第5話 剣鬼



朝。

 窓の隙間から差し込む朝日が、客室の中を薄明るく照らし出す。

 その明るさで目を覚ましたレグナムは、寝台から身体を起こすこともせずに深々と溜め息を吐いた。

──夕べは散々だったなぁ。

 彼の脳裏に、夕べの悪夢が再投影される。




 アリオンが用意した料理をぺろりと平らげた──実に五人前を軽々と──カミィは、あっと言う間にその健啖ぶりを見ていた他の客たちの人気者になった。

 なんせ、あの人間離れした美貌である。しかもどこか子供っぽい面もあり、誰にでも気軽に話しかけ、また、話しかけられれば笑顔でそれに応じる。そんな彼女が人気者にならないはずがない。

「よう、嬢ちゃん。名前はなんていうんだ?」

「名前? 名前はない。だが、我輩は神である。神である我輩を崇めろ! 奉れ!」

 いい感じに酒が入っていた客たちは、彼女の言葉を酒の席の冗談だと受け取ったようで、巫山戯半分に彼女の言葉に合わせて跪いたり祈りを捧げたりする。

「はは、美しき女神様。これはお供え物にございます。どうかお納めを」

 そんな中、一人の男が果物が盛られた皿を恭しく掲げながらカミィへと差し出す。

 それに目を輝かせたカミィが早速果物へと手を伸ばすが、彼女の白い繊手が果物に触れる直前、男はさっとその皿を引っ込めた。

「な、何の真似なのだ? それは我輩への献上品ではなかったのか?」

「いかにも、これは女神様への捧げ物です。ですが、タダでというわけにはいきませんねぇ」

 酒精に顔を赤くしたその男は、だらしなく鼻の下を伸ばして好色な視線でカミィを舐めるように見る。

「先程のように、我々に女神様のまぶしい裸身をもう一度見せてはもらえませんかねぇ? なんせ、さっきはちらっとしか見えなくて、残念で残念でたまらないんですよ。もしも女神様がここでもう一度裸になってくれれば、その時はこの果物を女神様に捧げますとも」

「なんだ、裸になればいいのか? あい分かった。簡単なことなのだ」

 男の好色さ丸出しの言葉に二つ返事で応じたカミィは、その場でさっそく服に手をかける。

 周りから上がる下卑た歓声。だが、さすがにそこでレグナムが動いた。

 それまでカミィを自由にさせていたのは、人との触れ合いはとても大切なことだとレグナムが考えているからだ。

 人間は一人では生きていけない。いや、生きていけるかもしれないが、それはとても枯れた生き方だろう。

 彼はそのことを剣の師匠から教わった。だから、カミィが他の客と楽しそうにしているのを、見守ってはいても邪魔するつもりはなかった。

 しかし。

 ここまでくると、さすがに黙っていられない。

「おい、そこまでにしておけ」

 レグナムは服を脱ぎかけているカミィの手を掴むと、そのまま自分の方へと引き寄せる。

 途端、それまで鼻の下を伸ばしていた男が、怒りも露な顔をレグナムへと向けた。

「おい、兄ちゃん。邪魔すんじゃねえよ。そっちの嬢ちゃん本人が裸になってもいいって言っているんだ。それとも何か? この嬢ちゃんは兄ちゃんの情婦おんなか? だったら、兄ちゃんにもそれなりの金を払おうじゃねえか。なあに、何も寝台の中まで一緒しろなんて言わねえよ。単に裸を見せてもらうだけさ。それなら文句はねえだろ?」

 男の言葉に賛同する声が周囲から幾つも上がる。

 彼らは先程カミィが裸で上階から降りてきた時、レグナムが素早く抱き抱えて上階へと戻るのを見ていた。

──あんな美人を独り占めしやがって。

 そんな思いが、他の客たちの胸中にはある。

 嫉妬混じりの怒りが、周囲から幾つも立ち昇る。

 だが、そんな怒気──男として分からなくもないが──を幾つも浴びせかけられても、レグナムは平然としたまま周囲の客たちを見回した。

 茶色い瞳が、ゆっくりと客たちに向けられる。そして、その視線を向けられた者たちは、途端に怒りがすぅと引いていくのを自覚した。引いた怒りの代わりに背筋を這い登ってくるのは、殺気という名前の魔物だった。

 まるで死神に魅入られたかのように。

 酒場は一人の男が発する極寒の殺気に支配された。

「そこまでにしておきなさぁいん」

 野太いが間延びした声が響く。

 すると、それまで酒場を支配していた殺気が嘘のように消え去った。

「レグナムちゃぁん? ワタシのお店でそんなに殺気を振り撒かないでくれるぅ? 客足が減ったらどうするのぉん? あ、レグナムちゃんがワタシをお嫁さんにしてくれるって言うなら、明日にでもお店は畳んだっていいわよん?」

