第18話 聖剣

 ふらつきながらも、レグナムは何とか立ち上がった。

 彼が立ち上がる間、カミィは不敵な笑みを浮かべながらそれを見ているだけ。

 怪我を癒してくれ、とはレグナムは願わない。

 怪我を癒してやろうか、とはカミィは問わない。

 彼らは知っているのだ。まだ全てが終わったわけではないことを。

 彼らが一緒にゆっくりと振り向けば、そこには再び立ち上がったおおあまがえるがいた。

 表情のないはずのその顔に、怒りのようなものが浮かんでいるように見えるのは、おそらくはレグナムの気のせいではないだろう。

──げえええぇぇぇぇぇぇぇこ。

 大海蛙の大きな鳴き声──いや、咆哮。

 怒りの咆哮か。それとも、敵である二人の心を恐怖に染めるための威嚇の咆哮か。

 しかし、二人の顔に浮かぶのは、不敵な笑み。カミィと一緒ならば。レグナムと一緒ならば。敵がどんなに強大であろうとも負けるはずがない。今の二人の胸中にはそんな確信が満ち満ちていた。

「カミィ……我が神よ。どうやってあの化け物を倒すつもりだ?」

「何、案ずるな。手はある」

 そう言う彼女の目は、レグナムに残された小剣ショートソードへと向けられていた。

「貴様は気づいておらんようだが、その小剣は聖剣だ」

「せ、聖剣だと? こ、この小剣がか……?」

 レグナムは驚きに目を見開き、まじまじと自分の手の中にある、鞘に収まったままの小剣を見詰める。

「貴様の師匠とやらは言ったそうだな。その剣は来るべき時が来れば抜ける、と。おそらく、その師匠は知っておったのだ。その小剣が聖剣であることをな」

 カミィに言われ、レグナムの脳裏にかつての師匠の言葉が甦る。


──そいつぁ、おまえが一人立ちした証にくれてやらぁ。だが、その剣はちょいと我が儘でな? 剣自身がその気になった時にしか抜けねぇんだ。実を言えば、儂も抜いたことはこれまで一度もねぇ。だから、おめぇがその剣を抜ける時が来るかどうかは分からんぜぇ?




 聖剣。

 それは神々の祝福や加護──神の息吹──を受けた武具。

 もちろん、それは剣だけに限らず槍や斧、そして鎧や楯などその種類は多岐にわたる。神々が何らかの目的のため、人間に恩恵や祝福として与えたものである。

 だが、それらの武具は極めて強力であり、神々はその強力な力を気安く使えぬように様々な条件付けを行う。その条件を全て満たした時、聖剣は初めてその真なる力を発揮するという。

 カミィの言う通りこの小剣が聖剣ならば、これまで鞘から抜けなかったのかも納得がいく。

「初めて貴様と出会った時から、その小剣からは青の小僧の神気がぷんぷんしておったのだ。青の小僧が造り出した神獣を、青の小僧が加護を与えた武具で葬る、か。ふふん、小僧の口惜しそうな顔が目に浮かぶのだ。ざまあ見ろ」

