第19話 大海魔の最後


──げえええぇぇぇぇぇぇぇごおおおおぉぉぉぉぉぉ。

 ラリマーの街中に響くおおあまがえるの咆哮。

 しかし、今度の咆哮はそれまでとは違い、明らかに苦しげな咆哮だった。

 それもそのはず。大海蛙の全身は、せいしんの神気による稲妻で焼かれて黒こげなのだ。

 そんな状態でもなお、大海蛙は生きているどころか再び立ち上がった。それも全ては神獣の恐るべき生命力あってこそ。

 そもそも、この大海蛙は青神によって造り出されたという。ならば、青神の神気にある程度の耐性があったのだろう。もしも大海蛙を造り出したのが青神でなければ、又はレグナムの小剣ショートソードに祝福を与えたのが他の神々であれば、例え神獣といえども再び立ち上がることは不可能だったはずだ。

 先程まで歓声に包まれていたラリマーの街。だが、今は再び悲鳴と絶望に包まれていた。

 そして、絶望を感じていたのは民衆だけではない。

 領主であるカムリとその配下の兵士たちは、大海蛙とレグナムたちの死闘を全て見てきた。レグナムとカミィがどれだけ激しい戦いを繰り広げてきたか、他ならぬ彼らが一番よく分かっている。

 あれだけの死闘を繰り広げ、あまつさえ青神の聖剣の力を浴びて全身を焼かれても尚、こうして立ち上がってきた大海蛙。

 その驚異的な生命力に、彼らの士気と闘志は脆くも崩れ去った。

 さすがに領主であるカムリの命令を無視してこの場から逃げ出す者こそいないものの、彼らの顔には一様に絶望の色が広がっているのが容易に見て取れる。

 無論、カムリもまたこの怪物に途轍もない恐怖を改めて感じていた。

 領主であり、兵士たちの指揮官でもある彼は、その思いを面にこそ出さないものの、内心は恐怖と絶望で塗り固められている。

 そんな彼が──いや、彼と彼の兵士、そしてラリマーの住民たちの縋るような視線が、自然と《剣鬼》の異名を持つ傭兵と、神を名乗る少女へと向けられたのは無理もないことだろう。




「…………化け物め……」

 レグナムは苦しげに顔を顰めると、誰に言うでもなくそう吐き捨てた。

 ちらりと右手に持った小剣へと視線を走らせれば、先程まではあれほど神々しく輝いていた青い光は既にない。

 カミィが言ったように、この剣に宿っていた祝福はさっきの一撃で使い果たしてしまったのだろう。

 神気を失い、聖剣だった小剣も今ではただの鋼の剣に過ぎない。それでもレグナムは、力の限りその小剣を握り締めた。

 体力の限界は既に超えている。今にも倒れ込みそうなほどに。

 それに加えて、目の前の怪物に有効な攻撃手段も失われた。

 そんな状態で気丈にも大海蛙とこうして対峙していられるのは、その隣に彼が認めた神がいるからに他ならない。

「……カミィ。さっきのような攻撃……もう一度行けるか?」

「……正直、厳しいな。所詮は貴様一人の信仰を糧にした神気だ。使ってしまえば回復するまでしばしかかるのだ」

 どうやら、自分だけでなくカミィもまた打ち止めのようだ。

 神々の力──神気も、使えば消耗していく。現状でレグナム一人の信仰に支えられているカミィの力は、先程の猛攻でその殆どを使い果たしていた。

 先程のカミィの活躍を見て、彼女に祈りを捧げるラリマーの住民もいるが、所詮は少数であり彼女の力とは成り得ていない。

 たった一人で僅かでもカミィの糧となったレグナムの信仰こそが、異例中の異例と言える。

 本格的に絶体絶命。レグナムの心の中にも、絶望という名の暗雲が徐々に広がっていく。




 立ち上がった大海蛙がすぐに攻撃してこないのは、実はこの神獣もまたそれだけの余裕がないからだが、そんなことはレグナムにもカミィにも、そしてこの街の人間たちにも誰一人として分からない。

