第65話 箱庭世界
自ら造り上げた箱庭。暇を持て余していた彼女にとって、そこを眺めるのは一番の楽しみだった。
箱庭の中に
その命たちが懸命に生きているを眺めるのは、彼女にとっては最高の娯楽だったのだ。
小さな命たちの小さな営み。やがてそれは、彼女にとってはとても愛しいものになっていく。
この箱庭を造り出した当初は、彼女もそこまでその命たちを愛しいとは思ってたわけではない。
時に彼女は彼女の配下たちと共に、そこに生きる命たちを駒にして遊戯に耽ったこともある。
元より、その箱庭は彼女が気まぐれで造り上げたものだ。それをどう扱おうが、彼女の勝手。
そう思っていた。思っていたのだ。
それなのに。
いつの間にか、彼女はその箱庭の中で懸命に生きる命たちに目を奪われるようになっていった。
本当に短かい間──彼女やその配下の感覚で──、もがき苦しみながらも懸命に生きる命たち。
時に他者が生きるためにその命を奪われ、時に他者の命を奪って糧とし。
様々な小さな命たちが懸命に生きている箱庭の中。その中を眺めるのが、いつしか彼女の最大の楽しみになっていた。
最初は本当に些細な偶然だった。
いつものように、自ら作り出した箱庭の中を眺めていた時。
多くの小さな命たちがひしめくように生きる箱庭の中で、一際鮮烈に輝く小さな命がいた。
懸命に生きている小さな命たちの中でも、更に懸命に、更に真っ直ぐに生き抜こうとするその命。
強い意志を宿したその命の魂は、眩しいばかりに輝いて彼女の目を引いた。
そして、彼女はその命ばかりを目で追うようになる。
いつまでも。いつまでも。
彼女は飽きることなくその輝く命を目で追いかけていた。
時に喜びを、時に悲しみを見せるその命。
彼女からすれば些細でしかない小さな存在が、徐々に彼女の心の中を大きく占めていく。
小さな取るに足りない存在に、徐々に彼女の心は惹かれていく。
やがて彼女は見ているだけでは我慢できなくなり、こっそりとその命の近くまで赴き、間近でその命を眺めるようになっていた。
そんなことを何度も繰り返している内に、彼女はこう思い至る。思い至ってしまった。
あの輝く命と共に自分も存在できたら、どれだけ素晴らしい日々が送れることだろう、と。
こうして影から眺めているだけではなく、堂々とあの命と共に在りたい。
いつしか、彼女はそう願うようになっていた。
そして。
そして、彼女は決心する。
自分もあの存在と同じ時を生きてみようと。
彼女の命は無限である。ほんの僅かな間、あの命と共に在っても大した問題ではあるまい。
だがそのためには、まずは彼女自身の大きな力を封じなければならない。
大きな大きな彼女の力。直接の配下である五人の力を全て合わせても、彼女の力には及ばないほど強大な力。
自ら造り出し、多くの小さな命が懸命に生きる箱庭に彼女が入り込めば、大きすぎる彼女の力は容易に箱庭を破壊してしまうだろう。お気に入りの箱庭を壊さないため、彼女は自分自身の力を封じる決心をした。
そのために、まずは彼女は一振りの剣を造り出した。
彼女自身の強大な力そのものを、封印の力に転換する能力を持った剣だ。
その剣を身体に埋め込み、彼女は箱庭に降り立つ。
彼女が箱庭に名付けた名前は「サンバーディアス」。
彼女たちの言葉で、「遊戯盤」を意味する言葉である。
文字通り、当初そこは彼女にとっては単なる遊戯盤だった。
だが、今は違う。
愛しい存在が懸命に生き抜く、小さくても掛け替えのない箱庭となったのである。
箱庭に降り立った彼女は、早速お気に入りの小さな命──箱庭の中では人間と呼ばれる命たち──に会いに行った。
その人間は、いつものように森の中で獲物を追い求めていた。
彼は人間たちで言うところの、猟師という存在らしい。
狩りの道具である弓と矢を手にした彼は、気配を殺しながら獲物に少しずつ近づいていく。
今日の獲物は鹿のようだ。それも、かなり大きな角を持つ立派な雄鹿である。
風下からじりじりと近づき、充分に弓の射程距離に獲物が入ったところで、彼は木の影に身体を隠しつつ矢筒から矢を引き抜くと弓に番え、ゆっくりと引き絞る。
澄んだ瞳で真っ直ぐに獲物を見つめる彼。
その横顔に彼女はじっと陶然とした視線を注いでいたが、獲物の集中している彼はそのことには当然気づいていない。
やがて彼の指先が、番えていた矢をそっと放した。
弓から解放された矢は、狙い違わず獲物の首筋を貫き、一瞬で雄鹿を絶命させた。
ゆっくりと弓を下ろし、彼はふぅと大きく息を吐き出す。
それでも迂闊に倒れた獲物に近づこうとはせず、しばらく木の影から獲物の様子を窺う。
しばらくそのまま観察し、獲物が完全に絶命していると判断した彼は、木の影から出て倒れている獲物へと近づいていく。
その途中。
彼はこの時になって、ようやくこの場に自分以外の誰かの気配があることに気づいた。
「誰だっ!?」
彼は気配のある方へ、素早く矢を番えて弓を構えて誰何の声を上げる。
ここは人里離れた森の中であり、当然狼や熊などの危険な獣も数多く棲息している。
真剣な表情で森の奥へと弓を構えつつ、そこに潜んでいるものの正体を見極めんと彼はじっと気配のする方を凝視した。
「まあ、待つのだ。我輩は決して貴様に危害を加えるつもりはない。だからそんな物騒なものは下ろして欲しいのだ」
彼が弓の狙いを定めた方から、鈴の音のような澄んだ声がした。