 くくく、とどこか黒い笑いを零すカミィ。しかし、レグナムはそんな彼女よりも手にした小見をずっと凝視していた。

「だ、だがよ、実際にこの剣は抜けないんだ。それをどうやって抜くつもりだ?」

「造作ない。貸してみるのだ」

 カミィはレグナムから受け取った小剣を、改めて検分する。

「……ふん、大した封印ではないな。これなら僅かとはいえ力を取り戻した我輩ならば……」

 カミィはそう言いながら、その花弁のような可憐な唇をそっと小剣へと寄せた。

「目覚めよ、青の聖剣よ。貴様の生みの親であるせいしんに成り代わり、我輩が命じる──」

 ちゅ。

 かちり。

 レグナムの耳に、二つの音が続けて響く。

 最初の音は、カミィが小剣にその唇を触れさせた音。続いた次の音は、小剣自身が奏でた小さな金属音。

 本来であれば、青神の祝福を受けた聖剣が、同じ青神によって造られた神獣相手にその力をふるうことはないだろう。だが、カミィはその聖剣を強引に目覚めさせた。

 それはまさしく、勇者を覚醒させる美姫の目覚めの接吻くちづけ

 今まで何があっても決して抜けることのなかった聖剣は、カミィの白い繊手によってすらりと苦もなく引き抜かれた。

 途端、溢れ出すは青い清浄な光。

 空の青。海の青。どこまでも青いそれらを全て寄り集めたような、澄んだ青い光が小剣の刀身から放たれる。

 熾烈にして優雅。

 苛烈にして平穏。

 晴れ渡った空の穏やかさと、荒れた海の荒々しさを兼ね備えた青い光。

 神々しいばかりのその青光に、レグナムは言葉を忘れてただじっと聖剣に見入る。

「こ、これが……聖剣……青神の祝福……」

 ようやくそれだけの言葉を絞り出したレグナムに、カミィは微笑みながらその聖剣を手渡した。

「そうだ。これが青の小僧の祝福を受けた聖剣だ。だが、心せよレグナム」

 それまでの笑みを引っ込め、カミィは至極真剣な表情を浮かべてレグナムに告げる。

「その聖剣に与えられた祝福は残り少ない。おそらく、残された祝福はあと一回の攻撃の分だけなのだ」

「一回だけ……?」

 この小剣が、いつ、どこで、どのような目的のために聖剣となったのか。それはカミィにも分からないそうだ。

 しかし、この小剣が長い月日の間に幾人もの使い手の手に渡り、度々その祝福の力を用いてきたのは事実だろう。そして、使用される度に与えられた祝福もまた少しずつ消費されていった。おそらく、青神がそのような祝福の与え方をした、とカミィは語った。

「だから、貴様は機を逃すことなく聖剣を振るえ。貴様が聖剣を振るう機は、我輩が造り出してやるのだ」

 そう言って、カミィは不敵に笑う。

 だからレグナムもまた、そんな彼女に応えるように不敵な笑みを浮かべた。




──げえええぇぇぇぇぇぇぇこ。

 二人の耳に、再び大海蛙の咆哮が届く。

 見れば、大海蛙は怯えたように一歩、二歩と後ずさっている。

 大海蛙は青神によって造りだされた存在。言わば、青神は大海蛙にとって親にも等しい。

 その親の気配を濃厚に感じたのだろう。レグナムが手にする聖剣の青光を、まるで嫌がって撥ね除けるかのようにその短い前脚を振り回している。

「ふん、神獣とはいえ所詮は獣。己よりも力の強いものは敏感に感じ取れるようだな」

 カミィはそう言い捨てると、その場で勢いよく跳躍した。

 どん、という衝撃。彼女が蹴った地面がその衝撃に絶えきれず、大きくひび割れて窪む。

 舞い上がるカミィのその勢いは、先程までとはまるで違う。僅かばかりとはいえ信仰という力を得た彼女は、その驚異的な身体能力を更に上昇させていた。

 白い稲妻と化して、カミィは大海蛙の突き出した顎を下から強烈に拳で撃ち上げる。

 どぱあん、という大きな破裂音と共に、大海蛙の頭が仰け反って真上へと強制的に向けられる。そして、ほんの僅かだが大海蛙の巨体がふわりと浮き上がった。

 その光景を見ていたレグナムや、彼らを遠くから見詰めていたカムリや配下の兵士たち、そして街の住人たちは信じられない思いで目を見開く。

 なんせ、小柄な少女の小さな拳が三ザーム(約九メートル)以上もある巨体を、僅かとはいえ宙へと舞い上がらせたのだ。その目で見ていたとしても、とても信じられるような光景ではないだろう。

