海魔襲来編

第6話 『緑神』の代行者


 ラリマーの街。

 大陸南部に存在するオルティア王国の、最大規模の港を有する交易都市である。

 この街から出る船は、大陸に存在する各国はもちろん、大陸の南に点在する群島にまで及んでいる。

 このサンバーディアスと呼ばれている世界は、北側に存在する広大な一つの「大陸」と、その南側に点在する無数の「群島」によって形成されている。

 北側の大陸上には大小数多くの国々が存在し、南側の群島にもやはり多くの国が乱立していた。

 特に群島は一つの島が一つの国であることが多く、島ごとに実に様々な文化や風習が存在している。

 中には複数の島で構成される大きな国もあれば、一つの島に複数の国が存在する場合もある。かと思えば、国さえ成立していない村落単位で人々が生活する島もあった。

 そんな群島との最大の窓口が、ここラリマーの街なのである。

 それ故、このラリマーの街には様々な人や物が溢れている。

 群島から入ってくる珍しい食べ物、大陸上の他の国から流れてくる織物や工芸品、日用品に武器など、実に色々な物がこの街には存在した。

 そして、そんなラリマーの街の中を、レグナムはとある場所へ向かって一人で歩いていた。

 通りの両脇を彩る様々な出店や露店などには目もくれず、ただ一か所を見据えて歩く彼の足に迷いは一切ない。

 やがてレグナムの前に、とある荘厳な建物が姿を見せた。

 その建物の屋根は美しい緑で彩られ、多くの人々が開け放たれた扉からその建物に出入りしている。

 レグナムがその敷地に足を踏み入れた時、その建物の尖塔に吊るされた鐘が、荘厳な音色を響かせた。

 立ち止まり、その音色に耳を傾けるレグナム。

 敷地の門の両脇に立っていた、守衛と思しき男たちが立ち止まったレグナムへと親しげに声をかけてきた。

「どうかしましたか? ここは『りょくしん』アベンチュリン様の神殿。誰に対してもその門戸は開かれております。どうぞ、遠慮なさらず中へお入りください」

 守衛に軽く礼を述べたレグナムは、神殿へと出入りする人波に乗って、その荘厳な建物の中へと足を踏み入れた。




「猊下」

 執務室で各種の報告書に目を通していたその人物は、書面へと落としていた視線を声の方へと向けた。

 視線を向けられた彼──年若い下級の神官──は、自分に向けられた常人ではあり得ない緑柱石の如き瞳に思わず見惚れ、それでもすぐに用件を思い出してこの部屋に来た目的を遂げる。