 本来ならば大海蛙は、生存本能に従って元いた海へと逃げ出すところだ。だが、神獣は逃げない。いや、逃げたくても海へは逃げられない理由があった。

 だから神獣は、自分を傷つけた目の前の小さな存在を叩き潰し、海ではない方向へ進むことを決めた。

 ずん、と一歩足を踏み出す。

 膨大な質量を持つ存在の移動に、踏み出した足の周囲の大地が僅かに揺れる。

 合わせて、焼け焦げた自身の身体から、炭化した皮膚やら筋肉やらもぱらぱらと落下するが、大海蛙にそれを気にしている余裕はない。

 真紅の目でその足元を見やれば、先程自分を傷つけた小さな生き物が二体、逃げもせずにじっと自分を見上げていた。

 先程まで周囲に満ちていた神気はもうない。ならば、大海蛙が怖れる必要もない。このまま足元の小さな生き物を踏み潰し、その向こうに群れる同じ生き物を食らって傷ついた身体を回復させる糧とする。

 そして、早々にこの場を離れるのだ。

 そうしなければ、背後の海から「アレ」がやって来てしまう。大海蛙にとって、天敵ともいうべき「アレ」が。

 大海蛙は「アレ」から逃れるために、それまでの棲み慣れたねぐらさえも捨てて、こうして陸へと揚がったのだから。

 だが。

 だが、結果から言えば、大海蛙がそう決意したのは少々遅かった。

 レグナムとカミィという存在と対峙し、それに時間をかけ過ぎたのだということを、神獣はこの後すぐに悟ることになる。




「──────ようやく来たか」

 追い詰められているはずなのに、なぜかカミィはにっこりと笑った。

 その笑みの意味が分からず、首を傾げるレグナム。それに、何が来たと言うのだろうか。

 しかし、彼のその疑問をすぐに解消することとなる。

 なぜなら、目の前の大海蛙の背後に広がる海から、「ソレ」は現れたのだから。

 海の中から何かが飛び出す。しかも、それは一つではなかった。幾条もの細長い何かが、海から飛び出して大海蛙を絡め取って行く。

「……な、何だ……あれは……?」

 その光景を見たレグナムが呆然と呟く。

 海から飛び出した細長い何か。それは蛍の光のような淡い輝きを所々に宿した、透き通った縄のようなものだ。

 いや、縄ではない。あれは何か生き物の身体の一部だ。それを見たレグナムはそう判断する。

 海から現れた縄のようなものは、うねうねと蠢きながら大海蛙の身体中を絡め取り、ぎりぎりと締め上げていく。

──げごおおおおぉぉぉぉぉぉ。

 締め上げられた大海蛙が、先程よりも更に苦しそうな咆哮──と言うよりは悲鳴──を上げた。

──ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ──

 そして、その悲鳴に重なるように、これまた咆哮のようなものが海の中から響いてきた。

 しかし、その咆哮は大海蛙のような太く濁った咆哮ではなく、まるで女性の声のように澄んだものであり。

 その咆哮を聞いたカミィの笑みが、更に深くなったことにレグナムは気づいていた。

「お、おい、カミィ。もしかして、あれが何なのか知っているのか?」

──しゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ──

 レグナムの声に、またもや重なるように響く咆哮。

 いや、それは咆哮というよりは叫び声に近くて。

 不思議そうなレグナムとは真逆に、カミィはその笑みを更に更に深めていく。

──じぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん──

「あれはな……言ってみれば、あの大ガエルの天敵だ」

「……あ、あの神獣の天敵だと……?」

 神獣とは、神々が直接力を与えた存在である。そんな存在に、天敵と成り得るものがいるとは。

 レグナムにはとても信じられない。だが、カミィの落ち着き払った様子を見る限り、その言葉に嘘はなさそうだ。

──さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──

 大海蛙に絡みつく、所々を淡く輝かせた透明な縄のようなものは、どんどんとその数を増していく。

 そして、ぎりぎりという異音と共に大海蛙を締め付ける。時折、ばきりとかべきりとかいう破砕音が聞こえるのは、おそらく大海蛙のどこかの骨が砕けているからだろう。

 やがて透明な縄が出現している辺りの海がぼこりと盛り上がると、「それ」が大量の海水を押しのけながら姿を見せた。

──まぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!

