第5話 魔獣襲撃
翌日、ノラはケンと共にモーリスの執務室を訪れていた。
執務机にはモーリス。傍らにはアドンにコナー。皆ノラの報告を待っていた。
「ごめんなさい。私でも魔獣が何か分かりませんでした」
三人は一様に失望した様子なのは言うまでもない。人を失望させることにノラは慣れていた。でも、何度やっても胸が詰まるように苦しいのは変わらないし、残念がるモーリスが父と重なった。
「そうか。分からないなら仕方ない。魔獣が出たらすぐに呼ぼう。それまで、できるだけコーラスメラに居てくれ。上町の方だ」
「分かりました。ホテルにいますので、よろしくお願いします」
ノラは沈痛な面持ちでケンと共にモーリスの執務室を後にした。
「そんな落ち込まないでくださいよ。ただ報告書を見ただけじゃないですか」
ケンは明るい声でノラを励ました。
「ええ。でも、何か分かれば良かったのですが」
「大丈夫ですよ。ノラ様だけじゃなく、モーリス様やコナー様だって分からないのですから。それに、ノラ様はまだ実物を見たことがないのでしょう?」
ノラは弱弱しく頷いた。
「ええ。遭遇できるといいのだけれど」
報告書を見た限り、魔獣の出現に規則性があるようには思えなかった。
一日に二度も出ることもあれば、二ヶ月間全くでないこともあった。ある月は四度出たのに、次の月は十五回も出たこともある。年単位で見ても、出現報告はばらばらだった。
「ケンさんは軍人でしょう? 魔獣を見たことはありますか?」
「いやー、自分はまだ新入りの身でして。この町を出たことすらありません。専ら市街地の巡回ばかりをしていまして」
まだここ、コーラスメラの町は魔獣に襲われていなかった。
報告書を見ても、場所が何かあるように思えない。ここが襲われていないのは運が良かっただけだろう。
「それじゃあ、私の護衛ってつまらないでしょう」
「そんなことありませんって! いつもの仕事と違うんで面白いですよ」
「でも私はまずホテルの部屋に居ますし、何か変化があるわけでも……」
「それなら話を聞かせてください。ノラ様って、魔術師なんでしょう?」
ケンの目が輝いていた。
そういえば、王都でもアカデミーの黒いローブを羽織って街を歩くと、子どもたちがそんな目をノラに向けてきた。
アカデミーに入るまで、街中は馬車で移動していたから、始めはそんな視線がこそばゆく、戸惑った。けれどいつの間にか日常となり、気にしなくなったのだ。
魔法を使うには、生まれながらの素質、遺伝的要素が関わる。なければ、魔法とは無縁の人生を過ごすこととなる。
ノラがそういうことを知ったのは、アカデミーに入ってからだった。
「魔術師の話、ですか?」
「ええ! 聞きましたよ。あのセイトリームを魔法で四羽も仕留めたんでしょう? すごいですよね!」
「ご存知なんですか?」
「もちろんですよ。自分たちの中じゃ話題なんですから」
ノラは自分の顔が熱くなるのを感じた。
こんな風に話題になるなんて滅多にない。照れ臭かった。
そしてそれから一週間、まるで何も起きず、ただただ時間だけが過ぎていった。
ノラはホテルの一室で窓の外に視線をやった。
読みかけの本の内容は頭に入っていない。文字を目で追いながら、焦り、不安ばかりに捕らわれていた。
明日で試験期間が十日目になる。このまま魔獣にも遭遇できなかったらと思うとぞっとする。
きっと一度くらいは……。とは思うものの、それで倒せるかというと、分からない。アカデミーで受けた問題を解いていくだけの試験がどれだけ気が楽だったか。ノラは不安気な顔で一つ、ため息を吐いた。
廊下の向こうから近づいてくる足音。誰かが急いでいるようだ。ホテルの従業員かと思いきや、その足音はノラの部屋の前で止まった。
そしてノックより先に声がする。
「ノラ様、いらっしゃいますか!?」
ケンだった。ずいぶん走ってきたのか、荒い息遣いも聞こえる。
「どうしましたか?」
ノラは本を閉じて放り、ドアに駆け寄った。
「魔獣が、出ました」
「本当ですか!?」
ノラは慌ててドアを開けると、真っ赤な顔をしたケンに当たりそうになった。
「どこですか?」
「ここです。コーラスメラに出ました」
「魔獣はコーラスメラの郊外に。それからこっちに向かっています」
ケンがノラの先を走り、ホテルのある、上町の城壁を目指した。城壁に上り、遠くからやってくる魔獣を迎え撃とうというわけだ。
しかし、さすが新人とはいえ本職軍人である。本にかじりついてきた見習い魔術師はとても脚力で敵わない。ケンもたびたび振り返り、遅れているノラを気遣ってくれたが、焦れた。
ケンはノラの手首を掴む。
「痛かったら、言ってください」