 そして、これだけでカミィの攻撃は終わらない。終わるわけがない。

 カミィは空中で器用に身体を捩じると、今度はその身体を大きく回転させて蹴りを繰り出す。

 その目標は、仰け反った反動で戻ってきた大海蛙の頭部。その頭部に、少女の白くて細い足が颶風を纏って横から襲いかかった。

 再び大きな破裂音。しかも、その破裂音は連続して発生する。

 カミィは空中で勢いよく回転し、連続してその両足を大海蛙の頭部に叩きつけ続けたのだ。

 そして、横合いからの連続した強烈な衝撃に、大海蛙の巨体がたまらずにぐらりと傾ぐ。

「下等な神獣よ! そして民衆よ! 刮目せよ! これが神である我輩の──いや、我輩とその第一の信徒であるレグナムの信仰おもいの力なのだっ!!」

 高らかな宣言と同時に、カミィは器用にも傾いだ大海蛙の鼻先に着地する。

 そして、その鼻先を足場に再び跳躍。

 今度は高々と舞う跳躍ではなく、その場で後ろへ回転するような跳び方で。

 後ろへくるりと素早く縦に一回転したカミィの裸身。彼女はその勢いのまま右足を下から上へと振り上げた。

 今までに増して一際大きな轟音が港中──いや、ラリマーの街中に響き渡る。

 横へと傾いでいた大海蛙の巨体。その巨体が、今度は仰向けに倒れるように傾いていく。

 その瞬間、いまだ宙にあるカミィと、虎視眈々とその時を待っていたレグナムの視線が確かに交差した。

 清冽な青光を放つ聖剣を、レグナムは静かに上段に構える。

「────────────────っ!!」

 声にならない裂帛の気合いと共に、レグナムは聖剣を勢いよく振り下ろす。

 レグナムが今いる場所と、ゆっくりと倒れ行く大海蛙までの距離は六ザーム(約十八メートル)以上。

 普通ならば、そんな遠距離から剣の斬撃が届くはずがない。

 だが、レグナムには分かっていた。

 聖剣をどう扱えばいいのか。聖剣にはどのような力が秘められているのか。

 どうしてそれが分かったのかは、実は彼にもよく理解できていない。

 それでも聖剣の扱いを彼は理解した。

──目の前に本物の神が現れたんだ。それに比べりゃ、聖剣の使い方が何となく分かっても不思議でも何でもねえさ。

 胸の中だけでそう呟く。そして、力強く、鋭く、それでいて極めて静かに上から下へと振り抜かれる聖剣。

 空気を切り裂くように振り抜かれた聖剣から、更に強烈な光が迸る。

 迸った光は宙で幾条にも枝分かれして広がり、倒れつつある大海蛙をまるで投網のように包み込む。

 そして、大海蛙の巨体を完全に包み込んだ瞬間、青い光は青い稲妻へと変化した。

 稲妻と化した青神の神気が、包み込んだ大海蛙へと殺到し、大海蛙の身体を満遍なく焼いていく。

 それは長いようでほんの数瞬のできごとだった。周囲に満ちていた神々しい青光が消え去り、その代わりに何かが焼け焦げたような、ある種独特の匂いがラリマーの港中に広がった。

 そして、どおおおおおんという大轟音。真っ黒に焼け焦げた大海蛙の巨体が大地へと倒れた音だ。

 しばし、港は静寂に包まれる。だが、次の瞬間には大きな歓声が静寂に取って代わった。

 もちろん、歓声を上げているのは兵士たちやこの街の住民たちである。彼らは巨大な怪物をたった二人で倒してしまったレグナムとカミィの二人に、惜しみない大歓声を上げていた。

 光の消えた聖剣を手にしたまま、ぼうっと倒れた大海蛙を見詰めていたレグナムは、ようやく歓声に気づいたかのようにそちらへと振り向いた。

 同時に、彼の傍らにふわりとカミィも着地する。

 二人は互いに顔を見合わせると、不敵な笑みを浮かべながら拳同士を打ち合わせた。

 改めて、兵や住民たちへと振り向いた二人に、再び大歓声が巻き起こる。

 その大歓声に、カミィは自慢気な笑顔で、そしてレグナムはどこか気恥ずかしそうに民衆に対応し────────ようとして、レグナムはとあることに気づいて凍りついた。

 ぎぎぎぎ、とぎこちなく隣に立つ少女へと振り向けば、そこには思った通りの光景が。

 そう。

 カミィはいまだに全裸すっぽんぽんだったのだ。

 だというのに、彼女はまるで恥ずかしがる素振りもなく、自信満々に胸を張り、その細くて白い右手を高々と天へと突き上げた。

「聞け! 民衆よ! 我輩は神である! 我輩を崇めよ! 奉れ!」

 彼女がそう高らかに宣言すれば、歓声が更に大きくなった。

 さすがに彼女の宣言を聞いた者が、言葉通りに神だと認めたわけではないだろう。だが、それでも彼女はあの巨大な大海蛙と素手で互角以上に渡り合ったのだ。

 そんな彼女に何らかの超越的な力を感じ取り、言われるがままに祈りを捧げる者も少なからず存在した。

 驚異的な力をその小柄な身体に宿し、全裸の身体を惜しげもなく全て晒して自分が神であると宣言する極めて美しい少女。

 確かにある意味で神々しくはあり、信仰の対象となっても不思議ではないかもしれない。

 だが、レグナムは自分が信仰すると決めた神のその姿に、激しい頭痛と共に怒涛の疲労を感じ、隣に立つの脳天にごつんといつものように拳を落とす。

「みぎにゃっ!!」

 そしてやっぱり、いつものように可愛い悲鳴を上げるカミィ。

「この馬鹿娘がっ!! どうでもいいから、早く何か着ろっ!! 」

「何するのだっ!? 神の頭をぽんぽんと気安く殴るなっ!! 我輩は貴様の神なのだっ!!」

「だったらと言って、人前で裸になってもいいってわけじゃねえっ!! 気安く裸になるなって何度言ったら分かるんだよっ!?」

「ううーっ!! 貴様は神に対する敬意が足りんのだっ!! もっと我輩を崇めろっ!! 奉れっ!!」

 突如始まった二人の愉快なやり取りに、歓声は笑い声に代わっていった。

 だが。

 だが、その笑い声が不意にぴたりと止んだ。

 その事に、レグナムとカミィもすぐに気づいた。そして感じたのだ。背後に巨大な気配があることに。

 弾かれるように振り向いた二人の視線の先。

 全身を黒こげにされた大海蛙が再び立ち上がり、その真紅の目でぎろりと二人を見下ろしていた。

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