第16話 大海魔


 それはぽっこりと海から薄緑色の顔を出した。

 それが現れたせいで海面が荒れ、港に係留されていた何隻もの大型船が木の葉のように大きく揺れる。

 隣接して係留されていた船同士がぶつかり合い、大きな激突音とぎしぎしという木材が軋む音が港中に響く。

 中には一部が破損した船もあり、細かな木片がぱらぱらと海へと降り注いだ。

 そして、海面にぽっかりと浮かび上がった巨大な頭部は、周囲を探るようにその巨大な眼球をぐりぐりと動かした。

 動かした視界に入ったのだろう。海へと逃れようとしていた魔獣──蜥蜴魚に目を止めたそれは、口から薄灰色の舌を伸ばして蜥蜴魚を捕えた。

 途端、舌は捕えた蜥蜴魚ごと口へと引き戻される。

 噛み砕くこともせず、それは蜥蜴魚を丸呑みにすると、再び突き出した巨大な眼球をぐりぐりと動かしながらゆっくりと港へ上陸した。




──空腹だ。

 陸へと揚がった魔獣は、空腹感に苛まれていた。

 なんせ大慌てで移動し、この陸地へと揚がったのだ。移動で消費した体力を回復するためにも、大量の「餌」が必要なのだ。

──何か「餌」はないか?

 魔獣は、突き出した真紅の目をぐりぐりと動かして周囲を確かめる。

 幸い、自分の足元には手頃な「餌」が大量に右往左往していた。そのことに気づいた魔獣は、口から長い舌を伸ばして片っ端から「餌」を捕えては嚥下していく。

 しばらくその捕食行為を繰り返していると、足元にいた「餌」はあっという間にいなくなった。

──空腹だ。

 それでもまだまだ飢餓感から解放されない魔獣は、次に陸の上にたくさんいた、小さな生き物に目を付けた。




「お、おおあまがえる……伝説のだいかい……大海蛙だ……」

 その巨大な魔獣を見たどこかの船の船員は、呆然としたまま怖れおののくように呟いた。

 それはこのラリマーの街とその近辺の港町に昔から伝わる、船乗りや街の住人たちの間ではとても有名な伝説である。

 ラリマーの街の沖合いの海の底には大きな亀裂があり、その亀裂の奥底には巨大な蛙の姿をした魔獣が深い眠りについているという。

 その魔獣が眠ったまま身動きするだけで、ラリマーとその近辺には大きな地震や津波が襲いかかり、甚大な被害をもたらす、と伝説では語られている。事実、この近辺で地震や津波が生じると、「大海蛙が寝返りを打った」などと表現し、実際にそれが原因だと信じられている。

 その伝説の巨大魔獣こそが、大海蛙と呼ばれる巨大な海棲魔獣──略して「大海魔」──である。そして今、その大海魔がその巨体を完全に露にした。

 その大きさはざっと3ザーム(約9メートル)以上。体重は想像することもできない。

 「大海蛙」の名の通り、その大海魔はカエルによく似ていた。全身は薄緑色。背中よりも腹の部分の方が色が薄いのもカエルと同様だ。そんな全身薄緑色の中で、その大きな顔の両端に飛び出した両眼だけが燃えるような真紅の色彩を帯びている。

 太短い後脚をガニ股でひょこりひょこりと動かして上陸した──この魔獣は二足歩行を行う──巨大な魔獣は、その長い舌を伸ばしては周囲にいた蜥蜴魚を次々と捕えては嚥下していく。

