乗せて、彼は宥めるように馬を撫でる。

 馬はその声音と手のひらに安心したのか、鼻を鳴らしながらゆっくりと落ち着いていく。

 それを見た彼はもう一頭の馬へと近寄り、その鼻面を撫でて落ち着かせてから深い溜息を吐く。

 その後に棺の傍へと大股で歩み寄り、屈みこんでまじまじと観察する。

 ほうと感嘆の溜息を吐き、彼は棺の表面を撫でる。

「……精霊樹の特性を生かした透かし彫りに、それを強化するミスリルの金具と、内箱か。すげぇな」

 これだけで、大きめの国一つが買えるだろうと確信できるほどだ。

 そう呟いてしまうほど、この棺の価値は高い。

 だが、彼は少し眉根を寄せる。

「解せねぇ……もう一つ、俺の鼻に引っかかるモノがあるはずだ。そっちの方が、極上だったはずなんだが」

 彼は形の良い鼻を引くつかせ、匂いを探るような仕草をする。

 目を閉じて探し物の匂いを一心に嗅ぐ彼は、気が付いた。

 目の前の棺の匂いに混じって、自身が極上だと感じた甘く優しい香りがするのに。

 緑の眼を凝らし、彼は棺を凝視する。

 そして、棺の真ん中に緻密な細工に紛れて魔法陣が描かれているのに気が付く。

 この魔法陣に魔力を通して解呪しなくては、この棺は決して開けられないと彼は推測し舌打ちする。

「この細工が壊れるのはいただけねぇんだが……な」

 ぼやきながらも、目の前の棺の中に眠る極上の“宝”を見たいが為に、人差し指の爪先だけを魔法陣の上に当ててほんの僅か、水滴ぐらいの魔力を通す。

 これ以上の魔力は、棺を壊しかねないという自己判断だ。

 事実、水滴ほどの魔力を受けた魔法陣は強烈な光を放ち、自壊寸前になっている。

「もう少し加減するべきだったな……」

 思わずそんな反省をしつつ、彼は棺に掛けられた強烈な鍵が解けるのを待つ。

 飽和状態の魔力はゆっくりと精霊樹の透かし彫りへと流れ、彼の特徴的な魔力へと染まっていく。

 そしてその魔力が棺に馴染んだと同時に、ゆっくりと鍵の役割をしていた魔法陣の光が消えた。

 手も触れていないのに棺の蓋が音もなく開き、中を彼の前に晒す。

 白く輝く天鵞絨が棺の内側に張られ、そこに横たわるモノを柔らかく受け止めていた。

 彼はそのモノを見て、息を飲む。

 青く輝く黒髪を持つ小柄な少女が、棺の中でまるで眠っているかのように目を閉じ納められていた。

 肌は白磁のように白いが、生きているようには見えない。

 事実、真っ白な薄手のネグリジェを持ち上げている胸はピクリとも動いていない。

 良く出来た人形のように見えるそれからは甘く優しい匂いが香り、彼の鼻腔をくすぐる。

 触れれば壊れてしまう繊細な砂糖細工を前にしている様な心持になりながら、彼はそろりと手を伸ばす。

 鋭い爪を意識して短くし、できるだけ己の指先だけでそっとその頬に触れる。

 硬質な感触を返すと思われた頬は柔らかく、ふにっとした弾力を持っていた。

 滑らかな肌の感触はしっとりとしていて、馴染むように心地よい。

 残念なのが、肌が冷たいという事だ。

