第8話 海から這い寄るモノ


 港の喧騒の中に、突然悲鳴が響き渡った。次いで、大きな水音。

 桟橋で荷降ろしをしていた人足の一人が、突然足を何者かに掴まれてそのまま海へと引きずり込まれたのだ。

 途端、人足が引きずり込まれた海面に真紅の花が咲く。

 他の人足や船員たちが、その紅い花の意味を理解するより早く、はずるりと海から這い出して来た。

 平べったい魚に、動物のような四肢を備えた魔獣。大きさは牛より一回りほど小さいだろうか。

 しかも、それは一体ではなかった。港の各所へと這い揚がった魔獣たちは、その口をぱくぱくと開閉させたかと思うと、口腔から長い舌を伸ばし、それを呆然としている人足の一人の足へと巻き付けた。

 次の瞬間、物凄い力で魔獣へと引き寄せられる人足。

 自分のすぐ前まで人足を引き寄せた魔獣は、倒れている人足の足に巻き付いたままの舌を更にひき戻し、人足の足ごと口の中に収めた。

 ごきり、と何かが砕けるような音が辺りに響く。

「ぎゃああああああああああああっ!!」

 たった今、魔獣へと引き寄せられた人足の口から魂消(たまぎ)るような悲鳴が迸る。

 魔獣の口へと収まった彼の足は、膝の辺りからあっさりと食いちぎられていた。

 周囲に満ちる潮の香りに、鉄の匂いが混じり込む。

 次いで、あちこちからも同じような悲鳴が上がり始めた。

 港へと揚がった魔獣たちが、同じように船員や人足を襲ったのだ。

 突然の魔獣の襲撃に、頭が真っ白になっていた人々が、ようやく思い出したように逃げ惑い始める。

 だが、中には当然逃げ遅れる者もいる。海から現れた魔獣たちは、そんな者たちへと容赦なく舌を伸ばしていく。

 今もまた、一人の船員の腕に魔獣の舌が巻き付いた。船員は果敢に巻き付いた舌へと、腰から引き抜いた反りのある小剣ショートソード──カトラスと呼ばれる船乗りがよく使う小剣──を叩きつけるが、魔獣の舌は弾力に富みカトラスの刃を容易く弾く。

