第17話 祭り
「ノラ、任せたぞ」
アドンはノラの背中を力強く叩いた。緊張して、体を強張らせていたノラは咄嗟に動けず、盛大に転んだ。
「ちょっと大丈夫ですか!?」
テオが慌ててやってきて、ノラを助け起こす。
「わ、悪い。ちょっと強すぎたか」
アドンにとっては軽い景気づけだったが、いかんせん、力が強すぎた。
「だ、大丈夫です」
顔は打たなかったものの、黒いローブの前が砂で汚れた。払えばある程度綺麗になったが、細かい砂は黒いローブの繊維の奥まで入り込み、薄く跡が残る。
「もう、これからだというのに。気をつけてください」
苦笑いを浮かべ、アドンは頭をかいた。
馬車一杯のソルロの花が一昨日届いた。昨日の内に最後の打ち合わせが行われ、ついに今日、ニーリルグールの決行となった。
ノラにとって残されたのは今日と明日だけ。この二日間で魔獣が出なければ、出ても清められなければ将来はない。
そして、当初の通り、実際に魔獣に水を掛けるのはコーラスメラ軍の方たちで、ノラとテオはその補佐を行う。ノラは魔法で援護し、テオはけが人等出た場合に癒す役だ。
そしてコーラスメラの市民は今、上町の城壁の中に集まっている。
下ろされることのなかった城門が下ろされ、万が一、魔獣がコーラスメラの町のほうへ行っても、城壁によって守られるようにしたのだ。そしてケンをはじめ、経験の浅い兵士は彼らと共に城壁の中に留められた。これも万が一に備えてだ。
ノラたちは川を背に陣取っていた。
兵士たち十数人で桶を回し、ソルロの花を浸した水を絶え間なく前線の兵士たちに提供できるようにした。
これで、あとは魔獣が出るのを待つだけだ。
「なかなか、出ませんね」
ノラたちがコーラスメラの近くにある平原に陣取ってからあっという間に一時間が経った。遮るもののない平原ではひんやりとした風が吹きつけ、ノラのローブをなびかせた。時折吹く強い風はローブを引っ張って、連れ去ろうとするようだった。
精霊は風だとここでは言われているが、今ここで吹き抜ける風はどれも精霊のそれとは違うようだった。
精霊の風を知る人々は口々にこういった。
「明らかに他の風とは違うんだ。強くても弱くても、必ずそこに精霊様の気配がある」
その風を知らないノラには分からないが、きっと違うのだろう。
「もう少し待ってみよう。まだ日が昇りきっていないからな」
まだ朝が早い。時間に余裕を持たせようと、日の出してすぐから陣取っていたのだ。朝と昼の境目ぐらいか。
ノラはそっとローブを体に巻きつけた。
「寒いですか?」
テオが尋ねた。
ノラが少し震えていることに気付いたのだ。
「緊張でもしてるんじゃねぇのか?」
アドンは鎧を身に着けているが、肩から腕はむき出しで、ローブを纏うノラやテオより寒そうだ。それでも筋肉質な体は寒さを力強く跳ね除けていた。
「大丈夫です」
ノラの震えは緊張だった。
これまで二度魔獣に遭遇したが、今回は自分たちを守る壁がないのだ。城壁も、教会の壁も、何もない。ただ吹きさらしの草原。いかに自分の考えが正しく、魔獣に水を掛けて清めれば精霊に戻ると信じて疑わなくても、危険なことには変わりない。
下手したら、今度はけが人どころか死者が出てもおかしくないのだ。
自分が言い出したこととはいえ、これで死者が出たならノラは立ち直れない。いくら領主モーリスが責任を負うことになろうと、ノラは自分で自分を責めてしまうだろう。
「おいおい、大丈夫か? 卒業がかかっているんだろう?」
ノラの震えは収まらず、さらに酷くなってゆく。アドンが呆れた。
「プ、プレッシャーを掛けないでくださいよ……!」
別に、ノラは試験が苦手ということはない。むしろアカデミーでは優秀な方だった。実際に試験というのを一つの娯楽ととらえており、実際に言えばひかれるだろうけれど、試験が好きだった。
