第42話 狂神の加護


──とある話をしよう。


 ある所に、一人の女性がいた。

 その女性はどこにでもいる、平凡な村娘であった。

 容姿も取り立てて優れていたわけでもなく、特別に賢いわけでもない。

 それでも優しい両親や親切な隣人に恵まれ、裕福ではないが幸せな毎日を送っていた。

 やがてとある男性と出会って恋に落ち、その男性と結ばれて子供を設けるに至る。

 夫となった男性は働き者で、妻と子供のために朝早くから夜遅くまで働いた。

 女性もまた、夫を支えつつ子供を育て、三人は小さな幸せに包まれていた。

 だが。

 その小さな幸せは唐突に崩れ去ることになる。

 子供が流行病に犯されたのだ。

 病はとても恐ろしく、体力のない村中の子供や老人が次々と倒れていった。

 中には大人でさえも病に犯され、二度と起き上がってくることはなかった。

 そんな犠牲者の中に、女性の子供も含まれていた。




 まるで火が消えたようだった。

 あれほど眩しかった日常が、今は暗闇の中を彷徨っているようで。

 しばらく女性とその夫は、食事さえも満足に口にしないほどだった。

 それでも、やがて夫は元通りに働き始めた。いや、前より一層仕事に打ち込んだ。

 悲しみを忘れるため、我が子がいなくなった事実を忘れるために、仕事にのめり込んでいったのだ。

 食事も睡眠も最小限だけ。だから、今度は夫が体調を崩すまで、それほどの時間は必要なかった。




 結局、夫も働きすぎが原因で帰らぬ人となった。

 最愛の家族を立て続けに失った女性は、毎日毎日泣き暮らしていた。

 家から一歩も外へ出ず、げっそりと全身痩せ細り、身を清めることさえせずに。

 心配した両親や隣人たちが様子を見に訪れても、女性は涙に濡れた眼でぼうっと宙を眺めるだけで、両親たちの声に反応さえしない。

 両親たちは根気よく女性の元へ通い、なんとか彼女を立ち直らせようと努力した。

 だが結局、彼女の涙を乾かすことはできなかった。

 やがて隣人の一人が彼女を元気づけるのを諦め、もう一人は彼女を見捨て。

 最後に、両親までもが彼女を見限った時。

 ついに奇跡は訪れた。

 ある日、昨日までのことが嘘のように、女性は明るい表情を浮かべて家の外へと出てきたのだ。

 驚いた両親や隣人は、彼女に何があったのかと疑問に思うと同時に、彼女の元気そうな様子に安堵の溜め息を零した。

 女性の父親が、どうして急に元気になったのかと尋ねると、女性はきょとんとした顔で首を傾げた。

「え? なんのこと? 私はずっと元気よ?」

 確かに顔も身体も痩せこけている。だが、そこに浮かぶ表情は紛れもなく夫と子供を失う以前の彼女のもの。いや、それ以上に明るい。

 そのことを不審に思った彼女の母親が、夫と子供のことを尋ねれば、再び女性は不思議そうな顔をする。

「夫と子供? なに言っているの? 私に夫と子供なんていないわ。変なお母さん。あははははははは」

 まるで子供のように無邪気な笑い声を上げる女性を見て、両親や隣人たちは薄ら寒いものを感じた。

 彼女は悲しみのあまりに気がふれてしまい、最愛の夫と家族のことを頭の中から消し去ってしまったに違いない、と。

 元気になった女性は、確かにある声を聞いていた。

 慈愛に満ちた優しい声。耳ではなく頭の中に直接響くようなその声はこう女性に告げた。


──あなたがこれ以上悲しむ必要はない。その悲しみを私が取り除いてあげよう。




 『月光の誘い亭』へと戻る道すがら、カミィはレグナムにそんな話を聞かせた。

 レグナムは黙ってカミィの話に耳を傾け、彼女が語り終わった時に感じたことを質問してみる。

「それが……失った家族を忘れることが、狂神の祝福……『神の息吹』だと……おまえは言うのか?」

「そうだ」

 レグナムは隣を歩く小柄な美しい少女を見る。だが、少女の方はレグナムを見上げることはせず、その蠱惑的な瞳は何かを懐かしむかのように閉じられていた。

 確かにカミィの話の通り、その女性が悲しむことはもうないだろう。だが、あくまでもそれは女性が正気を失った結果であり、根本的な解決ではないとレグナムには思える。

「だ、だがよ? 曲がりなりにも神が救いの手を差し伸べるのなら、もっと他に方法はなかったのか?」

「先程も言ったが、神とは司るものに対して純粋だ。だが逆に言えば、司るもの以外には無力と言ってもいい。スギライトが……狂神がその女を救うには、悲しみの元凶である『家族を失った』という事実を狂気で以て消し去る以外にないのだ」