「く、くそ……っ!!」

 悪態を吐きつつも、その船員はカトラスを叩きつけ続ける。そして何度目かにカトラスを振り上げた時、彼と魔獣との間に何かが駆け込んだ。

 その何かは駆け込んだ勢いを殺すことなく、鋭く踏み込むと回し蹴りの要領で魔獣の舌を蹴り付けた。

 ばちん、と何かが弾ける音がして、魔獣の舌が引きちぎられる。たまらず尻餅をついた船員は、自分を助けてくれた存在を見上げて思わず呆然としてしまった。

 それは小柄な少女だった。それでいて、信じられないくらいに美しい長い黒髪の少女だ。

「早く逃げるがよい。ここは我輩が引き受けたのだ」

 少女は倒れた船員へと振り向くことなく声をかけた。その声に弾かれるように立ち上がった船員は、少女にたどたどしく礼を言うと一目散に逃げて行った。

「さぁて、魔獣どもよ。我輩のために贄となってもらうのだ」

 少女は、いまだに手にしていた串焼きの肉を纏めて咥えて串から引き抜くと、そのまま数度咀嚼するとごくりと嚥下してにやりと笑みを浮かべた。




 カミィの行方は意外と簡単に知れた。

 と言うのも、誰もが彼女の姿をはっきりと覚えていたからだ。

 あれほどの美貌の持ち主である。彼女を見た誰もが、それこそ老若男女問わず彼女のことを覚えていた。

 レグナムはそんな彼女のことを様々なところで聞き込んでその行方を追う。

 どうやらカミィは、そこらの露店などで様々な食べ物を買い食いしつつ、港へと向かったらしい。

「あンの馬鹿娘が……見つけたら絶対にお仕置きしてやる」

 自身も港へと向かいつつ、レグナムはそんな独り言を呟く。

 やがて港が間近になった時、急にその港から大勢に人々が何かに追われるように逃げて来た。

 それを不審に思いつつも、レグナムは港へと向かう。

「おい! そこの傭兵風の兄ちゃん! 悪いこたぁ言わねえ! そっちへ行くのは止めておきな!」

 船員らしい一人の男が、人波に逆らって港を目指すレグナムを見かねて呼びかけてきた。

「港に魔獣がたくさん現れたんだ! 今、港に行くのは危険だ!」

「魔獣……?」

「ああ。四肢の生えたハゼみたいな魔獣だ。そいつがカエルみたいに舌を伸ばして人間を襲うんだ。だから逃げた方がいい。もう何人も船員や人足がやられた」

 わざわざ忠告してくれた船員に礼を言い、その船員が逃げ去るのを確認すると変わらず港へと向かうレグナム。

 まるで散歩でもするかのような気軽な足取りで。

 やがて、周りの大気に彼が嗅ぎなれた臭いが混じり始める。

 知らず、彼の口元がにぃと歪む。

 正直、ここ数日の間、彼は色々なものを我慢していた。

 特に目の前でやたらと裸になりたがる娘とか、すぐに服を脱ぎ出す娘とか、気づくと裸になっている娘とかその関係で。

 彼とて若い男である。間近でそのような姿を見せられて平気なはずがない。それでも連れの少女に手を出さないのは、彼の理性が鋼の如き強靭さを備えているから……ではなく、単にこのままなし崩しに少女に手を出せば、それは何かに負けるような気がして仕方ないという単なるやせ我慢だった。

 そういう色々と溜まったモノを、暴力という別の形で解放する。その期待に、知らず彼の口元が歪んだのだ。

 相手は魔獣。どれだけ理不尽な暴力を見舞っても、誰も文句は言わない。

 レグナムは凄絶なまでの笑みを浮かべると、腰に佩いた長剣(ロングソード)を引き抜き、抜き身のまま港を目指した。




 からん、と音を立てて、レグナムの長剣が地面に落ちた。

 周囲に満ちる血臭は濃く、潮の臭いを完全に打ち消している。

 辺りには魔獣に襲われたと思しき手足を食いちぎられたり、腹を食い破られた屍が散らばっている。

 だが。

 そんな屍以上に、魔獣たちは無残な姿を晒していた。

 魚の形をした身体を強引に折り曲げられたもの。身体の途中から力任せに引きちぎられたもの。大地に叩きつけられ、脳と内臓を辺りに飛び散らせたもの。頭だけを狙い澄まして叩き潰したものなど、辺りに満ちる血の臭いは、明らかに魔獣の血によるものだろう。

 まさに死屍累々と魔獣の屍が転がる港で、唯一動いている者がいた。

 その者を除いて、今、港で動いている者はいない。

 期待していた衝動の捌け口を失い、レグナムは呆然とその者を見詰めた。

 潮風にたなびく長い黒髪。

 小柄な身体は全身隈なく魔獣の返り血に塗れて。

 それでいて尚、その美しさは全く陰ることなく。

 その少女は、レグナムの存在に気づいて花が咲くような笑顔を浮かべた。

「遅かったではないか、レグナム。見ての通り、魔獣は全て我輩が片付けたのだ」

 えっへん、とばかりに胸を張るカミィ。そして彼女は、上目使いに何かを期待した眼差しでじっと間近に立ったレグナムを見上げる。

 その仕草はまるで、飼い主に誉められることを期待している子犬のようで。

 レグナムは苦笑を浮かべながら落とした剣を拾い上げて鞘に納めると、カミィの柔らかそうな黒髪の生えている頭頂部へ──ごつんと拳骨を落とした。

「うみゃっ!!」

 思わず可愛い悲鳴を上げるカミィ。

「な、何をするのだっ!?」

 カミィは長身なレグナムに向かって背伸びするように文句を言う。しかし、この時彼女はレグナムの目尻がぴくぴくと不機嫌に痙攣している事に気づいていない。

「何をする、じゃねえ! おまえはなに勝手に出歩いていやがるっ!?」

「仕方がないではないかっ!? 宿に居ても退屈なだけだし、外から何か美味しそうな匂いはしてくるし……大丈夫なのだ。美味しそうな匂いの元だった串焼きなどは、きちんと貴様からもらったお小遣いで買ったのだっ!! そして、やっぱりとても美味しかったのだっ!! その後、良い気分で散歩していたら突然魔獣が現れて人間たちを襲い出したのだぞっ!? これを放っておくのは神としてあり得ないのだっ!!」