だがそんな大好きな試験も、全て犠牲も危険も伴わない安全が約束されたものだからだ。
今回の試験はノラだけではない、アドンを始めとする兵士たちの命を掛けた一大事。緊張しないわけがない。
「大丈夫ですよ」
テオがポンとノラの肩に手を乗せた。するとノラの体の芯に小さな火が灯り、こわばっていた体を徐々に温め、ほぐしていった。
「ノラさんならできます」
緊張したままならその言葉は重石になっていただろう。だがテオは法術で緊張をほぐした。法術にそんなことができるとは思わなかったのでわずかに驚く。そして、おかげでテオの言葉を素直にはげましと受け取ることができた。
そして励まされたおかげで、ノラは思い切った。
「あの、私、精霊に呼びかけてみます」
「は?」
「魔獣は古代語を喋るでしょう? だから古代語で呼びかけてみたら、本当に来てくれるんじゃないかって思って……」
「呼んできてくれればいいがな」
アドンは顎をしゃくり、やってみろと促した。
ノラは笑顔で頷き、二人に背を向け、少し前に出た。
ノラはそっと目を閉じ、風をとらえた。
風に乗せ、ノラの声、言葉を遠くまで飛ばすのだ。これは多方面でも使える技術だった。王城で行われる重要会議、軍隊での命令、港での船の往来などとこの魔法を用いてより円滑にする。大きな声、伝え合うというのはどの場面においても重要なのだ。
『ウー・シャク・バク。デマ・ソーナ』(どうか私の声を聞いて)
声を風に乗せ、千里を駆ける。
少し離れた城壁に囲まれたコーラスメラの上町にも届く。
その声を聞く人誰にでも、正確に、大きすぎず適度な音量で声が届く。
そして本当に届いて欲しい相手に届いているかどうか分からない。
『ウー・シャク・ラサ。デマ・ソーナ』(どうか私の声に応えて)
古代語をこの魔法で届けるのにはもう一つ理由があった。
確かに古代語なら魔獣がひっかかるかもしれない。だが、聞こえなければ意味がないし、この魔法は声を風に乗せるもの。風はノラが得意な魔法属性でもあるし、精霊が統括する元素の一つだ。
あの教会で、ノラたちの前に現れた魔獣。もしかして、あれはノラが元素に干渉したのを察知して現れたのではないかと考えたのだ。これまでコーラスメラには魔法を使う人がいなかった。だから魔獣にとっても厄介な状況ではないかと思うのだ。人々との関係は長かったが、その本質を知るものはおらず、その上で穢れを抱えすぎてしまった。心を通わせるものはすでにおらず、古代語を喋れるものもいない。魔獣にとって、ノラは渡りに舟だったのだ。
だから救いを求めている魔獣は元素の変化に必ず気付くはず。
『ラ・セーラ。オーシュン。キー・セマラ』(さぁ、いらっしゃい。清めましょう。望むままに)
一陣の風が、声を届けていた風が、ノラがとらえていた風が広がる。
「駄目だったか?」
アドンは声を落とす。
「まだです。もっと呼びかけてみます。届いていないだけかも……」
まだ一回目。一回だけで諦めては駄目だ。
ノラが再び風をとらえようとした瞬間である。
ノラたちの背後に陣取る兵士たちが騒ぎ始めた。
「どうした」
振り返ると、いた。
黒いもやを、穢れを体に纏わせた魔獣がそこに。
川の前を陣取る兵士たちと、ノラたちのすぐ後ろで水の入った桶を抱える兵士たちのその間にいたのだ。
「まずい!」
テオは叫び、自分の法術が届く範囲で結界を張った。
彼の実力では、残念ながらノラたちに近い兵士たちしか守ることができなかった。川の前の兵士たちには力が届かなかったのだ。
そして法術は医療の分野に発達した技術であるが、多少の戦闘のための技がある。戦場でのけが人の運搬や保護を目的に開発されたという。神父のテオがそこまで会得しているのも不思議な話であるが、今回はそれが役に立った。
「チッ、変なとこに出やがって!」
