第66話 幸せな時間


 それはとても満ち足りた時間だった。

 それまでの長くて永い時間の殆どを、たった一人で生きてきた彼女にとって、信じられないほど満たされた幸せな時間だった。

 自ら生み出した五人の部下たちと一緒にいた時でさえ、これほどの充足感を感じたことはなかったのだ。

 それほどまでに、彼女はその時間が珠玉のように大切で、同時に輝いて感じられた。




 彼と彼女の婚姻は、村人全員から祝福された。

 村の若い男たちの中には、以前から彼女に恋心を抱いていた者もいたが、それでも二人が結ばれることは初めから分かっていたようで、拳を用いた多少手荒い、それでも偽りのない祝福を彼に浴びせていた。

 村全体が二人のこれからを祝う中、二人は時に手を繋ぎ、時に顔を見合わせて微笑み合う。

 何せ娯楽の少ない辺境の寒村である。住民の婚姻となれば、それは一大行事なのである。

 村の女たちはこぞって料理に腕を振るい、男たちは村の中央の広場に結婚式の会場を設営する。

 若い二人の新たな出発は、きっとこの小さな村に明るい話題を提供してくれるだろう。

 彼も彼女もそれぞれ準備を手伝うと申し出たが、誰もその申し出を聞き入れはしなかった。

「主役がちょろちょろと動くんじゃねえよ。大人しくでんと座ってやがれ」

 彼に狩りを教えてくれた師匠が、豪快に笑いながら彼にそう言った。

 彼女の方も似たようなもので、村の女衆は誰も彼もが彼女のこれからの幸せを願いつつ、和気藹々と準備を進めていく。

 ある意味で幸せな爪弾きをくらった彼と彼女は、互いに顔を見合わせつつ苦笑を浮かべた。

 そして、賑やかに沸き立つ村をそっと抜け出した二人は、いつしか村外れの小高い丘へと足を運んでいた。




 彼は歯ぎしりする思いでその光景を見下ろしていた。

 彼が愛して止まない彼女。自分を生み出し、今日まで導いてくれた偉大なる父にして高貴なる母である彼女。

 その偉大にして高貴な彼女が、まるで恋に浮かれた人間のような表情を浮かべ、ちっぽけな存在でしかない人間にその顔を向けていることが。

 彼にはどうしても我慢ができなかったのだ。

 全身から怒気を撒き散らし、その怒気で建物を支える巨大な柱という柱がびりびりと震える。

「少しは落ち着け、せき。ここで汝が怒ったところで何にもなりはしない」

「これが落ち着いていられるわけがなかろうっ!! 貴様はあれを見ても平気だとでもいうのか、おうっ!?」

 赤い髪の青年は、金の髪の女性に全身に孕んだ怒気をぶつけつつ、激しい口調で問い質す。

 だが、当の金の髪の女性はと言えば、いつも通りの平素な表情のまま、何事でもないように青年の言葉を聞いていた。

「貴様にとっても御方は大切なお方であろうがっ!! その御方がこともあろうに人間風情の妻になろうとしているのだぞっ!? そのようなことが許されるわけがないっ!!」

 赤い髪の青年の言葉に、緑の髪の男性も、青い髪の男性も、黒い髪の女性も、それぞれが頷いて同意を示す。

 だが、金の髪の女性だけは、その平素な表情を変化させることもなく、淡々と自分の思いを言葉に乗せる。

「それが御方が選ばれたことならば、我々は御方の意志に従うべきだ。そもそも、我々は御方によって作られた存在。生みの親である御方に意見するなど、思い上がりも甚だしい行為だ」

「私だって御方がお選びになられたのが、私ではなくともせいりょくならば黙って従った。仮に選んだ相手がこくや貴様であったとしても、別に文句を言いはしないっ!! だがっ!!」

 赤い髪の青年は、忌々しそうに足元に広がる大地を、その一点を見やる。

「なぜ、御方は人間などをお選びになられたのだっ!? あのような羽虫にも等しい存在の、どこに惹かれたというのだっ!? 我々を含めた、この世界全てをお作りになられた始創の主である御方が……」

