第63話 乱入
空気を切り裂いて拳が
轟、という音を引き連れて迫るその拳を見て、《剣聖》とまで呼ばれる老婆は僅かに頬を引き攣らせた。
その拳そのものは小さなものでしかない。だが、その繊手から繰り出される拳の一撃が岩をも砕く威力を秘めていることを、《剣聖》は既に嫌というほど学んでいた。
眼前まで引きつけたその拳を、《剣聖》はぎりぎりで頭を最小限に横に振ることで回避。
鼓膜を破るような勢いで通過する白くて細い腕を、《剣聖》は何とか握り締めることに成功する。
声にならない裂帛の気合いと共に、《剣聖》は捕えた腕を捻り、腕の持ち主である小柄な少女を全身のバネを活かして投げ飛ばした。
小柄な少女の身体は、ぽーんと勢いよく飛んでいき、そのまま地面に激突する──かと思われたが、少女は何事もなかったかのように軽く身体を捻って見事に着地する。
「ふむ……なかなかやるのだ。さすがはレグナムの師匠だな」
にやりと口角を釣り上げて見せるのは、もちろんカミィである。
「そういうてめぇも半端ねぇなぁ。神だってぇのも満更嘘じゃなさそうだ」
《剣聖》──ヴァンガード・トゥアレグもまた、嬉しそうに頬を緩めた。
「今度はこちらから行くぜ?」
「うむ、来るがいいのだ」
カミィが頷いた瞬間、ヴァンガードの姿がその場から掻き消える。
だが、カミィは狼狽えることもなく、その場で肘を曲た右腕を顔の横で構えて見せた。
次の瞬間。
がしん、と大きな音と共に、カミィの右腕にヴァンガードの右足が激突する。
超高速で移動したヴァンガードがカミィの背後へと回り込み、無防備な──はずの──カミィの側頭部に回し蹴りを叩き込んだのだ。
しかし、回し蹴りが来ると分かっていましたとばかりに、カミィは易々とそれを防御する。これにはさすがの剣聖も、驚きに目を見開いた。
そして、カミィは背後のヴァンガードを振り返ることなく、その場で上へと跳躍。後ろトンボをきる要領で、真上へと振り上げた足をいまだ空中で停滞しているヴァンガードへと、頭上から勢いよく振り下ろした。
いかな《剣聖》とはいえ、空中ではまともに動くこともできない。それでも咄嗟に両腕を交差させて防御体勢を取ったあたり、ヴァンガードもまた人の領域を超えた存在であった。
カミィの足が、逆さ落としにヴァンガードの両腕と激しく激突。《剣聖》の身体は勢いよく地面へと叩きつけられた。
「……嘘だろ……?」
ぽかんとした表情で思わずそう呟いたのは、カミィとヴァンガードの組み手を見学していたラブラドライト王国国王、ウィンダム・ラグレイト・ラブラドライトその人だ。
ウィンダムは、《剣聖》と呼ばれる人物がその背を地面に着けた瞬間を初めて目にした。
彼もまた、《剣聖》の弟子の一人である。彼の次男ほどの剣才は持たなかったものの、それでも《剣聖》に弟子にと見込まれるだけの才能と実力は持ち合わせていた。
その彼が過去に一度たりとて勝てなかった人物。それが《剣聖》ヴァンガード・トゥアレグである。
いや、《剣聖》に勝てなかったのはウィンダムだけではない。
ウィンダムやレグナムといった歴代の《剣聖》の愛弟子以外にも、これまでに何人もの腕に自信のある者たちが、《剣聖》に挑んでは破れていった。
常勝無敗。
それこそが、《剣聖》の《剣聖》たる最高の勲章なのだ。
その《剣聖》ヴァンガード・トゥアレグが、弟子たちの目の前でその背を地に着けた。
組み手の条件がカミィの得意な素手格闘であったとはいえ、カミィは見事に常勝無敗に土を着けたのだ。
カミィとヴァンガードの組み手を見物していたウィンダムやレグナム、そしてその家族やオルティアからの客人たちは、その光景を茫然自失といった様子で見つめていた。
地面に大の字に寝転んだヴァンガード。
今、彼女のその顔に浮かんでいるのは確かな笑みだ。
「凄ぇなぁ、神って奴は」
ひょいと上半身を起こしたヴァンガードは、胡座をかいた姿勢で地面に座りながら、たった今自分を敗北に追い込んだ相手を見やる。
自分を負かした少女神はといえば、愛弟子と仲睦まじそうに何やら話していた。
愛弟子が彼女の小さな頭を少し乱暴にぐりぐりと撫で回せば、少女神は嬉しそうに目を細めてされるがままにしている。
──あいつ、神の頭を撫で回すたぁ、いい度胸してやがらぁ。自分が何をしでかしてやがるか、自分でも分かっていやがらねぇだろうなぁ。
人間が神の頭を撫で回すなど、本来ならできるようなことではない。
神と人間では、その存在の階位そのものが違うのだ。
愛弟子の話によれば、少女神はその力の大半を失っているのだとか。
それでも人間が神に気安く触れるなど、許されるわけがない行為には違いない。
──あの馬鹿弟子がとんでもねぇ大物なのか、それとも少女神の方がよっぽど寛容なのか……いや、あの少女神もかなり馬鹿弟子には心を許しているようだから、馬鹿弟子限定だな、ありゃあ。
胸の内でそんなことを考えつつも、《剣聖》の顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
敬愛する師匠がそんなことを考えているとは知らず、レグナムは純粋にカミィを褒め称えていた。