よりによってそこに出るなんて。
ノラも驚きよりも苛立ちが強い。ノラたちが川を背にして戦うはずが、魔獣が川を背にしてしまった。
手元にあるソルロの花は今、結界の内側にある十数人の兵士たちの桶の中にあるだけ。それも二十輪もない。すでにその花は水に浸され、あとは魔獣に掛けるだけの常態だ。
たったそれだけで馬を横に二頭並べたような巨体を清められるとは思えない。
水も花も足りない。
なんとしても川の前に積んである今回のために用意した花と、川へとたどり着かなければならなかった。
結界の前はあっという間に黒いもや、穢れに覆われ、魔獣の姿が見えなくなった。
「クソッ」
テオを中心に半球に広がる結界。あっという間にあたりは穢れに覆われ、魔獣がどこにいるのかも分からなくなった。
『アーシェル』(待っていた)
魔獣の言葉を、ノラの頭は瞬時に翻訳した。
やはり、魔獣は精霊なのだ。ソルロの花と水を見て、ようやく自分が清められると分かったのだ。
「待ってください!」
テオが叫んだ。
桶を持つ一人の兵士が、結界があるにも関わらず、桶の中身をぶちまけたのだ。だが結界は水を通さず、跳ね返って兵士に水がかかった。
「うわわっ!」
貴重な水と花が一つ、失われてしまった。
まずい。
ノラはすぐに大地の元素に干渉した。ノラの腕ではそう大きなことはできない。さらに結界で外と中が隔てられているので、非常に元素がとらえ辛かった。
だが、無理やりにでもやってのけると、魔獣らしきものがいるところに穴を開けた。少しでも体勢を崩せたらいい。
だが、ノラは大事なことを忘れていた。
魔獣がノラの眼前に迫ったあの時である。魔獣は足場のない場所でもたたずんでいた。そう、魔獣は浮くことができるのだ。
ノラがようやく開けた穴は魔獣の足らしきものにかかったが、結局は無意味だった。
意味がないと分かるとすぐに地を手放した。
こんなことを忘れているなんて。
自分は思った以上に焦っているようだ。
今回の作戦は、簡単にいってしまうと、ノラが魔法で魔獣の動きを封じ、その間に水を掛けるというものだった。しかし、結界がある以上、魔法は難しく、かといって結界を解くと黒いもやとなった穢れが一斉に襲い掛かってくるだろう。
結界も、テオの気力次第だ。しかし二十人近くを守る結界はさすがにテオも厳しいらしく、その表情は険しい。
ノラは再び地に干渉する。
下が駄目なら上しかない。
無理やり干渉した元素を探って魔獣の居場所を掴む。そして周辺の土を盛り上げ、魔獣を土の中に捕らえる。
やった。
ノラはテオとアドンを振り返る。
「魔獣を捕らえました」
「何!? そうか、よし」
アドンは部下の兵士から桶を引ったくり、その中身を頭から引っかぶった。
「テオ、俺だけ出せ」
「しかし!」
「やれ!」
実際、テオも限界が近かった。事切れるように結界が解かれ、テオはその場に崩れ落ちる。一斉に穢れが迫った。
迫る穢れに兵士たちは次々とアドンをまねて、自分たちも水を被る。ノラは咄嗟に風をとらえて、穢れを自分の周りに近づけさせないように常に吹かせた。迫る穢れにテオはなすすべなく飲まれ、アドンに桶を奪われた兵士もその場に倒れこんだ。
辺りは再び穢れに覆われる。
ノラはとらえられただけの風を自分の周りに吹かせ、何とか穢れから身を守っているが、穢れは徐々に風を蝕み、この風の防御もそう長く持たないようだ。
川を目指そう。
あそこなら傍にソルロの花もある。
花があれば、水もあれば何とかなる。
ノラは川のほうに向かって歩き始めた。だが、ノラはすぐに何かに躓いて転んだ。足元を見ると人の脚。兵士の誰かのもののようだ。ブーツには青い水が染みている。きっとアドンに続いて水を被った兵士の一人だろう。
このやり方は駄目だったか。
