第17話 信仰


 がつんと重い衝撃に、剣を握った手が痺れる。

 思わず取り落としそうになる剣を必死に握り締め、レグナムは鞭のようにしなりながら襲い来るおおあまがえるの舌を弾く。

 その巨体から容易に想像できるようが、大海蛙の攻撃は極めて重い。

 レグナムは先程から単身で大海蛙の攻撃を、時に避け、時に弾いて応戦している。

 しかも大海蛙の舌は強靭でありながらしなやかで、レグナムが剣で斬りつけようとも切断するには及ばない。精々、表面にうっすらと朱線を刻み込むだけだ。

 結果、どうしてもレグナムは防戦一方となる。

 幸いなのは、大海蛙の手足は短く、攻撃に用いることができないことか。相手の攻撃手段が限定されているからこそ、レグナムも何とか応戦することができていた。

 もちろん、それはレグナムの優れた技量があってこそである。もしもこれがその辺の傭兵程度であれば、舌の動きを見切ることさえ適わずにあっという間に舌に押し潰されて肉塊にされるか、さもなくば舌に絡め取られて大海蛙の餌となっているだろう。

 だが、いくらレグナムが手練とはいえ、この体格差は如何ともしがたい。体格に違いがありすぎて近寄ることさえままならない。向こうの攻撃は届くのに、こちらの攻撃は届かない。つまりは一方的に攻められ続けることになる。

 それに加えて、レグナムはここまで連戦を続けてきた。

 カムリとの手合わせ、そして蜥蜴魚とかげうおとの交戦、そして極め付けがこの大海蛙だ。

 目立った外傷こそないものの、彼の体力は既に尽きかけている。それでも彼はその強靭な精神力のみで、こうして大海蛙の攻撃を何とか凌いでいた。

 レグナムは傭兵だ。

 確かに領主であるカムリに雇われてはいるものの、この街は故郷でもなければ特別な愛着がある街でもない。

 単なる傭兵に過ぎない以上、この状況で逃げ出しても誰も文句は言わない。何と言っても相手は巨大な神獣なのだ。防戦一方とはいえ、その神獣相手にたった一人で応戦している彼を、誉める称えることはあっても批難するような者はいないだろう。

 それでも、レグナムは逃げることなく、疲れきった身体を引き摺って巨大神獣と対峙する。

 彼がそこまでして必死に踏ん張る理由。

 それはもちろん、先程海に没した少女にあった。




 視界が徐々に暗くなる。

 足元がふらついて安定しない。

 握力が低下して剣が上手く握れない。

 身体中が悲鳴を上げるのを歯を食いしばって押し殺し、レグナムは大海蛙の舌による攻撃を必死に凌ぐ。

 疾風の如き速さで繰り出される大海蛙の舌。その舌の軌道を瞬時に見切り、レグナムは横へと飛んでその攻撃を躱す。

 しかし、着地の瞬間に足元がぐらりとぐらつき、溜まらず地面へと倒れ込む。それでも何とか受け身を取ってすぐに体勢を立て直すことに成功する。

 ちらりと横目で見れば、先程まで彼が立っていた場所の地面が大きく抉れていた。彼が避けたことで大海蛙の舌が地面に当たり、そこが砕け散ったのだろう。

「……くそったれが……」

 誰に言うでもなく一人ごち、レグナムは巨大な神獣を見上げた。

 遥か頭上にある大海蛙の頭。その頭の両脇に突き出した真紅の目が、ぐりぐりと動きながらレグナムを見下ろしている。

 はっきり言って、この神獣に対して有効な攻撃手段はない。

 今は何とか敵の攻撃を防いではいるものの、このままではいつかあの舌の一撃を喰らうだろう。

 こちらに有効打がない以上、じり貧に陥るのは当然だ。

 それでも。

 それでも、レグナムは背中を見せるつもりはなかった。

 彼は海に消えた少女が無事であると信じている。いや、無事だと確信していると言ってもいい。

 もしも。もしも彼女が彼女自身が言う通りの存在であるならば。

 例え今はその力を失っていたとしても、あの程度でどうにかなるわけがないではないか。

「……あの馬鹿娘が……早く戻って来やがれ」

 没した海から彼女が飛び出してくるのを信じて、レグナムはその瞳に闘志の炎を灯らせ続ける。




 ゆっくりと海の底へと沈みながら、彼女は悔しさを噛みしめていた。

 自分にかつての力があれば。かつての力の一万分の一でもいい。彼女本来の力があれば。

 例え神獣とはいえ、あのような下級神獣など一瞬で葬り去ることができただろうに。

 あの大海蛙は、せいしんが限られた条件の元で創造した神獣だ。自然、その力は極めて限定的なもので、神獣としては最底辺の力しか持たない。

 本来であれば、彼女があんな下級神獣に遅れをとるはずがないのだ。

──力を。我輩に力を! 我輩を崇めよ! 奉れ! さすれば、我輩は再び力を取り戻すはずなのだ!