 カミィが言うように、他者から見ればその女性は狂気に犯されただけだろう。だが、本人は家族を失った事実を忘れたことで悲しみから解放されている。

 そう考えれば、確かにそれは神による救いなのだろう。

 そんなことをずっと考えていたレグナムを、カミィが瞳を開いて見上げる。

 夜空に浮かぶ月の優しい光のように、慈愛に満ちた笑みをその美しい顔に浮かべながら。

「あやつは……スギライトは優しい奴なのだ。他者の悲しみに自分も涙し、なんとかしてその悲しみを和らげてやりたい。そう考えるような奴なのだ。神々は多く存在すれども、あやつほどに優しい奴は他にはいないのだ」

 カミィの言葉とその顔に浮かんだ慈愛の表情が、真っ正面からレグナムに襲いかかった。

「そしてレグナム。貴様もまた、そのスギライトに負けないぐらい優しい奴なのだな」

「な、ななな…………っっ!?」

 突然のことに言葉を詰まらせるレグナムに、カミィは更なる追撃を加える。

「どこの誰かも知れぬ者の話を聞いて、その者のために本気で思い悩む貴様が優しい奴でなくてなんだと言うのだ? 確かに人によっては貴様をお人好しと言う奴もいるかもしれん。だが、我輩はそんなお人好しで優しい貴様が結構好きだぞ?」

 放たれたカミィの言葉が、レグナムの心に突き刺さる。

 だがそれは決して痛みを与えるような鋭いものではなく、それどころかなにか甘く暖かいものに包まれるような心地よいもので。

 自身の頬が熱を持っていることにも気づかず、レグナムはカミィた立ち去った後もその場にしばらくぼうっと突っ立っていた。




 その後、ようやく我に返ったレグナムは急いでカミィに追いつき、再び肩を並べて『月光の誘い亭』へと向かう。

「なあ、カミィ。さっきの話だが、邪神などという存在はいないと言ったよな?」

「ああ、邪神などというものは人間が一方的に押しつけた価値観に過ぎない。よって、神々の中に本当に邪神と呼ばれるものは存在しないのだ」

「じゃあ、世界のあちこちにある『邪神の囁き』っては一体何なんだよ?」

 この世界──サンバーディアスの各地には、邪神の力の影響を受けた「邪神の囁き」と呼ばれる物や土地が存在している。

 「邪神の囁き」は周囲を歪め、魔獣などの害悪を生み出すと言われている。もしもカミィが言うように邪神が存在しないのならば、これら「邪神の囁き」とは一体何なのか。

「貴様は神々が現在、このサンバーディアスに直接関与しないのはなぜだと思うのだ?」

「そりゃあ……」

 神殿などでは、今の神々はかつての力を失い、サンバーディアスに直接関与できなくなったと教えている。

 力を失った原因に関しては神々の戦いで力を失ったという説や、神々が今は休眠期に入っているという説など、各神々を祀る神殿により様々である。

 しかし、カミィによると実際は力を失っているわけではなく、単に自重しているだけらしい。

「かつては、神々も積極的……いや、自分勝手にこのサンバーディアスに関与したのだ。だがその結果、この世界のあちこちには歪みが生じてしまった──」

 このサンバーディアスは、元より神々によって創られた世界である。だが、創り出された後も神々は何度も手を加えて、いろいろと関与していた。しかし、一度は完成したものに後から様々に手を加えたことで、逆に歪みが生じてしまう。