彼が駄目なら他の兵士も、アドンもきっと……。
もう作戦うんぬん言っている暇はない。
このままではノラも穢れにやられてしまう。そして風の防御も穢れに蝕まれ、ノラの意識が朦朧とし始めた。
意を決して風を取り替えることにした。
体の回りに吹かせている風を手放し、穢れに蝕まれていない、ノラの実力の限界近いところにある綺麗な風をとらえ、自分に向かって吹き降ろす。
必死にやったので、力の加減などできなかった。思ったより強く、たくさんの風をとらえていたようだ。そして、新鮮な風にノラの周りだけでなく、辺りの穢れも風に押された。
ノラが躓いた兵士の全身が見え、そしてその向こうにもう一人。ばたばたと兵士たちが倒れているのが見えた。
そして、風が吹き降ろしているのに穢れが全く飛ばない、穢れの塊を見つけた。
魔獣だ。
ノラが魔獣を見つけると、魔獣はノラに向かってその巨体を滑らせた。
速い。ノラは動けなかった。
魔獣が迫る。恐ろしさに目を閉ざす。
が、ノラの前に遮る巨体があった。
魔獣ではなく、アドンだった。
「逃げろ」
苦しげな声で、うめくようにアドンは言った。
ノラの乱暴な風が吹き降ろす中、彼は強風を抗い、ノラの前に立ちふさがったのだ。
風は穢れを吹き飛ばすだけでなく、アドンの体に残っていた水分、ソルロの花を浸した水をも乾かし、アドンはついに意識を手放した。アドンという砦が崩れ去り、ノラは風を吹き降ろさせながらも後ずさる。この風を手放したら、自分も駄目だと心のどこかで分かっていたのだ。
しかし、いつまでもこんな強風を吹き降ろさせられるわけがなく、ノラも気を抜いたら意識を失ってしまう。
魔獣はアドンの体をその巨体で覆い、乗り越えた。
ナメクジのような緩慢な動き、アドンの体を押しつぶすような音もなく、無音。それがより一層、不気味さを際立たせた。
頭の冷静な部分が、精霊は物質の体を持たないのだから、地上で肉体を持つアドンを押しつぶすことは不可能だと理解した。
そう、魔獣を滅ぼすことは不可能。だから、清めるしかないのだ。だが、その清める手段ももう残されていない。
吹き降ろす風は徐々に弱まり、魔獣から放たれる穢れはじわじわと近づく。
そのときだった。
「ノラ様! 川!」
耳元でゴウゴウと唸る風音を貫くように青年の声がした。
川?
そうだ、川の傍にはまだ花が残っている。水に干渉すれば何とかなるかもしれない。
ノラの気力では今の吹き降ろす風を手放したらもう何も出来ない気もするが、これは残された好機なのだ。考えるのは後にして、ノラは風を手放し、踵を返した。
吹き降ろしていた風の残りに乗って、川を目指す。手放した風は辺りの穢れを薄め、薄ぼんやりと辺りを見渡せた。視界の端に見覚えのある人影がチラリと映る。
ケンさん?
確かにさっきの声はケンのように聞こえた。
しかし彼はコーラスメラの上町にいるはず。
考えるのは後だ。ノラはとにかく足を動かした。
背後から黒いもやが濃くなってゆくのが分かった。
魔獣がノラを追っているのだ。そして魔獣の動きよりも早く、穢れが広がっている。
足にまとわりつくローブの裾がうっとうしい。
それでもこけずに賢明に走る。
黒いもやが徐々に濃くなる中、川を見遣るといつもより濃いように感じた。
黒いもや越しに見ているからだろうか?
それにしても色が変だ。でもこの色には見覚えがある。
川の縁で足を止め、振り返る。黒い巨体がすぐ目の前まで迫っていた。
『ダ・ストロフ・モア』(私を救って欲しい)
魔獣は切実な声を響かせる。
ノラはその瞬間、ついに意識を遠のいた。
薄れ行く意識の中、後ろに倒れる感覚、そして、背後から水に叩きつけられる音がどこか遠いところで響いていた。
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