 小さな卵型の顔に配置されたパーツはバランスが良いが美人と言うよりも愛らしさを感じさせ、彼の眼を和ませる。

「人形遊びをする趣味はねぇんだが……な」

 自嘲気味に呟きながら、彼は閉じられた目蓋を親指の腹でそっと撫でる。

 眼の色が見たい、そんな事を思いつつ彼はそっと手を離そうとした瞬間、少女の胸が大きく動く。

 大きく息を吐き出し、白かった肌が血の通った健康的な色へと見る見るうちに染まる。

 唐突に生きた人間そのものの挙動を始めた事に目を瞠った彼は、やっと気が付く。

 少女が眠っていた棺の表面が、彼の魔力の色から元の精霊樹特有の色に戻っていた。

 魔力が霧散したのではなく、どのような細工なのかこの少女に魔力が注がれたのだ。

 慌てる彼の目の前で、ゆっくりと少女は目蓋を開く。

 そこから現れた目はまるで極上の青玉の様な色で、彼はごくりと喉を鳴らす。

 少女は凝視する彼を見て、ゆっくりと数度瞬きをしてから無表情で口を開く。

「おはようございます。私はケイン・ベルフェルナーに造られし、シア・セプテムです。よろしくお願いします、マスター」

 無感情に、無表情にシア・セプテムと名乗った少女は彼に告げる。

 人間味が全くない、生きた人形の様なその姿にゾワリと彼は肌を泡立たせる。

「おめー、は……なんだ?」

 剣呑な声音での問いかけに、少女は淀みなく応える。

「シア・セプテム。製作者ケイン・ベルフェルナーの魔術的知識を全て持つ、人造人間です」

 シアの言葉に、彼は額を押さえ呻く。

 それを見たシアは彼の体に手を伸ばし、問いかける。

「どこかお加減が悪いのですか? マスター」

 人の温もりを持つ手で触れられ、人間味の無い声音で気遣われた彼はゆるく頭を振る。

「……お前は何のために、この棺で眠っていた」

「私はその問いに対する解を持ちません。製作者ケイン・ベルフェルナーの意図をご説明いたしますがよろしいでしょうか?」

「……ああ」

 彼は何とも言えない表情で頷き、抑揚のない声音で紡がれる答えを聞く。

「製作者ケイン・ベルフェルナーは私以前に六体の“シア”を造りました。しかし、制作者ケイン・ベルフェルナーはその六体全てを破壊、破棄しています。その理由は“娘と同じ顔で違う人格を形成した”からです。それ故、最後の“シア”である私は制作すると同時に魔術的知識とそれにかかわる知識全てを焼き付け、起動させる事無く棺に納めました。制作者ケイン・ベルフェルナーは己が死した後、私が目覚める事を望みました」

 シアの話の内容に、彼は物凄く不快になる。

 造ったとはいえ命である事は間違いない。その存在をいとも簡単に消し去るそのケインと言う製作者に対して、憤りを覚える。

 しかし、そんな彼の表情を気にする事無く彼女は語る。

「この棺は私の機動用のカギになると同時に、マスターに相応しくない者達から守るための物です。この棺すら開けられない者には、私のマスター足り得ないと制作者ケイン・ベルフェルナーの遺志が反映されています」