 背後から聞こえてきた冗談まじりのアリオンの言葉に、レグナムは苦笑しながら降参とばかりに肩を竦めて見せた。

 彼のその態度に口角を釣り上げたアリオンは、次に客たちへと忠告する。

「それにあなたたちも、喧嘩を売るなら相手を見て売りなさいな。そっちのレグナムちゃん……彼、あの《けん》よ?」

 アリオンのその言葉を聞いた途端、客たちはレグナムから数歩後ずさった。

 店主のアリオンが元傭兵ということもあり、この宿屋の客は傭兵が多い。

 傭兵ならば一度は耳にするだろうと言われるその異名。その異名の持ち主が、目の前の男だと聞かされた客の傭兵たちは、まるで怪物でも見るかのようにその青年を見詰めた。




 《剣鬼》。

 または《人斬り鬼》とも呼ばれる凄腕の傭兵。

 年齢は二十代前半ととても若いが、その剣の腕は並ぶ者がないとまで称される剣の達人。

 幼い頃より《剣聖》ヴァンガード・トゥアレグに師事したと噂され、敵対する者は誰が相手でも絶対に斬り捨てる人斬りの鬼。

 とある依頼で受けた隊商の護衛の際、五十体近い魔獣に襲われたものの、逃げる隊商の殿をたった一人で守り、襲いかかってきた五十もの魔獣全てを斬り裂いたとか、国境に接する地方領主同士の小規模な紛争の際に雇われた時には、相手側の陣営へ一人きりでふらりと赴き、そこに居合わせた敵兵百人近くを屠ったとか、嘘か本当か定かでない逸話などは数知れず。