 カミィの言うことは事実であろう。実際、彼女がこの場に居なければ、魔獣の被害者の数はもっと多くなっていたはずなのだから。

「神としてあり得ない、ねえ……それで? 本当のことを言うとどうなんだ?」

「もちろん、ここで人間たちを助ければ、助けられた者どもは当然我輩を崇拝し、信仰し、崇め奉るに違いないのだ。即ち、これは信者獲得の絶好の機会なのだっ!!」

「…………やっぱりそんなことを考えてやがったのか……」

 拳をぎゅっと握り締め、ドヤ顔で力説するカミィと、はあと大きな溜め息を吐くレグナム。

「そ、そんなこととは酷い言いようなのだっ!? 信者の獲得は我輩にとって大問題なのだぞっ!!」

 むーっと自分を睨み付けてくるカミィ。レグナムは全身が赤く染まっている彼女の身体を冷静に見下ろした。

「ところで、おまえ自身は怪我をしてないだろうな?」

「当然なのだ。神である我輩が、あのような低位の魔獣にかすり傷だろうと負うわけがないのだ」

 レグナムの予想通り、少女自身は怪我をしておらず、血塗れなのは全て魔獣の返り血のようだ。

 しかし。

「……ったく、折角買った服が台なしじゃねえか。仕方ねえ。また買うか……」

「うう……それは素直に謝るのだ……」

 途端、しょぼんと落ち込むカミィ。彼女なりに、買ってもらったばかりの服を台なしにした罪悪感はあるらしい。

「宿へ帰る途中で服を買おうぜ。いつまでもそんな血塗れの服でいたら気持ち悪いだろ?」

 ぽんぽんと幼子をあやすように、レグナムはカミィの頭頂部を叩く。すると、なぜか突然カミィの顔が輝き出した。

「そ、そうなのだ! このままでは気持ち悪いのだ! だからここで全部脱いでもいいか?」

「脱ぐんじゃねえっ!!」

 いそいそと服に手をかけるカミィと、それを怒鳴りつけるレグナム。

「どうしておまえはそう裸になりたがるんだよっ!?」

「人間たちの衣はやっぱり窮屈なのだっ!! 我輩はもっとゆったりとした衣がいいぞ。そういう衣を買おう」

「馬鹿野郎。ゆったりとした服なんか着て旅ができるか」

「ならば別に裸でもいいのだ。我輩は全然気にしないぞ?」

「ふざけんな! 若い娘が人目も憚らず裸になるんじゃねえ! 間近にいる俺の身にも────」

「ん? 貴様の身がどうかしたのか?」

「な、何でもねえよっ!!」

 ぽんぽんと文句を言い合う彼らを、魔獣が現れたことで近くの建物の中に避難した人々は、目を丸くして眺めていた。

 突然現れた多数の魔獣を、たった一人で武器も使わずに殲滅した美しい少女。

 そして、その少女をまるで子供のように扱い、時に心配そうに気を配る傭兵らしき青年。

 一体、彼らは何者なのか。

 建物の中に隠れたまま、人々はこそこそと会話を交わす。

「……なんか、裸になるとかどうとか聞こえたが……」

「こんな真っ昼間の外でか? それも魔獣の死体がごろごろしている中で? まさか……あの娘は狂人なのか?」

「本当にそうだとしたら……もったいねえなぁ。あんな美人なのによぉ」

「じゃあ、あの傭兵風の兄ちゃんは何者だ? 随分とあの娘と親しそうだったけど?」

「さあなぁ? 狂人の娘っ子を飼っている、物好きの道楽者かなんかじゃねえのか?」

 人々は、仲良く口喧嘩しながら去って行く二人の背中を見詰めながら、いつまでも二人のことを噂し続けていた。

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