「猊下にお客人がおみえです。ですが……」

「客人……ですか? はて、本日は来客の予定はなかったはずですが。もしかして、急病人でも出ましたか?」

「いえ、そうではなく……猊下を尋ねてこられたのは傭兵風の若い男性で、目的も告げずにただ猊下に合わせろ、と……」

「傭兵風の若い男……? その男は他には何か言っていませんでしたか? 例えば自分の名前とか」

 つと視線を足元へと逸らし、考え込む若い神官。だが、彼はすぐに顔を上げると、思い出したことを目の前の人物へと告げた。

「そう言えば、レグナムと名乗っていました。レグナムと言えば、猊下は必ずお分かりになるとか……」

 その名前が出た途端、それまで厳めしい表情を崩さなかったその人物の顔に、ふわりと緩やかな笑みが浮かび上がる。

「そうですか。やはり彼でしたか。分かりました。彼をすぐ、私の私室へ通してください」

「え? げ、猊下の私室へ……ですか? よろしいのですか? 応接室ではなくても……?」

「構いませんよ。ああ、彼は私の古い友人で、信頼のできる人物ですから」

 そう言われては、下級神官でしかない彼に異を唱えることなどできようはずもなく。

「は、承知致しました。イクシオン・フォレスタ最高司祭様」

 彼は深々と低頭すると、この神殿の──いや、このオルティア王国の緑神神殿の頂点に立つ人物の命に従うため、最高司祭の執務室を後にするのだった。




 通された部屋に入り、レグナムはざっと部屋の中を一瞥した。

 はっきり言って、室内は整頓されているとは言い難い。

 本棚に収まりきらない書籍が床に平積みされているし、脱ぎ散らかした服が寝台やソファの上に放置されている。

 机の上には処理途中の薬草と思しき物が無造作に置かれているし、テーブルの上には食事に使われた食器がそのまま放置されている。

 とてもではないが、この国の緑神神殿の頂点に立つ最高司祭の部屋とは思えない散らかりようだ。

 だが、彼を良く知るレグナムには、この部屋はあまりにも彼らしくあり。

 くすりと苦笑を浮かべた時、いきなり扉が開かれた。

 それに驚く様子も見せずにそちらへとレグナムが振り向けば、金糸銀糸で複雑な縫い取りを施した高位の司祭のみが身につけることを許された司祭服を着た、金髪で緑の瞳の三十代前半の男性が顔を輝かせていた。

「レグナム! やっぱりおまえか! 元気だったか?」

「そういうおまえは元気そうだな、イクシオン」

 イクシオンと呼ばれた金髪で緑の瞳の男性は、足早にレグナムに近づくと互いにしっかりと右手を握り合わせた。

 その後、レグナムと一通り再会の挨拶を交わしたイクシオンは、ソファにほったらかしにしてあった衣服をひょいとその辺へと捨てると、そこに座るようにレグナムに勧めた。

 イクシオンのずぼらな性格を熟知しているレグナムは、苦笑を浮かべることもなく勧められたソファへと腰を下ろす。

「相変わらず散らかった部屋だな」

「放っておいてくれ。こっちの方が落ち着くんだ」

「仮にも最高司祭と呼ばれる人間の部屋ではないと思うぞ? 知っているか? 俺をこの部屋に案内してくれた若い神官、凄くびくびくしていたぜ? ありゃ、おまえの評判が落ちるかもしれないと、他人であるオレにおまえの部屋を見せるのを躊躇ったんだろうな」

 レグナムの言葉に、イクシオンは肩を竦める。

「確かに今でこそ最高司祭なんて呼ばれているが、そもそも俺はそんなガラの人間じゃない。それはおまえがよく知っているだろう?」

 目の前の旧友の少し前までの立場を思い出し、レグナムはそりゃそうだと笑い声を上げた。

「それで? いきなり俺を訪ねて来たということは、何かあったのだろう?」

 何があった? と目線で問いかけてくるイクシオン。

 レグナムは緑の聖痕が現れた彼の瞳を正面から見据えながら、彼を訪ねてきたわけを口にする。

「おまえに聞きたいことがある。『緑神』の代行者である、イクシオン・フォレスタにな」




 イクシオン・フォレスタ最高司祭。

 その身長はレグナムよりやや高いものの、身体の線は細く体重はレグナムよりも随分と軽い。

 彼は現在のオルティア王国緑神神殿の頂点に立つ人物であるが、彼が神殿に関わるようになったのはほんの数年前からに過ぎない。

 それまでの彼は、とある地方の町に住む一介の薬師だった。

 それは数年前、イクシオンが当時住んでいた町でとある病気が流行した時のこと。

 病気の元は、小さな魔獣が町の中へと運び込んだらしい。だが、それと気づいた時には、既に病魔は町中に蔓延していた。

 多くの住民がその病で命を落とし、更に多くの住民が命を落とす瀬戸際に立たされた。

 そんな中で、一人の薬師が病と戦うべく奮闘する。

 彼は過去の文献から病の原因を突き止め、たまたま町に逗留していた傭兵に病の原因たる魔獣の退治を依頼。

 同時に、彼自身も病に効果のある薬の作成に取りかかった。

 幸い、文献には特効薬の調合法も記されていが、問題がまるでなかったわけでもない。

 特効薬の原料には、極めて入手困難なものが幾つかあったのだ。中でも特に困難と思われたのは、ある魔獣の体内でしか生成されない結晶だった。

 それ以外の原料は、まだ動ける住民たちの協力で手に入れることができそうだった。しかし、その結晶だけはどうにもなりそうもない。

 なぜなら、その魔獣はとても恐ろしい魔獣であり、町の住民が束になったところで返り討ちに合うのは明らかだからだ。

 悩み抜いた彼は、病の源の魔獣をあっさりと退治した傭兵にそのことを相談した。するとその傭兵は結晶の入手を二つ返事で引き受け、早速それを手に入れるため──魔獣を狩るために町を出た。

