第3話 神の息吹



 神を自称する少女は、ぷくっと可愛らしく頬を膨らませると、上目使いでじとーっとレグナムを見上げた。

「貴様……我輩の言葉を疑っておるだろう?」

「当たり前だ。どこの世界に自分が神だとか言う奴の言葉を、はいそうですかと信じる奴がいるよ? そんな奴がいるとしたら、そいつは相当おめでたい奴だぜ」

 ふふんと鼻で笑うレグナムを、少女はむぅと唸りながら見詰める。

「そんなに自分が神だと言い張るのなら、証拠を見せてみろよ」

 小柄な少女を見下ろしながら、勝ち誇ったようにレグナムは言う。

 自身が神であることを証立てる確固とした証拠など、そうそうあるはずがない。そう考えての彼なりの勝利宣言だったのだが、この少女は今回もまた彼の期待を裏切った。

「良かろう。では、その腕の傷を我輩に見せるのだ」

 言うなり、少女は先程の戦闘で負傷したレグナムの左腕をぐいと引っ張る。

「──────っ!!」

 突然走った激痛に、レグナムは悲鳴を噛み殺す。

 太股の矢傷はそれほど深いものではなかったが、左腕の傷は相当深い。現に、今も彼の左腕は痺れたように痛み以外の感覚が殆どないほどだ。

 少なくとも、痛みを感じられるのが不幸中の幸いだった。もしも腕の神経をやられていたら、その痛みさえ感じなかっただろう。

 レグナムも傭兵である。傷の手当ての心得は当然あるが、左腕のこの傷はその場でできる応急手当では間に合わないほど、深く傷つけられていた。

 少女は傷口にレグナムが自分で巻いた血が滲む包帯を手荒に解くと、現れた傷口をじっと見詰めた。

 いまだにじくじくと出血し、引き裂かれた皮膚の奥に抉れた筋肉組織が見える。だが、素人が見たら卒倒しかねないそんな傷口を見ても、少女は眉一つ動かさない。

 それどころか次に彼女が取った行動に、レグナムの方が逆に焦る始末。

 なぜなら、少女はレグナムの傷口にそっとその可憐な舌を這わせたのだから。

「お、おい、おまえっ!! い、一体何の真似だっ!?」

 顔を赤くし、狼狽えるレグナム。そんなレグナムを、少女は腕の傷口に這わせた舌を一旦止めてふふんと挑発的に見上げた。

「何の真似はないだろう? 貴様が言ったのだ。我輩が神である証拠を見せろとな」

 言い終わると再び舌が傷口を這う。

 やがて感じ始めた柔らかで暖かい彼女の舌の感触と、時折妖しく響くぴちゃりという水音に、レグナムの顔の赤が更に濃くなる。

 年上の男の傷口に必死に舌を這わせる、人外の美貌を備えた小柄な少女。その姿は見る者によっては、背徳的で雄の本能を刺激して止まない光景であろう。

 かく言うレグナムもまた、そんな本能を刺激された一人だった。彼は身体の奥底から沸き上がってくる劣情を必死に押さえ込みながら、それでも少女の行為に目を逸らすこともできなくてじっと彼女のその美しい顔を見つめ続けた。

 ふと、その時レグナムはある事に気づいた。

──柔らかくて暖かい……? 左腕に感覚が戻っているのか……?