 たった一人で数十人の傭兵を雇うに等しいとも、彼を雇えば勝利は間違いないとも言われる、半ば伝説と化した傭兵。

 それがどこかお人好しで面倒見のいいレグナム・スピアーノという青年の、傭兵としてももう一つの顔だった。

 そんな《剣鬼》とその連れの少女に手を出すような馬鹿はさすがにおらず、その後レグナムはカミィを連れて借りた客室へと引き上げた。

 レグナムの後に続いて部屋へと入るカミィ。今、彼女のその顔は笑みで満ち溢れている。

 なぜなら、彼女はあの時の果物の盛られた皿を両手で抱えていたからだ。とはいえ、これは強引に奪ってきたものでもなければ、どさくさに紛れて盗んできたものでもない。

 《剣鬼》の異名に恐れをなしたあの男が、お詫びの印にと彼らに差し出したのだ。

 カミィは部屋へ入ると早速果物の一つを手に取り、実に幸せそうにそれにぱくついた。

 だが、レグナムはそんなカミィの脳天にごつんと拳を振り落とす。

「うみゃっ!!」

 どこか小動物を思わせる悲鳴を上げるカミィ。

 突然頭を叩かれた彼女がむーっと不満そうに見上げれば、そこにはじとっとした目のレグナムの顔があった。

「どうして、おまえはそう簡単に人前で裸になるんだ? おまえには羞恥心ってものがないのか? 恥ずかしくないのか?」

 至極真面なレグナムのお説教。だが、カミィはきょとんとした顔で首を傾げる。

「恥ずかしい? なぜなのだ? 恥ずかしいはずがないだろう?」

「………………………………はぁ?」

 まただ。どうもこの少女を相手にしていると、常識とかその辺りが時々上手く噛み合わない。

 今回もまた、レグナムはそんなことを感じながらぼうっとカミィを見下ろした。

「では尋ねるが、貴様は犬や猫、もしくは虫に裸を見られて恥ずかしいと感じるか?」

「はあ……? い、いや、そりゃあ、犬や猫、虫に裸を見られても恥ずかしいなんて思わねえよ。ってか、そもそも連中は人間の裸なんて興味ないだろ?」

 レグナムの答えに、カミィは鷹揚に頷いた。

「それと同じなのだ。我輩は神である。その神たる我輩が、人間に裸を見られたぐらいでどうして恥ずかしがる必要があるのだ?」

「……………………おまえにとって、人間オレたちは虫と同列かい」

 レグナムは途轍もない頭痛を感じた。そしてその頭痛を押さえ込むのに、多大な努力を必要とした。




 寝台の上で目覚めたまま、起き上がることもなく夕べのことを思い出したレグナム。

 夕べの彼は頭痛を何とか押さえ込み、隣にもう一つ取った部屋へとカミィをそそくさと追い出すと、そのまま寝台に潜り込んで早々に寝てしまった。

 どうやらカミィと出会って、自分でも気づかないうちに精神的にまいっていたらしい。

「ホント……何者なんだ、あいつは……」

 輝くまでの美貌。

 人間の標準を遥かに超えた身体能力。

 怪我をあっという間に癒してしまう「神の息吹」。

 そして、普通とは随分とかけ離れた独特の感覚。

 ここまで色々と揃ってしまえば、彼女が言うように本当に神であるとさえ思えてしまう。

「はは、何を馬鹿なことを考えているんだ、オレは……あいつはオレと同じ人間だろ? ただ、かなり強い加護を得た聖別者ってだけさ」

 自分にそう言い聞かせるように呟いたレグナムは。ごろりとそのまま寝返りを打つ。

 すると、横を向いた彼の顔のすぐ近くに、たった一日ですっかりと見慣れてしまった美貌がひとつ。

 その美貌は瞳を閉じ、すやすやと気持ちよさそうに寝入っている。

「────────────────────────────────っッっっッっッッ!!」

 思わず叫びそうになった己の口を両手で押さえつけ、ずざざっと後ずさるレグナム。

 だが、彼は忘れていた。今、自分がいるのが寝台の上だということを。

 寝台の端まで後ずさったレグナムは、勢い余ってそのまま寝台からずり落ちた。

 落ちた拍子に頭を床に打ちつけ、ごちんと結構重そうな音がする。

 しかし、今のレグナムには痛みを感じる余裕もない。

 彼は床に尻餅をついたままの姿勢で、なおも寝台から離れようと後ずさる。

 無論、レグナムに女性と肌を交えた経験がないわけではない。

 今回のような宿場町や大き目の街に入れば、ちょくちょく娼館へと出向くこともある。それどころか、訪ねる頻度の高い町などには、贔屓にしている娼婦だっているぐらいだ。

 過去には恋人と呼べるような存在もいたし、その女性と肌を合わせたことだってある。

 そんなレグナムでも、カミィほどの美少女が警戒心もなく無防備に寝入っている姿は色々な意味で危険だった。

 しかも。

 レグナムが落ちた拍子に身体にかけられていた毛布が捲れてしまい、寝入っているカミィの身体が露になっている。

「………………………………………………また裸だよ、こいつは……」

 いつの間にか寝台に潜り込んでいた娘さんは、疲れたように片手で顔を覆ったレグナムの言葉通り全裸すっぽんぽんだった。

 どうやって部屋に忍び込んだのかとか、どうして寝台に潜り込んだのかとか、なぜまた裸なのかとか聞きたいことは山ほどあったが、何かもうどうでもいいやと思えてしまうレグナムだった。




 その後、起き出したカミィに朝から一通りの説教をくらわせ──起きた時に自分に向けられた、輝くような笑顔に心が萎えそうになったのは秘密──、朝の食事を済ませた──カミィはまたもや五人前を平らげた──レグナムとカミィは、夕べ約束したようにカミィの服を買いに町の古着屋へと向かい、そこで下着も含めた彼女の服一式を数着分買い込んだ。

 その際、カミィのような美少女がレグナムの男物の服をだぶだぶのまま着ていることに古着屋の店主が訝しそうな顔をしたり、更にはそのレグナムの服の下に下着を着ていないと気づいた店主がレグナムに向かって、「ええ、分かっておりますとも。他人様の趣味に関してとやかく口出ししたりはいたしません」とばかりに、にやりとイイ笑顔を浮かべながら右手の親指をにょきっとおっ立てたりしたが。

 レグナムもまた、昨日カミィによって酸っぱい臭いを付加された外套の代わりに新しい外套を買うなど、二人合わせると決して安くはない出費を強いられた。

 だが、レグナムほどの腕の傭兵ともなると、一度の依頼で支払われる報酬はかなり高額となる。

 よって、彼の懐にはまだまだ余裕があった。

 更には旅に備えて食料や照明などの消耗品も買い込み、二人がアリオンの宿屋に戻ってきた時には、すっかりと空が茜色に染まっている時間帯となってしまった。

「明日は朝一番でこの町を発つからな。そのつもりでいろよ?」

「心得たのだ。となれば、明日からに備えて今晩は遠慮なく腹一杯の食事を食べるとしよう」

「…………あ、あれだけ食べて、まだ腹一杯じゃなかったのかよ……」

 にこにこと上機嫌なカミィと、ぽかんとした表情のレグナム。

 はっと我に返ったレグナムは、脳内で素早く再計算をする。

「…………まずいかもしれねえ……」

 ぽつりと零した小さな呟きは、隣を歩くカミィにも聞こえなかったようだ。いや、彼女の注意が様々な露店などに向けられていて、聞いていなかっただけだろう。

 取り敢えず、アリオンに仕事の口利きを頼もう。できれば、ラリマーへと向かう隊商の護衛の依頼があるといいが。

 先程は余裕を感じられた自分の懐事情。それが今では随分と頼りなく感じられてしまう。


 結局、条件の合う護衛の依頼を見つけて二人がこの宿場町を旅立ったのは、それから三日後のことだった。


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