「もういっそ、あのような箱庭など壊してしまえばいいのではなくて?」

「うむ。その方がいいかもしれないね。あの箱庭──サンバーディアスは一度全てを無に帰して、新たな箱庭を御方と僕たちでもう一度作り上げればいい」

 黒い髪の女性の言葉を、緑の髪の男性が肯定する。

「だが、そうするとあの箱庭に生きている全ての命が死に絶えることになるぞ?」

 だが、青い髪の男性の言葉は、その場にいる誰の心も動かさない。

「それがどうした? 我々にはあの箱庭の中の命を気にかける必要などないだろう。あの箱庭に生きる命など、ただの観賞用だ」

 赤い髪の青年は、心底不快そうにその美しく整った眉を顰める。

「私は行く。御方をお迎えに上がりにサンバーディアスに降りる。ついでに御方を穢そうとする薄汚い虫けらを始末してくれる」

「待て、赤」

「くどいぞ、黄! 今更何を待てと言うのだ?」

 相も変わらず表情に変化を見せない金の髪の女性は、淡々とした口調で赤い髪の青年に告げた。

「汝は気づいているのか? 今の汝を駆り立てているその感情を何というのかを」

「何だと?」

 この時、初めて金の髪の女性はその口角を釣り上げた。

「嫉妬、だよ。汝は御方の心を射止めた人間に嫉妬しているだけだ」




 村を見下ろす丘の上。一面を覆う柔らかい草野上に寝転びながら、彼は幸せを噛みしめていた。

 今、彼の右手は彼女の左手と繋がれている。それだけのことが、彼にはとても嬉しかった。

 何気なく彼女の方へと顔を向ければ、同じように彼女も彼を見ていた。

「どうしたのだ?」

「いや……何でもねえ」

「安心するのだ。我輩はここにいる。貴様の隣に……貴様の命が尽きるまで隣にいる。いや、それは違うな」

「違うって……何がだ?」

「貴様の命が尽きるまでではない。例え貴様の命が尽きようとも、再び生まれ変わった時には必ず貴様を見つけ出してみせる。何度輪廻を重ねようとも、その度に再びこうして互いの手を繋ぎ合うのだ」