 力のない今の自分が口惜しい。海の中をゆっくりと揺蕩たゆたいながら、彼女はぎりっと一度だけ歯を噛みしめた。

 その時。

 まるで暗い夜空にたった一つの星が煌めいたように。

 まるで渇いた大地にたった一滴の雨が落ちたかのように。

 まるで降り積もった雪の中から小さな芽が芽吹いたかのように。

 彼女の身体の奥底で、じんわりとほんの少しだけ暖かなものが広がった。

 それはかつて彼女が有していたものに比べて、本当に僅かなものでしかない。それはかつて彼女が持っていたものの十万分の一、それを更に十万分の一にしたほどの、本当に小さな小さな温もりの欠片。

 だが、その欠片は確かに彼女の中にあった。

 それを感じた彼女は、海の中でその美しい顔に花が咲き乱れるような笑みを浮かべた。

 今、彼女の中で広がった小さな小さな温もり。その温もりがどこからもたらされたのか、彼女には理解できたのだ。

──ふん、あやつめ……ようやく我輩の言葉を信じたか。

 脳裏に思い描いた青年に心の中でそう告げると、彼女は身体の奥底の温もりをゆっくりと引き上げていく。

 小さな小さな温もりの欠片。しかし、それは確かに彼女に宿った──いや、彼女が取り戻した力だった。




 《剣鬼》の腕から、ついに長剣ロングソードが弾き飛ばされた。

 弾き飛ばされた長剣は、金属特有の甲高い音を立てて桟橋の方へと転がり、そのまま海に落ちて沈んでいった。

 その光景をカムリが、彼の配下の兵士たちが、そしてこの街の住人たちが、悲壮な顔でじっと見詰めている。

 海から現れた伝説の大海蛙。その大海蛙と、たった一人で相対している青年。

 それをカムリとその部下たちは港から少し離れた所で。

 街の住人たちは、逃げ込んだ建物の窓や、避難した街外れの高台から。

 たった一人の青年が巨大な魔獣──カムリや街の住人たちはそれが神獣だとは知らない──と互角に戦うのを、固唾を飲んで見守っていた。

 カムリを始め、彼の配下の兵士たちは、その青年の技量に改めて驚愕した。

 彼らはあの青年が、《剣鬼》と呼ばれる凄腕の傭兵であることは知っていた。カムリに至っては、つい先程実際に剣と剣を交えた。

 それでも、その技量の高さを改めて目の当たりにすると、驚愕しないではいられなかった。

 街の住人たちもまた、彼がどこの誰かまでは知らないが、それでもたった一人で巨大な魔獣に立ち向かうその姿に、どこかの英雄譚に登場する英雄を見ているような気分になった。