 それを自覚してからはまさに劇的だった。

 まず、あれ程感じた激痛が消えた。痛みは徐々に引いていき、すぐに何も感じなくなる。

 次に現れた変化は視覚的なものであった。彼女がゆっくりと舌を這わせる傷口が少しずつ小さくなっていったのだ。

 傷口が完全に消え去るのに、それほどの時間は必要はなく、消えた傷口を呆然と見詰めるレグナムに、少女は勝ち誇ったように告げた。

「どうだ? これで我輩が神だと信じたか?」

「お、おまえ……まさか……」

 掠れるような声で呟くレグナムの胸を、少女はとんと軽く押した。

 呆然としていた彼は、それだけで思わずその場に尻餅を突く。そして、立ち上がる事も忘れて、そのままの姿勢でじっと少女を見上げ続ける。

「どれ、ついでだ。足の傷も癒してやろう。我輩に感謝し、今後はこの我輩を崇め奉るがよいのだ」

 少女は今度は彼の足を持ち上げて、彼が身につけていた革製の脚半(ズボン)を強引に脱がせると、太股の矢傷にも同じように舌を這わせ始めた。

 その光景は先程よりも更に冒涜的で魅惑的で。そして自分の下半身が下帯だけの無防備な姿と相まって。

 レグナムはその光景に頬を赤らめながらも、身体の内側で猛り狂う衝動という名の強敵と必死に戦い続けた。




「おまえは……せいべつしゃ……なのか?」

 己との戦いに勝利したレグナム──勝利の代償として、何か色々とごっそり持っていかれた気がする──は、疲れたような声でそう呟いた。

 神を自称する少女。

 彼女には確かに人間を超えた力が宿っている。それは間違いない事実だろう。

 そして、レグナムにはそんな力を備えた者たちを知っていた。それが聖別者、もしくは代行者と呼ばれる者たちだ。

 この世界──神々を祀る神殿では、この世界を「サンバーディアス」という呼称で呼んでいる。

 サンバーディアスには、魔法というものは存在しない。魔法などは御伽噺に登場するだけの空想でしかないのだ。

 しかしごく一部には、まるで魔法のような力を持つ者が存在するのも事実である。

 それが聖別者、または代行者と呼ばれる者たちである。

 彼らは神々より祝福を受け、神の力の一部である「神の息吹」を授けられた者たちであり、生まれながらにして「神の息吹」を宿した者を聖別者、何らかの試練を果たしたなどの理由で、後天的に「神の息吹」を授かった者を代行者と呼ぶ。時には、これら二者を一括してせいじんと呼ぶこともある。

 レグナムが少女を聖別者だと判断したのは、十五、六歳ほどにしか見えない彼女が、極めて厳しい試練を課せられるという代行者になるには無理があるだろうと考えたからだ。

 「神の息吹」とは「邪神の囁き」と対をなすものであるが、その本質は同じである。どちらも神の祝福であることには代わりないのだから。

 「神の息吹」の内容は実に様々だ。

 祝福を与えた神の司るものに関係する力であることが多いが、必ずしもそうであるとは限らない。

「傷を癒す「神の息吹」……おまえはりょくしんアベンチュリンの聖別者なのか……? い、いや、違うな」

 相変わらず地面に座り込んだまま、レグナムは同じように座っている少女を見ながら続ける。

「おまえが緑神の聖別者ならば、おまえの瞳には緑の聖痕が現れるはずだ。しかし……おまえの瞳は……聖痕は金だ。ならば、緑神の聖別者ではないことになる……だが……」

 サンバーディアスに暮らす人間には、肌の色や髪の色には様々な違いがあるものの、瞳の色だけはレグナムのような茶色系かもしくは灰色系である。

 だが極稀に、それ以外の色彩を帯びて生まれる者がいる。その瞳に宿った色こそが神々から受けた祝福の証であり、聖別者の証であるとされる。そして、神々の色彩を帯びた瞳を聖痕と呼ぶ。

 世界を支えると伝えられる、最も力の強い五柱の神々。

 その神々は、それぞれを象徴する色彩を帯びている。「赤」「緑」「青」「黒」「黄」の五色がそれである。

 そしてこの五柱の神々を、総称して「さいたいしん」と呼ぶ。

 この五彩大神の下にはそれぞれ幾柱もの従属神が存在するとされ、それらの神々がこのサンバーディアスという世界を支えていると、各神殿では教えていた。

 「緑神」アベンチュリンとは、その五彩大神の一柱であり癒しと豊穣を司る男神である。

 レグナムは少女の金の瞳をじっと見詰める。

 どこか蠱惑的であり、神秘的でもある妖しい金の瞳。それは彼の知らない小神の聖痕なのだろう。

 だが。

 神を自称する金の瞳の少女は、レグナムが彼女を聖別者であると言ったことが気に入らないらしい。

「我輩は聖別者などではないのだ! 何度も言っておるであろうが! 我輩は神である! 名前はまだないがな!」

「名前がない……? そういや、さっきもそんなことを言っていたな。どうして名前がないんだ?」

 この問いに、少女は少しばかり頬を赤らめると、ばつが悪そうにつっと視線を逸らした。

「…………ったのだ」

「何? 聞こえないぞ?」

「…………我輩は神としての力の殆どを失ってしまったのだっ!! そして力を失った際に、神としての名前もまた失ったのだ……神々の名前とは力そのものだからな……」

 少女のその言葉は、最後の方になると小さく力ないものになっていた。どうやら、名前を失ったということは、彼女にとってかなり屈辱的なことらしい。

「力を失った……? だけど、おまえは俺の傷を癒してくれただろ? それに、さっき山賊をぶちのめした時の力だって……」

「あ、あのようなもの、神の力の内にも入らんのだ。力の殆どを失ったとはいえ我輩は神だ。神と人間では存在する階位が違う。それに、傷を癒したのだって……本来ならあのように舐めたりせずに癒せるのだ。だが、今の我輩ではああして直接傷口に自分の体液を送り込まねば、癒しを施すこともできんのだ……」