 彼女は彼と繋いでいる左手を持ち上げてみせた。

「オレの命が尽きても、オレが再び生まれ変わっても、か。一体おまえはいくつまで生き続けるつもりなんだ?」

 彼が苦笑を浮かべれば、彼女は艶やかな笑みでそれに応える。

「未来永劫、我輩は貴様を待ち続けるぞ。言っただろう? 我輩は化け物みたいなものだ、と。それとも、そんな化け物を伴侶とすることが怖くなったか?」

「怖くはないさ」

 彼は視線を彼女から外し、青く広がる空を見上げた。

 空には雲一つなく晴れ渡っている。まるで、彼と彼女の未来を祝福するかのように。

 その空が急に暗くなる。

 それを疑問に思うよりも早く、彼の顔の上を何かが覆う。

 空を覆い、そして今、彼の視界を覆うもの。それが半身を起した彼女の顔とその漆黒の髪だと気づくまでに、彼は僅かだが時間を要した。

 その僅か時間の間に、彼の視界を自らの顔で覆った彼女は、その桜色の可憐な唇を彼のそれと重ね合わせる。

「……もしかすると、これは祝福などではなく呪いなのかもしれんぞ?」

 唇を離した彼女は、にたりと不敵な笑みを浮かべる。

「呪い……?」

「ああ。なぜなら貴様は……貴様の魂は未来永劫、この我輩のものだからだ。精々覚悟するのだな」




 二人の間に穏やかに流れる時間。

 だが、そんな平穏な時間も終わりがやってくる。

 そして、その終わりを告げたのは、突然現れた赤い髪の青年だった。

 黄金に輝く金属製の鎧を纏い、腰に装飾の施された剣を佩いて。

 青年は彼と彼女以外には誰もいないはずの丘の上に、忽然と湧き出るように現れた。

 驚きに目を見開く二人を無視して、青年はじっと二人の内の一人──彼を凝視する。

──嫉妬だと? この私がたかが人間のような虫けらにも等しい存在に嫉妬だと? あり得ん。そのようなことが……

 その視線に殺気さえ込めて、青年は彼をじっと見つめる。

 何も言わなくても、ただそこにいるだけでひしひしと伝わってくる圧迫感。

 彼はそれを知っていた。狩りのために森に入った時、予期せぬ強大な魔獣と出会ってしまった時に感じたものと同じ圧迫感だ。

 だが、突然現れた赤い髪の青年から発せられているそれは、魔獣などとは比べるのがおこがましいほど強烈なものだった。

 その圧迫感に気圧され、立ち上がることさえできない彼を庇うように、素早く立ち上がった彼女が数歩、赤い髪の青年に向かって踏み出した。

「…………何をしに来た?」

 彼女の口から発せられた声は、彼がよく知る鈴を転がしたような澄んだものではなく、まるで北風のような冷たいものだ。

 突然現れ、そのまま立ったまま殺気ともいうべきものを撒き散らしていた青年が、その時初めて動きを見せた。

 青年はその場に跪くと、深々とその頭を下げたのだ。

「お迎えにあがりましてございます、御方」

「我輩は帰らぬ。他の者にもそう伝えておけ」

「なりませぬ」

 彼から彼女の顔は見えない。だが、いつも輝くように美しい彼女の顔が、今は不機嫌に歪められているであろうことは想像に難くはなかった。

「……いつから、貴様は我輩の行動に口出しできるようになったのだ?」

 彼女の声に含まれるそれは、不機嫌を通り越して怒りさえ含まれ始めている。

 彼女がそんな声を発するのを、彼は彼女と出会ってから初めて聞いた。

「後で如何様な処罰も甘んじて受けまする。ですが、今だけは申し上げさせていただきます。虫けら如きにその身を捧げるようなことは、どうかお考え直しいただきとうございます」

 相変わらず深々と頭を下げたまま、赤い髪の青年は彼女に懇願する。

「聞く耳持たぬ! 貴様はすぐさま帰るのだ!」

「聞き入れてはいただけませんか…………」

 溜め息と共に吐き出された言葉。

「…………では、御方がこの地に拘る元凶を取り除くとしましょう」

 青年は再び立ち上がる。金属製の鎧を纏っているにも拘わらず、彼が身体を動かしても鎧が軋む金属音は全く聞こえてこない。

 彼がそのことを不審に思うより早く、青年の姿が現れた時と同じように不意に掻き消えた。

 と同時に、彼は背中に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。

 やばい。これは絶対にやばい。

 それは単なる直感に過ぎなかったが、彼はその直感を信じて前方へ転がるようにその身を投げ出した。

 直後、それまで彼がいた場所の地面に深々と剣の切っ先が突き刺さる。

 それを確認しない内に、彼は立ち上がって腰に下げていた狩猟刀を引き抜いて頭上に掲げた。

 途端、狩猟刀を持つ手に強烈な衝撃。

 狩猟刀を落とさないように、しっかりと握り締めながら彼が顔を上げれば、そこには赤い髪の青年が剣を振り下ろしていた。

「ほう。この地に降りるために力を封印し、虫けら如きに全力を出すまでもないと確かに加減はしたが……まさか、我が剣を二度までも凌ぐとは……虫けらにしては上々だ。褒めてやろう。しかも──」

 青年が呟くと同時に、きん、と澄んだ音が彼の手元から響いてきた。

 音の発生源は彼の狩猟刀。長年愛用してきたその狩猟刀が、青年の剣を受けた箇所から砕け散ったのだ。

「──そのようなガラクタで我が剣を一度は受けきるとはな。誇れよ、虫けら。そしてその誇りを土産に冥界へと赴け」

 彼女が止めに入るより早く。三度振られた青年の剣が深々と彼の胸を刺し貫いた。

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