 住民の中には、傭兵は単に病気を怖れて逃げ出したのだと言う者もいたが、薬師はその傭兵を信じた。

 傭兵は必ず原料を手に入れて戻ってくる。だから、自分はそれまでにできることをしておこう。

 楠氏は結晶以外の原料を何とか集め、文献に従って慎重に調合し、薬を作る準備をしていった。

 やがて、最後の結晶さえあれば薬は完成するというところまでこぎ着けた時。

 傭兵は町に帰って来た。

 全身怪我のない所などない程の傷を負い、ぼろぼろになりながらも、彼は結晶を手に入れてきたのだ。

 傭兵の怪我を治療しようとした薬師に、傭兵は崩れるように倒れながらも薬師に告げた。

「オレの治療なんて後回しでいい。それよりも、今は薬を完成させる方が先決だろう。順番を間違えるな。ここで順番を間違えれば、結晶を手に入れたオレの努力も無駄になるんだぞ?」

 後半は茶化すように告げた傭兵に、薬師は何度も礼を言うと特効薬作りに取りかかった。

 結果、特効薬は間に合い、数多くの住民の命が救われることになる。

 確かに命を落としてしまった者もいたが、それでも救われた者が数多くいたことで、住民たちは総出で傭兵と薬師に何度も何度も礼を述べた。

 だが。

 この時、病人と常に接していた薬師は、例の病を既に発症していたのだ。

 特効薬はもうない。彼が作った薬は、全て住民たちに与えてしまった。

 傭兵と住民たちは、もう一度薬を作ろうと決意する。

 薬の作り方そのものは、住民の中で薬師の助手をしていた者が何とか覚えていた。しかし、今回もまた原料がないことが問題となってしまう。

 傭兵は傷だらけの身体で再び魔獣を狩りに行こうとしたが、それを薬師本人が止めた。

 傷だらけの彼が再び魔獣に挑んだところで、その結果は考えるまでもなく明らかだろう。

 だからこそ、薬師は傭兵を止めた。彼は傭兵に命を落として欲しくなかったから。

「おまえは本来、この町とは無関係の人間だ。そのおまえに、これ以上の無理はさせられない」

 無関係のこの町のため、我が身を張ってまで尽力してくれた若い傭兵。

 薬師はそんな彼のことが気に入っていた。だからこそ、彼にはこれ以上無理はして欲しくなかったのだ。

 やがて、病魔は薬師の身体をどんどんと蝕んでいく。

 そして、いよいよ病魔によって彼の命が食い尽くされんとする時。町のために尽力した薬師の間近に迫った死に、住民たちは皆涙する。

 傭兵や住民たちに看取られながら、薬師が最後にゆっくりと目を閉じた。

 彼の瞳が開かれることはもう二度とないだろう。誰もが彼の安らかな眠りを神に祈った時、薬師の目は再び開かれたのだ。

 それまで濃灰色だった彼の瞳は、緑柱石のように鮮やかな緑に染まって。

 そう。

 薬師は『緑神』の祝福と「神の息吹」を授かり、代行者となって一命を取り止めたのだ。

 腰を抜かさんばかりに驚いて彼を見詰める傭兵や住民たちに、薬師は──いや、代行者となった彼はまるで神託を授けられた神官のように厳かに告げた。

「『緑神』の声を聞き、『神の息吹』を授かった」

 と。

 病の方はどうしたのかと問う傭兵に、代行者はにっこりと笑いながら言った。

「『神の息吹』が宿った瞬間、俺の身体から病は消えたよ。俺が授かった『神の息吹』は、どんな病も癒す力だから」

 その後、代行者となった彼は、その評判を聞きつけたラリマーの街の緑神神殿に受け入れられた。

どんな病をも癒す「神の息吹」を宿した彼が、最高司祭と呼ばれるようになるまでそれほどの時間は必要なかった。

 それが『緑神』の代行者であり、オルティア王国の緑神神殿の最高司祭であるイクシオン・フォレスタの経歴である。


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