 少女はどこまでも自分は神だと言い張るつもりのようだ。

 ならば、とレグナムは考える。

 曲がりなりにも、彼女は自分を助けてくれた。ならば、ここは彼女に合わせてやろう。見たところ、彼女はまだ十五歳ほどで、一般的に十七歳が成人とされるサンバーディアスでもまだまだ子供の部類である。二十歳を超えている自分が折れてやるのが大人の対応というものだろう。

「まあ、譲っておまえが神であると認めるとして、だ。やっぱり、名前がないのは色々と不便だろう? ならば、暫定的に名前をつけるってのはどうだ?」

 だが、レグナム的には名案だったこの提案は、神を名乗る少女はお気に召さなかったらしい。

「暫定的な名前だと? 神の名前とはそのような軽々しいものではないのだっ!!」

「はん、そうかいそうかい。ま、今後おまえのことは『カミィ』とでも呼んでやろう」

「な、なんだその愛称のような軽い呼び方はっ!? 我輩は神だぞっ!? もっと我輩を崇めろっ!! 奉れっ!!」

 街道の真ん中に座り込んだまま、ぎゃーぎゃーと騒ぐ少女を余所に。

 こうして、自称神の少女はレグナムから『カミィ』と呼ばれることになった。




 その後、ようやく腰を上げた二人は、再び街道を歩き出した。

「それで? カミィはこれからどうするんだ? オレはこの街道を進み、次の大きな街で何か仕事を捜すつもりだが」

「だから我輩をカミィと呼ぶな! 不敬にもほどがあるぞ! ふむ、そういえば、貴様は傭兵だとか言っておったな」

 カミィの態度はころころと変化し、見ていて飽きない。

 レグナムにとって、カミィは確かに恩人ではあるものの、偶然出会った他人でしかない。

 今後、彼女がどうしようが彼には関係ないのだが、このまま彼女を放り出すのもそれはそれで問題のような気がするのだ。

 なんせ、並外れた美貌を持ちながらも、平気で人前で裸になる彼女である。それに神を自称するのはアレであるものの、性格そのものは素直そうだ。

 このまま彼女を放り出そうものなら、高い確率で誰かに騙されて娼館などに売り飛ばされるのがオチだろう。

 もっとも、彼女の力なら大抵のことは力尽くで切り抜けることもできるだろうが。

「おまえの身の振り方が決まるまで、しばらく一緒にいてやってもいいぜ? もちろん、おまえさえ良ければだがな」

 レグナムがこう提案したのは、純粋な良心からだ。決して、邪な考えを抱いての理由ではない。

 彼の脳裏に先程見た眩しいカミィの裸身がちらついたなど、誰にも知られてはならない秘密である。

「少々尋ねるが、貴様が向かうという街は人間がたくさん住んでおるのか?」

「ああ。俺が向かうラリマーの街は、海に面した交易で栄える街だからな。多くの住人がいるぜ」

 彼はそのラリマーで、隊商の護衛の仕事でも引き受けるつもりでいた。

 傭兵とはいえ、ここ最近は戦争などの戦場仕事は極めて少なく、多くの傭兵が隊商や貴族の護衛、もしくは魔物退治といったものを主な仕事にしている。

「そうか。人が大勢いるのだな。ならば、我輩もそこへ行くとするのだ。よし、そこまでの同行を許可する。神である我輩の供となれる光栄を伏して喜ぶがいいのだ」

「こ、この野郎……やっぱりこのまま放り出してやろうか……」

 えっへんとばかりに胸を張るカミィを、レグナムは沸き上がる苛立ちを必死に笑顔の内側に押さえ込む。

「ま、まあ、いい。ところで、どうして多くの人間がいるかどうかが気になるんだ?」

「当然なのだ。人が多ければ多いほど、我輩の信者が増やし易いではないか」

「…………信者?」

「如何にも。信者が居なければ……より正確に言うならば信仰がなければ、神としての力を蓄えることはできぬのだ! 我輩が再び神々の座に返り咲くためには、数多くの信者が必要なのだ!!」

 拳をぎゅっと握り締め、カミィは雄々しくそう宣言した。


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