第67話 冥界の管理者


 彼女が言葉にならない悲鳴を上げる。

 それが、暗黒に落ちつつあった彼の意識を繋ぎ止めた。

 彼は霞む目を必死に見開き、自分の身体を刺し貫いた剣を持つ腕を、両手で必死に掴み取って握り締める。

 赤い髪の青年は、まだ動くことのできる彼を見て、今度こそ明らかな驚愕を浮かべた。

「…………心底驚いたぞ。まさか私の剣に貫かれて、ただの人間がまだ動けるとは……」

 赤い髪の青年が持つ剣は、彼の主たる彼女が直々に作り出した聖剣である。

 その聖剣が持つ力は、聖剣によって命を刈り取られた者を立ち処に冥界の最深部にある「冥界の迷宮」へと堕す。

 本来、事故や事件、または天寿を全うしたなどで冥界へと旅立った者は、冥界の管理者たるおうしんによってその魂の成熟を確かめられ、十分に成熟した魂は神へと階梯を登ることを許される。

 成熟が十分ではないと判断された魂は、再びサンバーディアスへと舞い戻り、赤子となって生まれ変わる。この時、生前の記憶などは全てが消去される。時に前世の記憶を朧気に覚えている者もいるが、これは極めて稀な例だ。

 だが、魂の中にはこれらの輪廻から外れるものもある。

 生前に悪虐のかぎりを尽くした咎人や罪人は、黄神によって「冥界の迷宮」へと堕される。

 そして、「冥界の迷宮」へと堕された者は、迷宮を抜け出すまで次の輪廻の輪に加わることは許されない。だが、これまでに「冥界の迷宮」を抜け出した者は一人もいない。

 少なくない魂が「冥界の迷宮」へと投げ込まれてきたが、それらの魂は今も尚、「冥界の迷宮」の中を彷徨い続けているのだ。

 赤い髪の青年が持つ聖剣は、斬った者の魂をそんな「冥界の迷宮」へと、冥界の管理者たる黄神の判断なしに直接堕してしまう。本来なら越権行為とも呼ぶべきものだが、これは赤い髪の青年が彼らの主を守る立場にあり、彼らの主へと刃向かう者を容赦なく断罪することを特別に許されているからだ。

 その断罪の聖剣に貫かれてもなお、彼の魂は肉体に留まり続けた。

 今にも暗黒に引きずり込まれそうになり意識を必死に繋ぎ止め、彼は蒼白な顔色で自分を見つめている彼女へと振り返る。

「……死……ね……ぇ……こ…………れから…………んだ……これか……オレと……あい……つ…………は…………」

 彼女を残しては逝けない。ただその一心で、彼は聖剣の力に抗ってみせた。

 それは彼が彼女に対する想いの力か。それとも、純真に彼女のことを心配するゆえの奇跡か。

 ただの人間に過ぎない彼が、確かに大いなる力に抗ってみせたのだ。

 その驚愕の事実を、彼女と赤い髪の青年は信じられない思いでじっと見つめていた。

 だが、それはほんの僅かの間。

 我に返った赤い髪の青年が彼の身体から剣を強引に引き抜けば、彼の身体はそのまま大地へと倒れ臥す。

 大地に倒れた彼が最後に感じたのは、口の中に広がる鉄と土の味と、涙を流しながら自分へと駆け寄る彼女の姿。

 それを最後に、彼の意識は果てのない暗黒へと落ちていった。




 彼が気づいた時、周囲には闇しかなかった。

 自分が誰なのか。どうしてこんな闇の中にいるのか。彼には何も思い出せない。

 上も下もない闇の中。ただただ揺蕩うだけの彼だったが、ふと気づいた時、自分がどこかへ向けて流れているような気がした。

 そう自覚した途端、確かに彼は自分が移動していることを感じた。

 果てして、自分はどこへ向かっているのか。そう疑問を感じた時、不意に闇の中に一条の光が差し込んだ。

 闇に慣れた彼の視界一杯に、鮮烈な光が広がる。

 思わず光から目を背けた彼が、再び周囲を確認した時。

 それまで周囲にあった濃厚な闇は一瞬で駆逐され、目の前に荘厳な神殿のような建物が現れた。

 彼は何かに導かれるように、その建物の中に入っていく。

 そう。彼は自分がいつの間にか自律的に移動できるようになっていることに、この時まだ気づいていない。

 静寂が支配する回廊を、彼は周囲を確かめることなく真っ直ぐに歩く。

──ここは見覚えがある……? オレは以前にもここに来たことが……?