 あっという間に陸上にいた全ての蜥蜴魚を平らげた大海蛙は、次いでその飛び出た巨大な真紅の目を、大海魔の食事風景を呆然と見詰めていた人間たちへと向けた。

「ひ────っ!!」

 大海魔と目が合った一人の兵士が、恐怖にかられて声にならない悲鳴を上げる。

 その悲鳴に反応したわけでもないだろうが、大海蛙はその兵士へと薄灰色の舌を伸ばした。

 しかし、大海蛙は新たな「餌」を得ることは敵わなかった。

 咄嗟に舌と兵士の間に割り込んだ下着姿の少女によって、伸ばした舌先を明後日の方へと蹴り飛ばされたからだ。

「去ね。そして貴様たちの主であるカムリとかいう騎士に伝えろ。この大魔獣は貴様たち人間の手におえるような存在ではない、とな」

 カミィはじっと大海蛙を凝視したまま、兵士を振り返ることなく告げる。

 兵士も彼女の言葉に何度も頷くと、周囲にいた同僚の兵士たちと共に足早にその場を去って行った。

 それと入れ替わるように、レグナムがカミィの傍らへと立つ。

「そんなにヤバい奴なのか? あのカエルは」

「ああ。正確に言えば、あやつは魔獣ではなくしんじゅうだ」

「神獣?」

 尋ね返したレグナムに、カミィは鷹揚に頷いた。

 神獣とは、神々により直接力を与えられた動物だとカミィは言う。

 魔獣が「邪神の囁き」の影響を受けて普通の野生動物が徐々に変質するのに対し、神獣は神々から与えられた力で対象となった動物は一気に変質する。

 当然、その力は魔獣よりも神獣の方が遥かに上だ。

「あの大ガエルには見覚えがある。確か、青の小僧が我輩に対抗して造り出したものだ」

 カミィの言葉を聞き、レグナムはぎょっとした顔で彼女へと振り返った。

「お、おい……おまえ……今、何て言った?」

 青の小僧。それがせいしんアマゾナイトを示しているのはすぐに理解できた。

 青神アマゾナイトは「さいたいしん」の一柱で、太陽と空と海、そして天候を司る男神である。

 相変わらず大神を小僧呼ばわりするその不遜さよりも、レグナムが気になったのはその次の言葉だった。

 今、彼女は青神が彼女に対抗するために目の前の大カエルを創造した、と言った。

 もしもその言葉が本当であったとすれば、この小柄でとんでもなく美しい少女の正体は────

 驚きに固まるレグナムをちらりと横目で見て、カミィは──神を自称する少女はくいっと口角を釣り上げた。

「レグナム……貴様はどの神を信仰している?」




 伸ばした舌先をカミィに蹴り飛ばされた大海蛙だったが、その舌を素早く引き戻すと、すぐに再びその舌を伸ばした。

 標的は先程と同じ小さな「餌」──すなわち、人間。その中でも、騎乗していたカムリの配下の騎兵の一人だ。

 その騎兵は自分が狙われていると悟り、咄嗟に左腕に装備していた盾を前面へと押し出した。

 途端、がつんと重い衝撃が盾を持った左腕に響く。騎士はその衝撃を上手く受け止められず、馬上から突きり落とされてしまった。

 幸い、馬の足を止めていたおかげで落馬しても大した負傷はなかったが、その身代わりとして大海魔の舌を受けた盾は、先の一撃で真っ二つに割れてしまった。

 しかも、彼が落馬した後、大海魔の舌は彼が騎乗していた馬を絡め取り、装備した馬具ごと馬を一呑みに飲み込んでしまった。

 愛用の盾と愛馬を一瞬で失い、地面に倒れたまま思わず呆然と大海魔を見詰める騎兵。その騎兵に上官たるカムリの檄が飛ぶ。

「ぼやっとするな! 隊列を維持したまま、港の外へと退却せよ!」

 後半はその騎兵ではなく配下の全ての兵に向けられた言葉だったが、騎兵は素早く立ち上がると指示に従って速やかに撤退に移る。

 指示を出したカムリもまた、目の前の大海魔をじっと見据えたまま、ゆっくりと後ずさっていく。

 先程配下の一人が伝えに来たカミィの言葉。例え彼女に言われなくても、この大海魔はとてもではないが人間がどうこうできる相手ではない。カムリはそのことをこの大海魔を見た瞬間に理解していた。

 もちろん、このまま大海魔を放置しては、ラリマーの街の生命線とも言うべき港湾部が大打撃を受けるだろう。

 領主として、それを許すわけにはいかない。

 しかし、勝てもしない大魔獣相手に部下の命を無駄に散らすことも、領主としては愚行である。

 カムリは、領主として港湾部そのものよりも、人命を優先する判断を下したのだ。

 港はまた再建することができる。しかし、失った人命を取り戻すことは、どんなに神々の寵愛を受けた聖人でも不可能なのだ。

 それに。

 カムリはじりじりと後退しながら、ちらりとその視界の片隅であの二人の姿を捉えた。

 あの二人ならば、この大海魔も何とかしてしまうのではないか?

 何の確信もなく、カムリはそんなことを思ってしまう。

 だが──彼にそう思わせるだけの何かが、あの二人にはあるような気がしたのだった。




「お、オレか……? オレは傭兵だから、信仰しているのはせきしんカーネリアンだが……」

 レグナムは、思わず隣に立つ美しい少女の横顔をまじまじと見詰めた。

 このサンバーディアスの人々は、誰もがごく自然に神々に信仰を捧げる。

 それは呼吸するのと同じく、ごく当然なこととして神々に祈りを捧げるのだ。

 大抵の人間は、自分の生まれや職業に関係した神を信仰するのが普通である。例えば船乗りならば青神アマゾナイトを、農夫ならば大地と誕生を司る女神であるこくしんモリオンを、といった具合に。

 中には複数の神を信仰したり、「五彩大神」全てを等しく信仰する者も少数ではあるが存在する。

 レグナムが信仰している赤神カーネリアンは、剣を好むとされる事から「剣神」とも呼ばれる戦を司る女神である。レグナムに限らず傭兵や兵士ならば、その殆どがこの神を信仰しているだろう。

 逆にカムリのような騎士は、赤神よりも青神を信仰する者が多い。青神は天候を司る神でもあり、雷は青神の裁きの鉄槌であると言われる。そのことから、彼の神は裁きの神でもあるとされ、王族や貴族、騎士などの為政者の多くがこの神を信仰する。

 しかし、カミィは彼が赤神を信仰していると聞くと、なぜかおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。

「ふん、赤の小僧か……まあ、貴様も傭兵だから当然と言えばとうぜ──」

 カミィは言葉を途中で途切らせて、大きく横へと飛ぶ。カムリが兵を率いて撤退し、港湾部に動くものがいなくなった。そのため大海蛙は、最後に残されたレグナムとカミィを「餌」と認めたのだ。

 一瞬前まで二人がいた場所を、薄灰色の舌が通り過ぎる。レグナムもまた、疲れた身体に鞭を打ちつつ、横へ転がるようにして舌を避けていた。

「ええい、鬱陶しい奴なのだっ!! 我輩は今、レグナムと話をしているのだっ!!」

 カミィは大地を蹴ると、放たれた矢のような勢いで大海蛙へと跳躍した。

 しかし、大海蛙が舌を引き戻した際に、舌が不規則にしなって蛇行した。その蛇行した舌と、跳躍したカミィの進路が不幸にも交差する。

 さすがのカミィも、予想外に横合いから襲いかかった舌を避けることはできなかった。しかも、彼女の身体は自由の利かない空中にあったのだ。

 側面から奇襲される形となり、それでも何とか両腕を交差させて防御姿勢を取るカミィ。しかし、ふんばりの利かない空中。その小柄な身体は魔獣の舌に打ち据えられて港の外の海上へと吹き飛ばされた。

「カミィぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」

 レグナムの絶叫。そして、彼のその声と重なるように、どぼんというカミィの小さな身体が海に落下する音が重なった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る