「………………く、海月くらげ……?」

 それを目の当たりにして、思わずといった感じに呟くレグナム。

 彼の言葉通り、海から現れたのは大海蛙よりも遥かに巨大な海月だった。

 透明な縄のようなもの──大海月の触手と同様、所々を淡く輝かせる海月の本体ともいうべき傘の部分。その傘の大きさだけでも大海蛙よりも大きい。

 大海蛙の身体と比較するに、おそらくは傘だけで高さ五ザーム(約十五メートル)、その直径は七ザーム(約二十一メートル)にも及ぶだろう。

 そして、そこから伸びる何十本という長い触手。その触手を含めた全長ともなると、どれほどの大きさになるのか見当もつかない。

「あの大ガエルを造り出したのは青の小僧。そして、あっちの大クラゲを造り出したのは──」

 呆然と大海月を見詰めるレグナムに、カミィは腰に手を当て、自慢気にその形の良い二つの膨らみを誇示するように胸を張る。

「──何を隠そう、この我輩だ」




 最初、レグナムは隣に立つ少女が何を言っているのか分からなかった。

「………………えっと……どういうことだ……?」

 隣の少女の自慢そうな横顔と、大海月の触手に締め付けられて何度も苦悶の咆哮を上げる大海蛙を交互に見やりながら、レグナムは何とかそれだけの言葉を口にする。

「もう随分と昔のことなのだ。ある時、青の小僧が我輩に勝負を持ちかけて来たのだ」

 神々の頂点に立つと言われるさいたいしん。その一柱である青神から直接勝負を持ちかけられたというカミィに、レグナムは思わず目を丸くする。

 そんな彼の心境を知ってか知らずか、更に言葉を続けたカミィによると、その勝負とは一定の時間内に自らが選んだ小動物にそれぞれ神気を注いで神獣を造り出し、その神獣同士を戦わせて優劣を競うというものだったらしい。

 その際、青神が造り出したのが大海蛙であり、カミィが造り出したのがあの大海月だった。

「あやつらは生まれた時から互いに争い合う宿命を持っているのだ。故に、あの大クラゲは大カエルの天敵というわけだな」

 自慢そうに語るカミィ。いや、間違いなく彼女は自慢しているのだろう。

 となれば、その時の勝負の結果は今更聞くまでもない。

「先程我輩が海に落ちた時、あやつの気配を感じた。どうやらあやつも我輩の気配を感じ取り、この近くまで来ておったらしくてな。それで早く来いと改めて命じてやったのだ」

 ぽかんとした表情を浮かべてカミィの言葉を聞いているレグナム。そんな彼の耳に、一際大きな何かが砕けた音が届いた。

 反射的にその音の方へと振り向けば、大海蛙の巨体がまるで雑巾を絞るように捻じれていた。大海月の触手に締め付けられ、全身の骨という骨を砕かれて、強大を誇った大海蛙の生命力もついに尽きたようだ。

 そして大海月は、絶命した大海蛙の身体をそのまま海へと引き込むと、自身もまた海へと帰って行った。

 後に残されたのは、大海月が消えて荒れた海を呆然と眺めるレグナム。

 いや、カムリを始めとしたラリマーの住民たちもまた、一人残らずレグナムと同じ表情を浮かべていつまでも大海月の消えた海を眺めていた。




 どれくらいそうやって海を眺めていただろうか。

 港に係留されていた船舶はどれもが大なり小なり大海蛙の影響で被害を受けているが、大海蛙と大海月が消えた海は今ではすっかりと落ち着いている。

 その落ち着いた港内の海。その港内の海に突き出した桟橋の一つの傍らに、幾つものが沸き上がっているのに、レグナムはようやく気づいた。

「……何だ、ありゃ? 小魚でも大量にいるのか?──ま、まさかあの魚モドキの魔獣がまた出してくるんじゃねえだろうな?」

 今だ右手に握り締めたままだった小剣を構え直し、レグナムは隣のカミィよりも数歩前へと出てあぶくの沸き上がっている海を注視する。

 その直後、それは海から飛び出して来た。

 海から飛び出したそれは、レグナムの脇を彼が反応できないほどの速度で通り過ぎ、その後ろに立っていたカミィへと飛びかかる。

 隙を突かれたレグナムが驚いて振り向けば、そこに今日何度目か分からない信じられないものを見る。

「ご主人様あああああぁぁぁぁぁぁぁっ!! お会いしとうございましたああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 そう叫びながら、一人の女性がカミィへとしがみつき、嬉し涙──だと思われる──を流している、という光景を。

 そして。

 そして、その理由はレグナムにはさっぱり分からないが、その女性もまた今のカミィと同様に全裸すっぽんぽんだったのだ。

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