 まるで以前にも来たことがあるような既視感に囚われながらも、ただひたすらに長く真っ直ぐな回廊を歩いていく。

 やがて、回廊の先に大きな両開きの扉が現れた。

 彼の身長の四倍はありそうな巨大な扉だ。高さだけではなく、当然横幅もかなり広い。

 見れば扉を開けるための把手のようなものは見当たらない。

 だが、彼には分かる。どうすればこの扉が開くのかが。

 特に扉に触れるでもなく、彼は扉の前に立つ。それだけで、まるで扉に意志があるかのように、それは軋み一つ立てずに静かに開いた。

 巨大な扉に見合うように、その向こうは広大な空間だった。

 騎兵の一部隊が訓練で走り回れるほどの広い空間の中央。そこにぽつんと小さな机が一つだけ存在した。

 そして、その机の向こう。そこに肩口で切りそろえた金の髪を持つ美しい女性が静かに腰を下ろしていた。

 その女性は彼がその広間に入って来ても、特に表情を変えることもなく、静かに、それでいてよく響く女性にしてはやや低めの声を零す。

「こうして、ここで汝と顔を合わせるのもこれで二度目だな。もっとも、汝はそのことを覚えておらんだろうが」

「お、おまえは……いや、あなたは……」

 彼は扉の位置から動くこともなく、呆然と広間の中央にいる女性を見つめる。

 女性が只者ではないことは、彼にも一目で分かる。それほどまでに、女性が放つ存在感は圧倒的だった。

「我はおうと呼ばれている。汝たち人間にしてみれば、シトリンという名の方が通りがいいかもしれん」

 女性が言う「シトリン」という名は、当然彼にも聞き覚えがあった。

「お……おうしんシトリン……め、冥界の管理者……」

 目の前に冥界の管理者と呼ばれる神がいるということは。

 ようやく、彼は自分がどうしてここにいるのかを悟った。

 こうして冥界の管理者の前に立たされたということは、即ち────

「……そうか……オレは……オレは死んだんだな……」




「いや、汝は死んではおらぬ」

 彼の呟きが聞こえたのか、黄神は彼の考えを否定した。

「正確に言えば、『まだ』死んではおらぬ、が正しいな」

 黄神はその美しい容貌に表情というものを現すこともなく、淡々と言葉を並べていく。

「本来、せきの持つ聖剣で斬られた者は、命を絶たれた時はもちろんのこと、場合によっては僅かな傷を負っただけでも問答無用で『冥界の迷宮』へと堕とされる。かつての汝がそうであったようにな」

「……かつての……オレ……?」

「ああ、そうだ。だが汝は今、こうして我の前にいる。つまり、汝はまだ死んではおらんのだ」

「じゃ、じゃあ……どうしてオレはここに……黄神の前に……?」

「我が呼んだからだ。汝とは以前より話をしてみたいと思っていたのだ。唯一、我が管理する『冥界の迷宮』から這い出し、再び輪廻の輪に加わった者である汝と、な。他の四柱がどう考えているのかは知らないが、少なくとも我は汝を認めている。御方に対する想いだけで汝ら人間でいう二百年以上もの長い時をかけて、『冥界の迷宮』を抜け出た汝を」