 更には、複数の神々がそれぞれ思い思いに手を加えたことで、その歪みがややこしくなり、神々でも迂闊に手を出せなくなってしまったらしい。

 その歪みこそが「邪神の囁き」であり、それ以後は神々もこの世界に必要以上に干渉しないようにしたのだとカミィは言う。

さいの小僧や小娘どもは、なぜか互いに争うようにこの世界に手を加えたのでな。そして手を加えた結果を我輩に自慢したものだ」

「……ってことは何か? さいたいしんがおまえに自慢するためにこのサンバーディアスにあれこれと手を加え、その結果『邪神の囁き』ができてしまったと……」

 片手で顔の半分を覆い、夜空を見上げて呆れたように呟くレグナム。

 前にもあったことだが、カミィから神々の話を聞いていると、従来の神々に対する思いや考えが音を立てて崩れていきそうだ。

 とはいえ、神々からすれば矮小な存在に過ぎない人間に、偉大なる神々の真意を理解することなどできるものではない。

 かつて、一人の強大な力を宿した聖別者が、より神の意志を理解しようと更なる神との接触を試みたことがあったらしい。

 しかしその聖別者は、神の大きすぎる意志に触れすぎて逆に自分の心を壊してしまったという。

 そんな神々が何を考えているのかなど、人間に理解できるはずがない。

 ただ分かっているのは、神々が人間を見守り導く存在であることだ。だから人間は神々に祈りを捧げる。

「……まあ、今は神々がどうとかどうでもいい。それよりも、この街で起きている事件の方が優先だな」

 この街で起きている連続行方不明事件。その事件を解決する方が先決だと、レグナムは意識を切り替える。

「狂気を司る神が邪神ではないのなら、その信者たちが暗躍しているかもしれないってのは、やっぱり単なる噂か」

「それは分からんのだ」

 またまたカミィが不可解なことを口にした。

 先程は彼女自身が邪神など存在しないと言ったばかりである。それなのに、今度は邪神の信者が暗躍しているかもしれないと言う。

 そんな疑問がレグナムの顔に現れていたのだろう。カミィは更に言葉を続けた。

「確かに邪神は存在しない。だが、人間が邪神だと信じている神ならば存在する。例えば、くだんの狂神スギライトのようにな」

「……なるほど、そういうことか。例え邪神ではなくても、人間が勝手に邪神として祀り上げることはあり得るし、その信者たち……いや、この場合は狂信者と言うべきか? 狂信者たちが自らの神のためにと生け贄を捧げることは十分ありうる、と」

「そういうことなのだ」

 ならば、今回の件に狂神の狂信者たちが関わっている可能性も出てくる。

 カミィが感じたという神気も、そんな狂信者たちが神へと捧げる信仰によるものだったのかもしれない。

 例え方向性は違っていても信仰は信仰。信仰は神へと届けられ、その神の力の一部になるのだから。

「……となると、おまえが感じたという神気を追ってみるのも一つの手だな」

「うむ。明日から街中を見て回るぞ。そして、途中で何か美味しそうなものを見つけたらぜひ食べたいのだ」

「…………おまえ、それが主な目的じゃないからな?」

 思わず自らの神へとじっとりとした視線を注いでいるうちに、二人は『月光の誘い亭』に到着した。

 中からはまだまだ賑やかな喧騒が外まで伝わってくる。僅かに楽器の音も響いていることから、吟遊詩人でも訪れたのだろう。

 屋外は行方不明事件を警戒して出歩く者は少ないが、宿屋の中までは事件の影響もあまり関係ないようだ。

 さて、店に残したクラルーが何か有益な情報を掴んでくれているといいが、と僅かに期待しながらレグナムは店の扉を押し開ける。

 そして店へと入った途端、レグナムの足が思わず止まった。彼に続いて店に入ろうとしたカミィが、立ち止まったその背中に鼻先をぶつけて「みぎゃらぶ」と小さく声を上げる。

「ど、どうして急に立ち止まったのだっ!? 鼻をぶつけてしまったではないかっ!? とっても痛いのだっ!!」

 痛む鼻を片手で押さえながら、カミィは立ち尽くしているレグナムに文句を言う。

 だが、レグナムはカミィの文句などまるで聞こえていないように、じっと前方を見つめるばかり。

 それに気づいたカミィがレグナムの視線を追うと、そこにあった光景を見て不審そうに眉を寄せた。

 そこにあった光景。

 それは先程見たあちこちが何かと危ない女給のお仕着せ姿のクラルーに、整った顔立ちの吟遊詩人らしき男性が、手にした楽器で甘い調子の曲を奏でながら熱心に迫っている、というものだった。


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