予想もしていなかった年若い女性の声に、彼は思わず戸惑いの表情を浮かべる。
そして、その声の主が彼の視界に入った途端、彼の戸惑いは更に深まることになる。
なぜなら、姿を見せたその声の主である女性は、その身になにも纏っていない素っ裸だったのだから。
森の中とはいえ、陽の光は充分に彼らのいる所まで届いている。
そんな明るい光の中、その女性の裸身はまばゆいばかりに輝いて彼には見えた。
それほど大きくはないものの、実に彼好みの丁度良い大きさの胸の膨らみも。
その膨らみの先端を彩る、可憐な果実も。
腰から尻にかけての艶めかしい曲線も。
髪と同じ漆黒の、下腹部に生える
すらりと健康的な、白くて長い足も。
その全てが彼の目の前に露になっていた。
「ひ、昼日中になんて格好していやがるっ!?」
彼は慌てて彼女に背中を向けた。その際、彼の顔が真っ赤だったことを、彼女だけがしっかりと見ていた。
「うむ、仕方がないのだ。サンバーディアスに降り立つ際、いろいろと制約が課せられていつも着ている服は吹き飛んでしまうのだ」
「は? 制約? 何のことだ?」
「気にするな。こちらの事情なのだ」
不思議そうな表情を浮かべつつ、彼は思わず彼女へと振り返り──彼女が全裸なのを思い出してすぐに視線を逸らせた。
彼は羽織っていた外套──森の中に自然に溶け込めるように工夫して染めたそれを、背後を見ないように留意しつつ彼女へと差し出した。
「と、取り敢えず、そんな格好じゃ風邪をひくだろ? 服の方はオレが村に帰ってから何とかするから、今はそれでも羽織っていろ」
彼女はにっこりと微笑みながら彼へと近づくと、彼の手から外套を受け取ってそれを羽織る。
「ふむ……?」
「どうかしたか……って、ああ、そうか。森の中で狩りをする時は、ずっとそれを羽織っていたからな。少し臭いかもしれないが、そこは我慢してくれ」
「いや、確かに少し匂うが……別に臭くは感じないのだ。それに、これはおそらく貴様の匂いだろう。ならば気になどはしないのだ」
その白くて小柄な身体を外套で鼻の下まですっぽりと覆うと、彼女は輝くような笑みを浮かべた。
その笑みを真っ正面から見てしまい、彼は裸を見た時以上に赤面する。
この時、ようやく彼は彼女の顔を見た。
それまでずっと、思わず胸や腰廻に視線が行ってしまったのは、彼も男である以上は仕方あるまい。
夜の闇を全て集めたような漆黒の長い髪は、陽の光を受けてきらきらと虹色に輝いている。
金色の瞳はどこか蠱惑敵で、彼の心を引き込むようだ。
「と、ところで、こんな所でそんな格好で……いや、そもそもおまえはどこの誰だ?」
至極正面な質問を、ようやく彼は彼女に浴びせた。
「我輩か? 我輩はその……」
彼女は腕を組み、その美麗な眉を寄せて何やら考え込む。
「ううむ……うむ! そ、そうなのだ! 何も思い出せないのだ!」
ぱっと輝く彼女の顔。その様子に、彼は訝しげに首を傾げる。
「何も思い出せないって……本当か?」
怪しい。あまりにも怪しい。
疑いの目でじーっと彼女を見る彼。その視線に晒されて、彼女はその場に踞った。
「う、うううむ……思い出そうとすると頭が痛いのだ……」
踞りながら、抱えた頭をぷるぷると左右に振る。
踞った際、ふわりと外套の裾が舞い上がり、一瞬彼女の真っ白ですべすべとしたお尻がちらりと見えてしまい、思わず彼はどぎまぎする。
「そういうわけで、我輩が何者なのかは我輩でもよく分からないのだ」
頭を抱えて踞りながら、彼女は彼を見上げる。
彼は今、苦笑を浮かべながら彼女を見下ろしていた。その視線はどこか暖かなものが含まれており、彼女は彼にそんな視線で見つめられるのが嬉しいやらくすぐったいやらで。
「まあ、いいや。記憶がないんじゃ仕方ねえ。取り敢えず、オレの家に来いよ」
「い、いいのか……?」
「いいって。それにウチには両親もいるからな。おまえに不埒な真似なんて絶対にできないから、その点は安心していいぞ」
彼は苦笑を浮かべながらも、彼女に向かって手を差し伸べた。
彼には、彼女が悪い人間には見えなかった。
もしも彼女が彼に対して何らかの害意を持っているのならば、先程潜んでいた時に手を下せたはずなのだ。
あの時彼は獲物に集中しており、彼女のことには全く気づいていなかったのだから。
それに彼の家──というか村自体が辺鄙な寒村である。金目のものなど村中でも殆どないので、野盗や山賊の類に狙われるとも思えない。
それらを考えても、彼女を彼の家や村に招き入れたとしても、何も問題はあるまいと彼は考えていた。
そして、彼女はおずおずと差し伸べられた彼の手に自分の小さな手を重ね合わせた。
「そういや、名前をまだ名乗っていなかったな。オレはレグナム。見た通りの猟師だ」
「うむ、レグナムか。我輩の名前は────」
「おいおい、何も覚えていないんだろ? だったら名前も覚えていないんじゃないのか?」
「お、おおう、そ、そうなのだ。我輩には今は名前はないのだ。うん」
「やれやれ。さあ、行こうぜ」
彼は彼女の手を引いて、村へと帰るために一緒に歩き出した。
彼女はそんな彼の背後で、彼に引かれた手をいつまでも嬉しそうに眺めているのだった。
これが、「彼」と「彼女」の「初めて」の出会いであった。
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