 説明を終えたのか、シアは口を閉じじっと彼を見つめる。

 しかし、彼女の手はフルフルと震えながらも彼の体に添えられたままだ。

 憤りを感じていた彼はそれに気が付き、シアの手を握る。

 赤みを取り戻していたその手は、いつの間にか冷えていた。

 よくよく見れば、棺の中の彼女の体も小さくカタカタ震え、血色が悪くなっている。

「お前、寒いのか?」

「はい」

 彼の思わずの問いかけに、シアは頷く。

 そして彼は思い直す、彼女が寒いのは当たり前であると。

 季節としては秋真っ只中のクミル小の月半ばだ、体が震えるほど寒いのは当たり前だ。

 深く嘆息し、彼は体を起こす。

「悪かったな。おめーと俺の体の作り自体がちげぇからな、すっかり忘れてたぜ」

 そう言いながら、彼はひょいとシアを片手に抱き上げ棺に手を振る。

 これだけで、棺が消え去る。

「指定の場所に物体を移動させる物質転移の魔術」

 ほんの僅か一瞬で構築された魔術を見て、シアが瞬時に言い当てる。

 彼は彼女の魔術的知識はかなりの物であると確認できた事に嘆息しつつ、空に円を描きそこに手を突っ込む。

 肘まで消えた腕を動かす彼を、シアは無表情で凝視している。

 無表情ではあるが、先ほども今もシアは驚いているのではないのかと彼は思い至り小さく笑う。

「あの棺はこんなところに放置していいもんじゃねぇからな、俺のねぐらに送った。で、おめーはこれを羽織ってろ」

 そう言いながら、青い外套と大きな背負い袋を空中から取り出す。

「空間に穴をあけ、特定の場所と繋げた……?」

 シアの淡々とした問いかけに、頷きながら袋を地面に置き外套をシアに掛ける。

 青い外套を縁どる刺繍は外套よりもわずかに濃い色で、地味ながらも趣味のよい品物だ。

 しかし、シアはそこでは無い所に価値を見出す。

「魔術が付与された外套ですね」

「ああ。おめーが寒いままだと困るだろ。少しばかり大きいが、我慢しろ」

 事実、この外套は彼の体躯に合わせて作られている為かなり大きい。

 それを見越して、彼はシアに外套を着せた後もう一度空に手を突っ込んでブローチを取り出し、それで襟元を少しきつめに引っ張って留める。

 それでやっと寒さがある程度遮断できたのか、体の震えが小さくなる。

「とりあえず、馬車の持ち主を消しちまったからな。どうしたもんか……」

 二台ある馬車を見ながら、彼は小さく呟く。

 シアはその呟きに応えず、ただただ彼を見ている。

 その視線に気が付いた彼は片眉を上げ、シアを見る。

「なんだ?」

「マスターの固有魔力は記憶いたしましたので、お名前の登録をお願いします」

 抑揚のない声音での願いに彼はああ、と頷き眉を潜める。

「おめー、もう少し普通に喋れねぇのか?」

「口調などを変えるには人格形成が必要になります。今の私には自我や人格形成のロジックに鍵が付けられており、どのような経験をしても人格を持つという事はありません」

 シアからの返事に、彼の表情が険しい物へと変わる。

 そんな彼の表情をじっと見つめるシアは、言葉を続ける。

「“娘”の顔をした違う人物が出来る事に耐えられなかった製作者ケイン・ベルフェルナーにとって、この措置は当然の事かと」

 淡々としたその言葉に彼は瞳孔を細め、シアを睨み付ける。

「おめーは、それでいいのか!?」

「私は当然と認識しております」

 シアの返事に彼はぎりっと奥歯を噛みしめ、次いで深い息を吐く。

「おめーのその、鍵とやらをどうやれば外せる?」

「マスターの名前を登録後、遺伝情報を追加で登録する事で私の全てはマスターの物になります。その後、マスターの魔力を私の心臓部に流し、制作者ケイン・ベルフェルナーの魔力を消し去る事が出来れば製作者ケイン・ベルフェルナーの権限を削除する事が出来ます」

