第14話 神vs魔獣


 それが次に感じたのは、途方もない空腹感だった。

 なまじ、寝起きに深海魚を一匹食べたのがいけなかったのかもしれない。

 飢餓感というものを思い出したそれは、無数の光に彩られたたくさんの触手をあちこちに伸ばし、手当たり次第に「餌」を捕えていった。

 それの進路上にいた魚や海獣はもちろん、海に住まう魔獣までをも捕え、銜え込み、ばりぼりと噛み砕いては「餌」を嚥下する。

 当然、「餌」たちも黙って食べられてなどいない。とはいえ刃向かって勝てるような相手でもないのは明白で、自然「餌」たちはそれから逃げようとする。

 それがゆっくりと通過する度に、岩の隙間や岩陰、洞窟の中にいた「餌」が慌てて逃げ惑う。

 中には、それまで棲んでいた棲み処を捨てて、群れごと逃げる「餌」もいる。

 迫る触手から逃れようと、方々に逃げ散る「餌」たち。それでもやはり逃げ遅れる個体は幾つもいて、それはそんな逃げ遅れた「餌」を捕えては平らげていく。

 一体もう、どれだけの数の「餌」を食べただろうか。

 ようやく空腹感が紛れたそれは、改めて自分が求めている存在の気配を探った。

 感じる。

 やっぱり、感じる。

 それの主人たるおんかたは、今それがいる場所からそう遠くない場所におられるようだ。

 もっとも、「遠くない」という感覚はそれの基準でそう感じただけであり、人間がその距離を耳にしたなら「随分と遠い」と感じただろう。

 ゆっくりと、ゆっくりと。それは御方の気配のする方へと泳いで行く。

 腹がくちたせいだろうか。それが泳ぐ速度は、それまでよりも若干速くなっていた。




 港は阿鼻叫喚に包まれていた。

 手足の生えた魚のような魔獣──蜥蜴魚とかげうおは、まるで何かに怯えるように慌てた様子で陸へと揚がると、目に付いた人間を手当り次第に襲い出した。

 不幸なある船員は海から現れた蜥蜴魚に飛びつかれ、そのままのしかかられて押し潰された。

 また、とある荷運び人足は魔獣の口から伸びた舌が首に巻き付き、そのまま首の骨をへし折られた。

 港の警備に当たっていたとある兵士は、突然海から飛び出して来た魔獣に、一口で頭の半分を齧り取られて一瞬で絶命した。

 その後、人々は再び現れた魔獣から逃れようとてんでばらばらに逃げ惑う。

 結果、統制は失われて逃げ遅れる者が続出し、逃げ遅れた者は片っ端から魔獣に襲われた。

 そこへようやくグラシア家の兵士団が到着し、魔獣と交戦を開始する。

 グラシア家の兵士団の数は五十強。対して、魔獣はその倍はいるだろうか。しかも、まだまだ海から這い上がってくる魔獣もいる。

「怯むな! 援軍はすぐに来る! それまで魔獣どもをここに押し止めよ!」

 部隊の隊長が部下の兵士たちを鼓舞する。

 最初の魔獣襲来から今まで時間的に半日ほど。この地の領主であるカムリ・グラシアは、抱える兵団の殆どを港とその周囲の警備に当てていた。

 その中の最も近くにいたこの部隊が真っ先に港に駆けつけたのだが、時間が経てば後続もおいおい到着するだろう。

 もしかすると、領主であるカムリも来るかもしれない。

 カムリは三十前という若さで、近衛騎士に列せられたほどの剣の使い手である。その彼が到着すれば、戦況は一気に楽になるだろう。

「抜剣せよ! 目標、手足の生えた魚の魔獣! 総員、かかれええええええええっ!!」

 部隊長の命に従い、五十余名の兵士たちが一斉に魔獣へと斬りかかる。