「に、二百年……?」

 その膨大な時間に、思わず彼は呆然とする。

「そうだ。二百年前に何があったのか……今の汝ならばもう思い出しているだろう?」

 そう言われて、彼ははっとした表情を浮かべた。

 確かに彼は以前の──目の前の存在が言うには二百年前に彼自身に何があったのか。それを鮮明に思い出したからだ。

「とはいえ、今だけだがな。ここから……我が神殿から出れば、過去の記憶は再び閉ざされよう」

 そう言う金髪の女性の言葉を、彼は聞いていなかった。

 以前に彼自身が体験したこと。それを思い出して愕然としていたからだ。

「そ、そうか……オレは以前にもあいつと……カミィと出会っていたのか……そして……オレはカミィを……」

 そして、彼は気づく。かつて……二百年前のあの時。あれから彼女がどうなったのかを。

「お、教えてくれ! あれから……オレが殺されてからあいつは……カミィはどうなったんだ?」

 思わず数歩、黄神の方へと歩み寄りながら、二百年前に彼女に何があったのかを問い質す。

 そして、彼は見た。それまで一切表情というものを浮かべていなかった黄神のかんばせに、初めて感情らしきものが浮かんだのを。

 そして、その感情は明らかな悲しみだった。

「……あの後……汝を守ることができなかった御方は……悲しみのあまりに汝に関する記憶と力を自ら封じられ、サンバーディアスの地で深い眠りにつかれた。汝が『冥界の迷宮』を抜け出して輪廻の輪に戻り、再び合いまみえると信じてな」

 御方がサンバーディアスのどこで眠りにつかれたのかは、我々にも分からなかったが、と黄神は続けた。

「え……? カミィは……あいつは自ら力を封じたのか……? だけどあいつは、信仰を失ったために力と名前も失ったと言っていたはず……」

「それは違う。考えてもみよ。我々……いや、御方は汝ら人間がサンバーディアスに生まれ落ちる前からこの世界に存在しておられたのだ」

「そ、そうか……人間がいなければ……当然信仰なんてものは存在しない……」

「そうだ。確かに人間の信仰は我々の糧となる。特に神の階梯を登ったばかりの若い神にとって、信仰なくては存在さえできないほどに。だが、我々のような古き神々は違う。我々は人間が現れる遥か前より、この世界に存在していたのだから。我々にとって、人間の信仰は必要不可欠なものではない」

 実に簡単な考えだった。

 人間は神々──いや、正確には一柱の神によって作り出されたのだ。人間を作り出した神が、その人間の信仰を頼りにするはずがない。

「で、では名前を失ったというのはどういうことなんだ……?」

「そもそも、我々のような古き神々には名前など存在しないのだ」

「え……え? だ、だけど……」

 またもや彼は呆然とする。

 彼が彼女と最初に──今の時代でのことだが──出会った時、彼女は確かに力と共に名前も失われたと言っていたのを覚えていたからだ。

 人間たちが信仰している神々には名前がある。そしてその名前こそが、神々の力の源であると彼女も言っていたではないか。

 例えば、目の前の黄神にもシトリンという名前があるように。

 彼がそのことを黄神に尋ねれば、相変わらず目の前の神は感情を浮かべることなく淡々と事実を述べた。

「確かに我々にも便宜上の呼び名はある。そうでなければ色々と不便だからな。とはいえ、それはあくまでも便宜上。我々の存在そのものを指し示すものではない。我も汝ら人間からはシトリンなどと呼ばれているが、それらの名前は全て人間がそう呼ぶようになっただけのことだ」

「じゃあ……あいつにも……カミィにも……」

「御方にも当然その本質を示す名前はない。だが、今はそれに果てしなく近い名前があるがな」

「え?」

「汝が呼ぶ『カミィ』という名だ。御方が唯一心許した存在である汝が名付け、御方もまたそれを受け入れた。よって、『カミィ』という名前こそが御方の本質に最も近い名前となったのだ。そして古き神々の中で唯一名前を得た御方は……以前以上にその力を増すことだろう。そして、その力の目覚めはもうすぐだ」

 そう言えば、と彼も思い出す。

 彼女は最近、神力が増してきていると言っていた。

 信仰が集まり始めたからだと彼女は言っていたが、実際は彼によって名前を与えられたことで、彼女が自ら施した封印を破りつつあるのだとしたら。

 彼女が神としての力を取り戻すのは、黄神の言うように遠いことではないのかもしれない。

 そして。

 彼女がその力を取り戻した時。

 それは彼と彼女の別離をも意味しているのかもしれない。

 神である彼女と、人間である彼。

 その二人がこれまでのように一緒に居られるとは、彼にはどうしたって思えなかった。

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