「遺伝情報とやらの登録の仕方は?」

「推奨するのは口吻にて私がマスターの咥内粘膜を採取か、性行による精液の採取です」

 淡々と告げられた言葉に彼は眉間に深い皺を寄せ、片手で額を覆う。

 愛らしい少女の容貌を持つシアに口吻をするか、精液をくれなどと言われてはどう反応していいものか困るのも当然であろう。

 彼はシアを抱えながら背負い袋を片手で持ち上げ、三人乗れば一杯になる程度の馬車に近づく。

「とりあえず、ここに座って待ってろ」

 眉根を寄せて不機嫌その物と言った表情を浮かべながら、彼は荷台に背負い袋を乗せ大型の馬車へと近寄っていく。

 その間も彼は極上と判断する匂いを何度も確認し、シアから流れてくるのを再確認してへこむ。

 彼は己の鼻がかぎ分けるのは、財宝だけだと信じて疑っていなかったのだ。

 同じ竜の中には絶世の美女や傾国の美女と呼ばれる種類を浚い、飼う奴らもいる。だがしかし、彼にはその手の女性を財宝として判別する事は一度としてなかったのだ。

 彼の鼻が利いた財宝は装飾品、魔道具、宝石、武具など芸術品としてではなく実用的な物ばかりであった。

 シアが収まっていた棺にしても、自身が入れるわけではないが素晴らしい芸術作品であると同時に中のモノを守る事に特化していた棺だ。

 魔道具としても超一級のそれは、彼にとって十分財宝と判断できた。

 だがしかし、人形のような少女・シアは財宝として判断するのは難しい。

 愛らしい容姿だが、人間味の全くない作られた人間。

 一体彼女の何に、自身の鼻が利いているのか不思議で考え込んでしまう。

 だが、いつまでもこの場所に居ても仕方が無いと気持ちを切り替え、彼は大型馬車をひく馬の手綱を持ってシアを座らせている馬車へと戻る。

 己をじっと見つめるシアの視線に居心地の悪いものを感じながら、彼は告げる。

「俺は、洋太郎だ」

「洋太郎……異世界人の中でも“日本人”と呼ばれる者達に似た名前です」

「ああ、俺の名前は異世界人に付けてもらったんでな。しかし、おめー一発で俺の名前を正常に呼んだな」

 この世界の住人は、異世界の“日本人”が用いる名前を正常に呼ぶのが難しいのだ。

 付けられた本人はそれでも、繰り返し名付け親に発音を確認したので呼べるのである。

「製作者ケイン・ベルフェルナーは異世界で稀代の魔術師と呼ばれた者でした。製作者ケイン・ベルフェルナーの知識に“日本人”が用いる“日本語”を使用した“陰陽道”と言う魔術に近い術式があります。“陰陽道”を正確に操る為に“日本語”の正確な発音が必要ですので……」

「分かった、それ以上の説明はいらねぇ」

 シアの長い説明を遮り、洋太郎と名乗った彼は嘆息しつつ問いかける。

「で、登録とやらは終わったか?」

「はい、マスター洋太郎。遺伝情報も登録し、自我・人格形成を望みますか?」

 洋太郎は転がり落ちるようにシアを身請けする事態になっている事に深い嘆息を零し、口を開く。

「その前に聞くが……俺がお前を捨てた場合、マスター登録とやらはどうなる?」

「どうにもなりません。マスターが私を捨てたとしても、私のマスターは変わりません。マスターが死んでしまわない限り、私のマスターはマスター洋太郎です」

 たとえどうなろうと、シアは洋太郎に仕え続けると断言する。

 シアのこの無機質ではあるが、健気と評されるような性質に渋面を浮かべる。

 彼女がここまで無機質で人間味がないのは、制作者であるケイン・ベルフェルナーと言う男のせいである。

 文句の一つでも言ってやりたいが、シアの口ぶりからこの男は既に死亡しているのだろう。

 そこでふと、彼はシアがケイン・ベルフェルナーの生い立ちを語った事を思い出す。

「異世界で、稀代の魔術師……」

「はい。製作者ケイン・ベルフェルナーは異世界で稀代の魔術師と言われる程の天才でした。こちらの世界でも評価は変わっておらず、三十年ほど前に新興の魔術流派を設立し始祖として精力的に活動しておりました」