 グラシア家の兵士たちはよく鍛えられており、その技量は高い。また、統制もしっかりと取れており、日頃から厳しい鍛錬を積んでいるのが窺えた。

 一人の兵士の剣が魔獣の前肢を絶つ。倒れ込んだ魔獣へと後続の兵士が駆け込んで、その脳天へと剣を振り下ろして絶命させた。

 見事な連携。それと似たような光景が港のあちこちで展開されている。

 しかし、やはり魔獣の数は多い。

 最初こそ勢いに乗って優勢だった兵士団だが、すぐに無数の魔獣に囲まれて劣勢に追い込まれていく。

 魔獣に斬りかかったある兵士は、その魔獣を斬り倒しはしたものの、その隙を他の魔獣に突かれて剣ごと利き腕をもぎ取られた。

 絶叫と鮮血を撒き散らす兵士。その血に引かれるように、他の魔獣たちが群がってあっと言う間に兵士を齧り尽くしていく。

 一人、また一人と、同じような様子で倒されていく兵士たち。

 五十余名いた部隊の兵士たちは、瞬く間に半数以下にまで減ってしまった。

「お、おのれ魔獣め……ぞ、増援はまだか……っ!?」

 部隊長が悔しそうに吐き捨てる。そして、増援を期待して思わず周囲を見回した。

 視線が自分たちから逸れたことに気づいたのか、魔獣の一体がくんと身体をたわめると、弾かれるように部隊長へと飛びかかった。

「────────っ」

 部隊長がそれに気づいた時、魔獣は既に彼の目の前まで迫り、彼をそのまま丸呑みにでもするかのような巨大な口を開けた。

 開かれた口腔が部隊長の頭を飲み込もうとした瞬間、突然上から落ちてきたものが宙にいた魔獣をそのまま地面へと叩きつけた。

 ぷしゃっと何かが破裂する音が部隊長の耳に響く。

 思わず閉じていた目を開いた彼が見たものは、自分に飛びかかろうとしていた魔獣が身体を前半分と後ろ半分の二つに裂かれて大地に横たわっている姿だった。

 そして、彼に背を向けている、長い黒髪の小柄な女性──いや、少女。

 彼女はなぜか、胸元と腰廻りを覆う薄い布──ありたいていに言えば下着──だけという半裸姿だったが。

 その少女がくるりと身体ごと振り返って部隊長を見た。

「怪我はないか?」

 少女の顔を見た部隊長は──いや、彼と彼が率いる兵士団の生き残りは、全員がその少女の美しさに戦場にいることも忘れて息を飲んだ。

 突如、空から舞い降りた半裸姿の途轍もなく美しい少女。

 たった今、その白くて細っそりとした足で魔獣を両断して見せた少女は、兵士たちににこりと微笑むと高らかに告げた。

「貴様たちは下がっていろ。ここは我輩に任せるのだ。神である、この我輩にな!」

 半裸姿だというのに、いや、半裸姿だからこそか。兵士たちにはその少女が神々しくさえ見えた。

 それこそ、神が自分たちを助けるために送りたもうた神の御遣いではないか、と本気で思えたほどに。

 少女を呆然と見ていた兵士の一人が、彼女の背後で一体の魔獣が身をたわめていることに気づく。

 あれは、魔獣が獲物に飛びかかる前に見せる予備動作だ。彼はそれを魔獣との短い交戦時間で嫌というほど学んでいた。

──危ないっ!!

 兵士が少女にそう声をかけるより早く、魔獣がその身体を宙に踊らせた。

 その標的は、言うまでもなく半裸の少女。しかし、彼女は間近に迫った魔獣にしっかりと反応する。

 魔獣へと振り返ることもなく、少女はすっと半身をずらす。それだけで魔獣の突進を躱してみせた少女は、いまだ空中にある魔獣の頭部をその小さな手で上から押さえるように掴むと、そのまま力任せに地面へと叩きつけた。

