第15話 準備

 事態は急激に動き始めた。

 ノラの卒業試験の期間に合わせるためにも、残された時間はあと一週間とちょっと。回収に向かったソルロの花の到着を考えると、時間は極めて少ない。

 そしてさらに大きな問題があった。

「魔獣が都合よく出てきてくれるのかしら」

 時間は限られている。ソルロの花の到着前に来ても駄目だし、試験期間の後に出ても駄目だ。たった二、三日の間に出てくれないとノラが困る。

「難しいですよね。今月はまだ二回しか出ていないですし。何か規則的なものでもないんでしょう?」

 無数の桶を両手からぶら下げるケン。

 ノラもケンほどではないが、桶を抱えていた。

 ニーリルグールは精霊に水を掛ける祭り。だから大量の桶が必要で、ノラたちも桶集めを手伝っていたのだ。最も、ニーリルグール再開の話はすでに広まっており、多くの人が協力的で、桶だけじゃなく、鍋や深皿をも差し出してくれようとした。日常生活に必要なものは、壊れたりするといけないので断った。ただでさえ、先日の魔獣襲撃で物が足りていないのだから。

「報告書を見る限り、そうでした。あの壁画にもそれらしいことは描いていなかったのですよね」

 準備は着々と進んでゆくが、どうにも不安はぬぐえない。

 ノラたちはコーラスメラの町の少し離れたところにある草原に桶を持ってゆくと、コーラスメラ軍の人たちが簡単なやぐらを組んでいた。

「このやぐら、どうするんですか?」

 下から注意深く目を光らせていたアドンに話しかけると、得意げに語った。

「上から水を掛けるんだよ。それに、高いところの方がいろいろ見えるだろう?」

 草原には当然ながら城壁はない。だから作っているらしい。魔獣にぶつけられたら一発で終わりそうだなんて思ったけれど、黙っておいた。

「ここ、川の傍なんですね」

 ケンの言う通り、草原の傍にはコーラスメラの町の傍を流れる川が流れていた。

「ああ、これならすぐに水を用意できるだろう?」

「いいですね。水汲みが楽じゃないですか」

「ああ。あとは花を待つだけだ」

 祭りであるニーリルグールを再開するとは言ったが、実際は魔獣ノーグルとの決戦だ。当然今までの祭りとは訳が違う。水を掛けるのはアドンが隊長を務めるコーラスメラ軍の面々だし、それも命がけだ。

 やぐらの周りに集まる兵士たちを見ると、彼らの表情は明るい。和気藹々と作業に取り組んでいた。

「みなさん、怖くないんですか?」

 ノラは、少し怖い。

「何とかなるだろ。何かあってもテオがいるしよ」

 ソロモンが目覚めたことはテオにとっても大きかった。穢れへの対処法が分かっただけでなく、コーラスメラの人々へテオが害意を持っていないとようやく認知されたのだ。

 さらにニーリルグールに協力的なこともあって、日に日に彼に対する市民の態度は軟化しつつある。それに、テオは戸惑っていたが、受け入れた。

 とある市民がそれでもまだテオを疑い、意地悪く尋ねた。

「今は協力的でもどうかね。土壇場でぶち壊すんじゃないのか? 花を燃やしでもしてよ」

 テオは気分を害した様子もなく、いたって真面目に返した。

「そんなことをして病が終息するのですか。私の仕事は病と穢れを広める魔獣を片付けなければ終わらないのです。どうしてぶちこわさないといけないのですか」

 そのときのテオの剣幕に押されたのか、その人はもうそれ以上何も言えなかった。


 ニーリルグール再開の知らせが広まるとすぐに小さな騒ぎが領主邸の前で起きた。

「領主様、どうか我々にも参加させてください。なんでもしますから!」

「駄目だ。非力なあなたたちを危険に晒すわけにはいかない」

 今回のニーリルグールは魔獣が相手。そのために市民を避難させてから行うとモーリスはすでに決めていた。しかし市民にとってもニーリルグールは大事なもので、なんとしても参加したかった。

「でも魔獣は精霊様なのでしょう? 精霊様がああなったのも私たちのせいなのでしょう? だったら何かしないと申し訳ないですよ」

「なぜそのことを?」

 ノラの仮説を知っているのはごく限られた人たちだけ。そう思っていたが、集った市民の一人が言った。

「あのね、どこにいようと話ってのは漏れるもんですよ。誰がどこにいるかなんて、全部分かるものじゃないでしょう」

 モーリスは顔をしかめ、それでも駄目だといい続けた。

「気持ちは分かるが、だからと言って魔獣によって命を落としたら、その方が精霊様は悲しまれるだろう。ここはどうか、我々に任せて欲しい」

「だけど祭りだぜ? 軍だけでやったら味気ないじゃねぇか」

「味気がどうこうという問題ではない。これは遊びじゃないんだ。今回の相手はあの魔獣なんだ」

「でも……」

「でもも何もない。私の決断は変わらない」

「手伝わせてやりゃあいいじゃないの」

 不意に女の声が響いた。若い女の声だった。よく響く声だったので、人々の目が彼女に向けられる。

 ローズの孫娘のミザリーだった。

「確かにさ、祭りの大事な部分は危ないだろうよ。魔獣相手だしね。でもさ、他のことなら手伝えるんじゃないの? 今も方々から桶を集めているけど、それで足りるのかい? 桶をもっと作るなりして用意した方がいいんじゃないのかい?」

「そうだな、なくて困るより、あったほうがいいな!」

 市民の一人が賛同した。

「確かにそうだが」

 モーリスも渋々頷いた。

「準備か、それならできるぞ! 昔は毎年やっていたんだからな!」

「手伝うのは準備だけじゃないよ。軍人さんたちはちゃんと食べてるのかい? 差し入れを持って行こうね」

「あ、それならお湯を沸かしてお風呂を用意しますね! 汗を流してさっぱりすれば疲れも取れるでしょう?」

「お、おい!」

 集まった市民は口々に自分にできることを思いつき、散ってゆく。

「なんだい、やれることは結構あるじゃないか」

 嬉しげなミザリーにモーリスは恨みがましく言った。

「全く、お前はミザリーだな」

「おや、領主様に覚えていただいているとは光栄だね」

「話はいろいろ聞いている。全く、余計なことを」

「そうかい。で、あんたたちだけで祭りが間に合いそうだったのかい?」

 モーリスは黙ったままだ。

「そうだろうと思ったさ。だったら手分けしてやった方が早いだろう。人手だけはあるんだからさ」

「私は市民の皆さんを危険な目に合わせたくないのだ」

「そんなの分かってるさ。あんたには良くして貰ってるよ。でも、守られるだけじゃ駄目なのさ。守るだけでもね。あんたも私も、同じコーラスメラの人間だろ」

 モーリスは鼻を鳴らし、踵を返して屋敷に戻っていった。

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