 間髪入れず、シアはケイン・ベルフェルナーの功績を語る。

 そしてその内容に、洋太郎は得心がいったと頷く。

「冒険者ギルドで、少しばかり情報を集めねぇとダメだな」

 洋太郎は二百年ばかり、寝床で休眠していたのだ。

 最近の世情に疎くなるは仕方のない事であり、責められる筋合もないだろう。

 シアはそんな洋太郎を見ていても反応せず、ただ彼の言葉を待つだけの状態だ。

 会話とは言えないこの状況に洋太郎は深い溜息を吐き、シアの前に立って頤を持ち上げる。

「おめーは俺の財宝だからな、面倒見てやるが……今のままなのはやりづれぇ。俺が許す、自我と人格を獲得して人間らしくなれ」

 そう言いながら、洋太郎はシアに口吻をする。

 するりと洋太郎の口腔にシアの舌が侵入し、何かを探すように蠢く。

 口吻をしながらも洋太郎もシアも目を閉じず、互いの眼を見ている。

 数分ほど経ってからシアの舌が引っ込み、登録が終わったのだろうと判断した洋太郎は唇を離す。

 相手が意志ある人間であれば情熱的と評される舌の動きはしかし、実際は事務的な手続きの一つだ。

 洋太郎はその事に若干の苛立ちを覚えながら、シアを見る。

 その視線を受けたシアは外套の前を開け、自身が着ているネグリジェのボタンを外し裸の胸を彼の前に晒す。

 ネグリジェからまろび出た形の良い乳房に洋太郎は何とも言えない表情を浮かべるが、シアから漂う匂いが濃くなった事に気が付いた。

「心臓部に魔力を通してください」

 シアに促され、洋太郎は胸の谷間のやや左側に指を這わせる。

 洋太郎の鋭敏な感覚が、シアの鼓動を感じ取ると同時に目を見開く。

「……心臓、だと?」

「はい。私の心臓は血液を全身に運ぶポンプの役割をしていると同時に、私の動力そのモノである魔宝石を内蔵しております」

 洋太郎の思わずと言った呟きに、シアは淡々と言葉を返す。

 そしてその言葉で、洋太郎は自身の鼻が何に対して財宝だと判断したのか気が付いた。

 シアの動力と言う魔宝石が、彼女の命そのものが財宝だと感知したのだ。

 洋太郎は謎が解けた事に対して安堵の様な、疲れたような溜息を吐きながらシアの華奢な体を掴んで固定する。

 そのまま彼女の心臓部の上に唇を寄せ、舌を使って魔力を流す。

 舌先に感じる肌の味は、酷く甘い。

 洋太郎はその事に目を細めながら、ゆっくりとシアの心臓部に居座る誰かの彩を持つ魔力を己の魔力で塗り潰していく。

 この行為がシアに負荷をかけているのか、彼女が小さく喘ぐような吐息を零す。

 生体的な反応なのであろうが、イケない事をしている様な心持になってくる。

 同時に、シアの心臓部に内蔵されている魔宝石が素晴らしい物だと洋太郎は目を細める。

 彼の魔力を受けて、ひび割れする事無く全てを受け止めているからだ。

 シアの中に巣食う他者の魔力を塗り潰した洋太郎は、ゆっくりとそこから唇を離しシアを見る。

 無表情ではあるが、頬を紅潮させ洋太郎を見返すシア。

 それを見て洋太郎はにやりと笑い、説明しようと口を開くシアを遮る。

「説明はいらねぇ。それより、これでおめーに自我と人格が出来るんだな」

「はい。けれどそれは、今すぐではありません。時間をかけ、人の営みの中で形成していくものです」

 自我や人格は、今は殆ど無いと言っても過言ではないシア。

 赤ん坊から育てるように、シアの人格を育てていかなくてはいけないという事に洋太郎は若干げんなりとした表情を浮かべる。

 だがすぐに表情を切り替え、シアのネグリジェのボタンを留めはじめる。

「いきなり出来上がるもんでもねぇか。とりあえず、俺の事は洋太郎と呼べ。マスターを付ける必要はねぇぜ」

「はい、洋太郎」

 あっさりと呼び捨てにするシアに洋太郎は苦笑を浮かべつつ、彼女の外套を直してから大きな馬車をひく馬の手綱を小さな馬車の後ろにある幌の柱に結ぶ。

 それから荷台に移るようにシアに指示し、自身は御者台に座り馬の手綱をとる。

「とりあえず、近くの町に行くぜ。この馬車を届けるのと、おめーの服を用立てる必要があるからな」

「浄化の魔術で服を洗浄する事が出来ますので、服は不要です」

 洋太郎の言葉をさらりと否定するシアだが、彼は深い溜息を吐いて言う。

「俺が甲斐性無しに見られるからな、それは却下だ」

 そう言いながら、洋太郎は馬に合図を送り殆ど草に埋もれかけている道を歩かせる。

 鬱蒼と茂る草や太陽を遮る木々の間を器用に馬を歩かせながら、洋太郎はとんでもない拾い物をした事に嘆息を零すのであった。

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