 次いで辺りに響いたのは、目一杯水を詰めた水袋が破裂したような、ぷしゃりという湿った破裂音。

 小柄な少女に大地へと叩きつけられた魔獣は、そのまま頭部を潰されて周囲に血と脳漿と頭蓋骨の破片を飛び散らせる。

 当然、飛び散った血は少女の白い身体を赤く穢す。だが、少女はそれをまるで気にした様子も見せず、手近にいた他の魔獣に回し蹴りを叩き込んだ。

 彼女のその白い足が翻る度に、魔獣は三、四体纏めて吹き飛んでいく。

 少女の華奢な拳が、爪先が、肘が、膝が。魔獣の身体に打ち込まれる度に、打たれた部分は破裂するかのように爆ぜ飛んで魔獣の身体が破壊される。

 現実とはとても思えないような、信じられない光景。部隊長を始めとした兵士たちは、間抜けな表情を浮かべてそれをただじっと見詰めることしかできないでいた。




 一体、どれだけの数の魔獣を屠っただろうか。

 それでも、魔獣の数は一向に減った様子を見せない。後から後から、海から這い上がってくる。

 数体同時に襲いかかってきた魔獣を、カミィは跳躍することで回避した。

 今、彼女の周囲はすっかりと魔獣に囲まれている。魔獣もどうやらこの少女こそが最大の脅威と本能的に感じたのか、群れを成して彼女へと襲いかかったのだ。

 前後左右を魔獣に囲まれ、逃げ場は上空だけ。よってカミィもその逃走路を選択したのだが、結果的にその選択は誤りだった。

 いくら人並み外れた身体能力を持つ彼女とはいえ、空を自由に飛べるわけではない。飛び上がった後は落ちるしかないのだ。

 上空へと逃れたカミィはそこから地面を見下ろして、その美貌に若干の影を浮かべる。

 眼下には無数の魔獣がひしめいて、落ちてくる彼女を待ち構えている。

 このまま落下の勢いで数体の魔獣を屠ることは可能だが、その直後に周囲から一斉に押し寄せられれば、いかに彼女とはいえ無事には済まないだろう。

 大地を蹴った勢いが失せ、一瞬だが彼女の身体が空中で静止する。直後、カミィは魔獣が待ち構える地面へと落下し始める。

 どんどんと近づく地表。落下するしかないカミィの目には、魔獣たちが涎を垂らして大口を開けて待ち構えているのがありありと見えた。

 その場にいる兵士たちも、何とか神の御遣いにも等しい少女を救おうとするが、魔獣の数が多くて少女の元へと辿り着けそうもない。

 誰もがこの美しい少女が食い殺される瞬間を見ないように目を閉じる。

 この時。

 目を閉じた彼らの頭上を、一陣の突風が吹き抜けた。

 惨劇の直前に飛び込んだ突風は、魔獣の群れを一気に飛び越えると空中で落下してきたカミィを受け止め、そのまま群れを飛び越えて着地する。

「………………レグナム……?」

 馬上でカミィを小脇に抱えているのは、もちろん彼女が言う通りレグナムだ。

「この馬鹿娘が。一人で突っ走るんじゃねえ」

 レグナムは手綱を握ったままの手で、こつりとカミィの脳天に拳骨を落とす。

 しかし、彼の表情に厳しさはなく、あるのは優しげな笑みと苦笑が入り交じったような複雑な笑い顔。

「取り敢えず、小言は後回しだ。今はこいつらを片づけねえとな」

「うむ。貴様の言う通りなのだ」

 レグナムはカミィを片手で抱いたまま、器用に馬から降りてカミィを地面に立たせる。

 彼がカムリの部下から借り受けたこの馬は、脚こそ速いものの専門の調教を受けた軍馬ではない。

 馬とは本来臆病な動物であり、見慣れないものや激しい騒音などには神経質なまでに怯える。軍馬とは特別な調教を施して喧噪の響き渡る戦場でも怯えないように訓練された馬のことなのだ。

 レグナムが乗ってきた馬は、魔獣の群れを前にしてすっかり怯えて浮き足立っている。このまま騎乗して戦闘に突入すれば、いつ落馬するか分かったものではない。そう判断した彼は、有利な馬上からの戦闘をすっぱりと諦めた。

 腰から長剣ロングソードと鞘付きの小剣ショートソードを抜いて構えるレグナム。

 不敵な笑みを浮かべて左の掌に右の拳を打ちつけるカミィ。

 二人は示し合わせることもなく同時に駆け出すと、並走したまま魔獣の群れへと飛び込んで行った。

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