 襲い来る長くて巨大な舌。それを青年は手にした二振りの剣でことごとく防ぐ。

 しかし、ついに彼にも限界が訪れたようだ。

 長剣は弾き飛ばされ、その足元は不安定極まりない。

 今にも倒れ込みそうな身体を何とか立て直し、それでもいまだ目に闘志を宿して、青年は左手に持っていた鞘に収まったままの小剣ショートソードを右手に持ち変える。

 勝ち目などあるはずがない。誰もがそう思った。

 それなのにどうして逃げない? 強大な敵にどうしてそこまで抗う? 誰もがそう疑問に感じた。

 無論、青年は彼らの疑問に答えない。ただ、無言のまま彼らに背中を見せつづけるのみ。

 そんな青年に、もう何度目か分からない魔獣の舌が襲いかかる。

 ふらつく身体に活を入れ、青年は残された小剣でその舌を受け流す。

 しかし、そこで彼に限界が訪れた。

 舌の攻撃を小剣で受けるには受けたのだが、その衝撃を逃がすことに失敗して、青年の身体が吹き飛ばされたのだ。

 吹き飛ばされた青年の身体は、港にあった建物の一つに激突する。

 周囲に積まれていた木箱などががらがらと崩れ、青年の身体に降り注ぐ。

 青年は倒れたまま動かない。動けない。

 その事実に、青年をじっと見守っていた人々から悲痛な声が上がる。

 彼の抵抗が終わったことを悟ったのか、大海蛙はのたのたとがに股の短い足を動かして、ゆっくりと青年へと近づいていく。

 止めを刺すつもりなのか。それともそのまま捕食するつもりなのか。

 大海蛙の口がそれまで以上に大きく開けられ、薄灰色の舌が倒れた青年へと向けて伸ばされ────ようとして、なぜか大海蛙は開いた口を閉じ、ゆっくりと海へと振り返った。

 それと同時に。

 ラリマーの街の港、その少し沖合いから白い何かが勢いよく飛び出した。




 レグナムは、それを確かに見た。

 舌の打撃と、その後に建物に衝突した衝撃に意識を朦朧とさせながらも、それでも彼は確かに見た。

 海から勢いよく飛び出した白い何か。それが何なのか、レグナムには考えるまでもなく理解できた。

「…………あの馬鹿娘が……遅いんだよ……」

 力のない笑みが彼の顔に浮かぶ。

 そして、レグナムは彼女と最初に出会った時のことを思い出した。

 あの時も、彼女は彼の窮地に突然現れた。

 そして今もまた、彼女は彼の危機に再び現れたのだ。

 気を抜けば手放しそうになる意識を必死に繋ぎ止め、レグナムはその光景をしっかりと目に収める。

 海から飛び出した白い何かは、その勢いを一切殺すことなく大海蛙の頭部に激突。大海蛙の巨体を横倒しに転倒させてのけた。

 大海蛙の頭部に激突したそれは、激突の反動を生かして再び宙を舞うと、すとんと倒れているレグナムの傍らへと舞い降りる。

 それまで苦笑を浮かべていたレグナムは、自分の傍らに舞い降りたそれを見た途端、その表情を驚愕へと変えた。

「お、おまえ……そ、その格好は……」

 倒れたまま、呆然と白いそれ──カミィを見上げるレグナム。

 そして、腰に腕をやり、自慢気に胸を張ってレグナムを見下ろすカミィ。

 レグナムが続けて何かを言うより早く、カミィは倒れている彼へと告げた。

「届いたぞ、貴様の信仰おもいが我輩にな」

「オレの……信仰おもい……?」

 尋ね返すレグナムに、カミィは輝くような笑みを浮かべた。

「貴様の信仰おもい……どこまでも真っ直ぐな信仰おもいなのだ……実に貴様らしい。うん、貴様は気持ちがいいぐらいに真っ直ぐな奴なのだな」

 レグナムはカミィが言っていることが朧気にだが理解できた。

 彼は認めたのだ。カミィが、彼女自身が言っている通りの存在であると。

 その認識が信仰おもいとなり、彼女へと伝わった。そういうことなのだろう。

「本来、人間一人の信仰など、我々にとって大した糧とはならん。しかし、貴様の信仰おもいは、ほんの僅かではあるが確かに我輩の力となった。それは貴様のその真っ直ぐな信仰おもいだからこそ成せる技なのだ」

 見下ろしながら。輝くような笑みを浮かべながら。カミィは嬉しそうにレグナムに告げる。

 だからだ。レグナムもまた、素直に自分の気持ちを彼女へと告げた。

「ああ……不本意だが、どうやらオレはおまえがおまえの言う通りの存在だと理解しちまったらしい。だから……だから、今日からはおまえがオレの神だ。今まで信仰していたせきしんではなく、おまえこそがオレの神だ。例えこの世界で誰一人信仰しなくても、オレだけはおまえを信仰し続けてやる」

 いまだ立ち上がることさえできないレグナム。それでも、その言葉は力に溢れていた。

 サンバーディアスに暮らす人々は、ごく自然に神々を信仰する。

 なぜなら、神の恩恵や祝福、時には裁きが世界中の至るところで見受けられ、感じ取れるからだ。

 だからこそ、目の前の美しい少女が間違いなく神であると信じた時。レグナムの信仰はそれまでの赤神からこの少女へと移った。

 元よりそれほど熱心な信者だったわけではない。かの赤神を信仰することで、戦いの最中に加護を得られれば、といった程度の信仰でしかなかったのだ。

 レグナムは、この少女が自分の神であると確信した。

 カミィは、この青年が自分の信徒であると受け入れた。

 ここに今、二人の間に確かな信仰きずなが築かれたのだった。




「ところで我が神よ。一つだけ尋ねたいことがある」

「ん? なんだ?」

 こくん、と首を傾げる少女に、レグナムは相変わらず倒れたままじっとりとした視線を向けた。

「…………どうして、おまえはまた裸なんだ?」

 傷一つ、沁一つ見受けられない全身真っ白な艶めく肌。

 程よく膨らんだ胸の双丘に、その先に息づく鴇色の小さな果実。

 ふっくらとしながらも張りのある尻。

 美しい曲線を描く足の線。

 海水に濡れた長い黒髪が、それらを彩るように絡みついて。

 彼女は今、それらを惜しげもなく堂々と晒している。

 そう。かつてレグナムがこの少女と初めて出会った時と同じく、カミィは全裸すっぽんぽんだったのだ。

「海に落ちた時に脱げたのだ」

「脱げたのだ、じゃねえだろ……」

 考えてみれば、蜥蜴魚とかげうおと戦った時に、彼女の下着はあちこちが擦り切れてぼろぼろだった。そのままの状態で海に落ちたため、着水の衝撃で下着はその役目を果たせなくなり、今頃は海の中をただの布きれとしてふよふよと漂っているだろう。

 レグナムは、カムリと手合わせした時よりも、蜥蜴魚と戦った時よりも、そして大海蛙と対峙した時よりも、激しい疲労を感じて思わずその身体をぐったりと弛緩させた。

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