「しかし、凄えな。おまえなら師匠にも勝てるかもとは思っていたが……本当に勝っちまうとは」
「当たり前だ。我輩は神なのだ。これからは我輩をもっと崇めろ。
「お? 久しぶりにその言葉を聞いたな」
「む? そう言えばそうなのだ」
レグナムとカミィは、互いに笑みを浮かべながらごつんと拳と拳をぶつけ合う。
「それに、どうやらここ最近、我輩の神力が徐々に高まって来ているようなのだ」
「ほう? どこかに信者でもできたのか?」
「おそらくそうなのだ。ふっふっふっ。貴様とあちこちを旅して回った甲斐があったというものなのだ」
レグナムがカミィとであってまだ半年ほど。
その短い時間の間、レグナムとカミィはあちこちでいろいろと騒動を起こしてきた。
そろそろ、二人の活躍が吟遊詩人などの唄の題材とり、更に広まり始めた時期なのかもしれない。
噂などでカミィのことを聞き、カミィに対して憧憬を抱く者もいるだろう。
そんな者たちの想いが、目の前の少女の姿をした神の力となっている。それがレグナムの考えだった。
「だが、貴様の師匠も強いのだ。それに、
「へえ、そうなのか?」
「ああ。赤の小僧は人間が嫌いだからな。あの小僧が人間に加護を与えるとは……一体、貴様の師匠の何を小僧が気に入ったのやら」
僅かに眉を寄せながら、カミィはふと正面にいるレグナムを見る。
「そう言えば、貴様からも僅かだが赤の小僧の力を感じるな」
「お、オレから赤神の力が……?」
「うむ、間違いないのだ。だが、貴様の師匠のような加護とは少し違うようだがな。貴様に剣才があるのも、源はそれだな」
「でも、今までそんなことは一言も言わなかっただろ? どうしてだ?」
「敢えて言うようなことではないからだ。確かに貴様の才能の源は赤神の力だが、それとは関係なく貴様は今日まで努力を積み重ねてきたのだ。今の貴様の実力は、紛うことなく貴様自身の力だ。この我輩が保証してやる。貴様の実力は貴様が築き上げたものだ。胸を張るがいい。」
カミィは花が咲くような笑顔と共、そうレグナムに告げた。
今のレグナムとカミィの様子は、端から見れば互いに想いを寄せ会う二人が、仲良く何か語り合っている姿以外の何者でもなかった。
そんな光景を前にして、レグナムの家族たちは嬉しそうに微笑み、オルティア王国からの客人たちもまた、祝福を込めた視線を送っていた。
中には指を加えて羨ましそうに二人の様子を眺める某蒼髪の女性がいたり、剣聖でさえ負かしてしまった少女神に改めて信仰を抱き始めた某近衛騎士などもいたりしたが。
「いやぁ、負けた、負けた」
朗らかな表情のヴァンガードが、王族たちが集まる場所へとやって来て、空いていた椅子にどかりと腰を下ろした。
「負けた割には随分と楽しそうですね、老師?」
「まぁな。負けたとはいえ、相手は神だって話だしな。人間である儂が敵わなくても仕方あるめぇ? それに──」
インプレッサと会話していたヴァンガードが、まだレグナムと何やら話しているカミィへとその真紅の瞳を向ける。
「──あの娘、儂の若い頃に良く似てやがらぁ。まぁ、目と髪の色は違うがな」
ヴァンガードのその発言に、その場にいた者が一斉に彼女へと振り向く。
彼らの表情は、皆一様に驚きを浮かべた「え? 本当に?」といったもので。
そんな表情を一斉に向けられて、さすがの剣聖もおもしろくなかったらしい。
「なんでぇ、なんでぇ? おめぇら信じられないって顔で儂を見やがって。こう見えても儂ぁ若い頃、求婚してくる相手が尽きたことはねぇぐらい、美人で評判だったんだぜぇ?」
そんな親しい者たちだけの、穏やかな団欒の時間。
だが、そこに乱入者が現れた。
最初にそれに気づいたのはカミィ。そして次にクラルー。
彼女たちがそれに気づいたのは、人間では決して感じ取ることのできないものを感じたからだ。
その気配とは
「こ、この神気はあやつの……っ!?」
突然沸き上がった途轍もない神気に、カミィとクラルーが驚いて神気の出現地点へと目を向けた。
そして、そこにそれは、いた。
炎のような真紅の髪を長く伸ばし、それを複雑に編みこんだ長身の男性。
黄金に輝く金属鎧を纏い、その腰には神々しいばかりの
その美貌はカミィと比べても遜色ないほど整い、見ようによっては女性にも見える。
そんな存在が現れたのは、カミィと話していたレグナムの背後。
突然現れたその乱入者に、誰一人として反応することはできなかった。
この場にはその道の達人が複数いるにも拘わらず。それどころか、カミィやクラルーといった人外の存在でさえ例外ではなく。
見つめることしかできない一同の前で、乱入者は腰の長剣を引き抜くと、表情を一切変えることもなく無造作に突き出した。
「………………え?」
ひゅう、という気の抜けるような音と共に、思わずそう呟いたレグナムは自分の胸元を呆然と見つめる。
いや、胸元ではなく、そこから生えた剣の切っ先を。
レグナムの正面にいたカミィのその白い顔に、赤い斑が数滴飛び散った。
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