ノラは返事もできず、ケンは再び走り始めた。
ケンにつれられてようやくたどり着いた赤みを帯びた城壁の上で、ノラはリンゴのように真っ赤な顔で息を乱していた。
「おいおい、大丈夫かよ」
待っていたアドンが渋い顔をする。
「ま、魔獣は、どこに?」
息を切らしながらも、やるべきことはやる。ノラはアドンを見上げた。
「あそこだ」
アドンが城壁の向こうを指差した。
目で追うと、黒い塊がナメクジのように這いながらゆっくりとコーラスメラに向かっているところだった。
「何あれ」
思わずそう零すほど、魔獣は奇妙な姿をしていた。
確かにノラは報告書を読んだ。だが、文字を追うだけで得た情報と、実物とではまるで違う。
大きさは馬を横に二頭並べたほどらしい。
だが、その体の輪郭は妙にぼやけていた。ぼやけている、というよりまるで黒いもやがかかったように見える。
これも報告書にあった通りだ。
「やっぱり見ただけじゃ分からねぇか」
アドンがノラの反応を見て、言った。実物を見たら、もしかしたら何か分かるかも知れないと思ったのだろう。
また期待に応えられなかった。
ノラの心がじくりと痛む。
魔獣はゆっくりとコーラスメラを目指している。コーラスメラから、馬に乗った兵士たちが槍を構えて飛び出した。
魔獣が城壁の外に広がる下町にたどり着く前に何とかしなければならない。下町には上町のように城壁などないのだから。
「ノラ、どこまでなら攻撃が通る?」
魔法を知らないアドンがノラに尋ねた。
「もう少し近づかないと届きません」
ノラの得意な風魔法は、確かに魔法攻撃の中では最大の射程を誇る。しかしノラの実力では一般に言われる射程すら届かない。
「準備だけしとけ」
「はい」
ノラは言われたとおり、風の元素に干渉した。
魔獣はそれまでゆったりとした動きであったが、騎兵が迫ると豹変した。体を弾ませ、飛び退き、着地と同時に先頭の騎兵に体を投げ出した。
「嘘」
あまりの光景に集中が途切れた。
「気張れよ。あれぐらい序の口だ」
アドンは叫ぶように指示を出しながら、ノラに言った。
あっという間に騎兵は倒され、その勢いのまま下町に突っ込んだ。ノラは家々がなぎ倒される光景を見られず、顔を背けた。家々が崩される不穏な音が耳に届く。悲鳴が聞こえないのは先に住民を避難されたからだろう。ノラがケンに引っ張られている間にそんな光景を見た。
城壁を真っ直ぐ目指す魔獣。
「アドンさん、攻撃していいですか?」
ようやくノラの射程圏内に魔獣が入り込んだ。
「もちろんだ。しとめてくれたらなおさらな」
セイトリームを狩ったときと同じだ。
捕らえた風を魔獣に差し向ける。風の刃は何者も妨げられない瞬速の刃。
風の刃が魔獣を切り裂き、ノラは確かな感触を得た。
『ミアァァァァァァァ』
魔獣がその体から甲高い、耳を貫くような悲鳴を上げた。魔獣からはまだ大分距離がある。それでも悲鳴に誰もが両手で耳を塞ぎ、手にしていた弓や剣を落とした。
「これは、効いたか?」
「分かりません。でも当たりました」
「もっとやってみろ」
ノラは頷き、さらに風の刃を振り下ろす。
コーラスメラの町、ノラたちが立つ城壁、大気そのものを激しく揺さぶる悲鳴は止むことなく響いた。
このまま倒せるかもしれない。
ノラは希望を抱いた。そして、ノラだけでなく、アドンもケンも城壁にいる誰もが耳を塞ぎながらも表情が明るい。
そのとき、振り下ろした風の刃に感触がなくなった。
いつの間にか、魔獣の姿がない。悲鳴も止んだ。耳に不快感が残る。周りの人々も異変に気付いた。
「どこ行った」
「消えた?」
報告書の中には魔獣は最後、忽然と消えたとある。それも毎回のように。つまり、今回もそうだろうか。
結局倒せたのか。
初めての魔獣遭遇に、ノラはどう判断していいのか分からなかった。
しかしこうも忽然と消えてしまうと、やはり普通の生物ではないのだろう。
ふと、視界に黒いもやがかかる。
太陽に厚い雲がかかったのか。そう思った。
「ノラっ!」
アドンが叫ぶ。
顔を上げると、視界は黒に埋まった。
すぐ目の前に、魔獣が迫っていた。
驚きのあまり息を止め、全身の血がサァーと引くのが分かった。
視界の端で、魔獣の表皮が剥がれ、剥がれたそれが独りでに砕け、散ってゆくのが見えた。それがどうやら体を取り巻くもやの正体らしい。
風が吹く。体を包むもやが一瞬薄まる。目が合った。
『ウィークド・ムル・セ・ケデネ。ダ・ストロフ・ドモア』
その言葉が頭の中で反響しながら、ノラの意識は遠のいた。
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