第三傷
何故だか酷く悲しい。俺の意志とは関係なく、涙が止まらない。
目の前には小さな少女。泣いている俺を見て戸惑っているようだ。
視線は目の前の少女と同じくらいである。ということは俺も目の前の少女と同じくらいの身長ということになる。
これは幼い頃の俺か? どうやら俺は目の前の少女に泣かされているらしい。
「よそ見ばっかりする!」
「ご、ごめんね」
泣きながら少女を責め立てる。それに対して少女は俺の頭を撫でながら謝っていた。
状況が見えない。こんな記憶は知らない。
「あーちゃんは、いっつも、ちゃんと、僕を、見てくれない!」
「ごめんね、ごめんね」
う、うーん。恥ずかしい記憶だな。俺はやきもちを妬いて泣いているようだ。
俺に幼稚園の頃の記憶はない。アルバムも両親が無くしてしまったようで、写真も一枚もないのだ。だから俺の一番古い記憶となるのは小学生の入学式である。
両親から聞いた話だと幼稚園の卒業前に引っ越したらしい。父さんの仕事の関係だと言っていた。
俺は小学生の頃には他人と何となく距離を取っていた。だから、自分に興味を向けていてくれないことで泣くなんて信じられなかった。
「これからはひーくんだけ見るから!」
「ほんとう?」
「うん」
そう言って少女は俺の手を握る。強く握られている感触はあるのに左手に痛みは無かった。小学生の頃には左手に傷があったはずだが、幼稚園時代には傷は無かったようだ。
「やくそくとして……」
※
目を開けると、もう帰りのホームルームが始まっていた。開いている教科書は数学だったので、五六時間の授業は寝て過ごしてしまったようだ。
俺の記憶にも無い更に深い記憶を見ていたようだった。俺はあの少女を『あーちゃん』と呼んでいた。もしかして記憶の少女は明里? そんな訳ない、とも言えないか。もしかして俺の傷好きが明里に響いたのかと思っていたが、もしかして幼稚園の頃に出会っていた。そう考える方が自然だ。傷好きが伝わったなんてこと普通に考えれば有り得ないが、告白した時は一緒に居られれば何でも良いと思っていたからな。
傷か……。
もし記憶の少女が明里だとするなら、記憶の明里の目には傷は無かった。
考えても分からないな。それに通り魔殺人の事もあるし、学校が終わり次第明里を迎えに行こう。
「相変わらずの白い目だな。もう慣れたけどね」
校門で明里を待っていると、南高校の生徒から奇異の目にさらされていた。だが、少し気になることがあった。校門に他校の生徒が待っていれば不審に思われるのは当然だが、明里の関係者ということが知られていくうちに、興味無くしたのか俺を不審そうに見る生徒は減って行った。それが今日に限っては初日、いやそれ以上に増えている気がする。
これは俺がどうこうってより、やっぱり明里か。ここ数日、明里の周りで人が死に過ぎている。俺でこの有り様なら明里は考えるまでもない。
明里のことが心配になって来ていると、昇降口から明里の姿が見えた。明里の周囲には、ぽっかりと空間が出来たかのように誰も近づかない。それはイジメというより、気味が悪いといった様子だった。
「死神だよ。アイツ」
「おい、やめとけ。お前も殺されるぞ」
「バカ。そんな訳ないだろ」
「だって通り魔の被害者、アイツと同じ目の傷を負わされて殺されてたんだぞ? 無関係な訳ない……」
ひそひそと明里に聞こえるか聞こえないか微妙な大きさで周りは好き勝手に噂話を口にしていた。明里が死神、なんてことは勿論有り得ない。酷い事ばかり言うな、とイライラして来た。
だが、一つ気になることもあった。傷が良い所にあるなあ、なんて思っていて気付かなかったが、明里も通り魔の被害者も同じ傷を負わされている。これは偶然なのか? それとも明里も通り魔の被害者の一人なのか。
明里と通り魔殺人が無関係とは言えなそうだった。もしかして明里が? とも思ったが俺達には最初の事件の時、アリバイがある。それに明里とは関係のない人間だ。動機がないだろう。それにオヤジさんやイジメのリーダーを殺すのなら今更だ。そうなると、明里は犯人ではない、と俺は思う。
それに明里はそんなことをするような子じゃない。出会って間もないが、他人をどうにかするなら自分が我慢すれば良い、というタイプだ。
そんなことを考えていると、明里は俺を見付けたのか駆け足で近寄って来た。その後ろにイジメグループが見えた。どうやらリーダーが殺されたからか、例の女子達は明里に対するイジメ止めたようで、遠目にこちらを見るだけだった。明里には寂しい思いをさせてしまっているが、イジメられるよりは良いか。せめて俺だけはいつものように接してあげよう。
「よう。じゃあ、帰るか」
「うん」
明里の手を取り、学校を出る。明里も周りの目を気にしていないのか、笑顔で手を握り返してきた。俺も周りの目が気になるタイプではない。放っておけば周りも興味を無くすだろう。
「いやあ、すいません。ちょっとよろしいですかねえ」
校門出た直ぐの所で、くたびれたスーツを着た猫背の男に声を掛けられた。反射的に明里の前に立つ。
「おやおや、ナイト様みたいですねえ。用があるのはそっちのお嬢さんなんですけどねえ」
ひっひっひ、と猫背の男は不気味に笑う。
「どちらさまでしょうか?」
「おっと、すいません。私こういうもんでして」
胸ポケットから手帳を取り出し、こちらに見せて来た。警視庁刑事部捜査一課、船木浩三と手帳には書かれていた。
「警察の人、ですか?」
「ええ、ええ。そうなんです。あまり警察には見られないもんでねえ」
ひっひっひ、と船木は笑う。
「警察の人が明里に何か用なんですか?」
船木は警察らしいが何処か怪しく、詰問のような口調になってしまう。それを気にも留めていないようで、また不気味に笑いながら続ける。
「あなたは月岡さんのご友人か何かですかねえ。それなら心当たりがあるでしょう?」
「な、なんのことです」
「おやおや、なんであなたが慌てているんですかねえ」
「いや、俺は……」
船木の言葉に何故か言葉が続かない。それは明里のことを疑っているからだろうか。無意識に庇おうとしているのだろうか。
俺が黙っていると船木はひっひっひ、と笑った。
「いやあ、すみません。ついつい刑事の癖で責めるような聞き方をしてしまいました」
後頭部に手を当てて軽く船木は謝罪した。
「ちょっとお時間頂けますかねえ?」
「いや、俺達は」
そう言いながら明里を見た。明里は俺をジッと見詰めていた。
「こ、この後予定がありまして」
「おやおや、それは残念ですねえ。では名刺を渡しておきますので、いつでもご連絡下さいねえ」
胸ポケットから名刺入れを取り出し、明里と俺に名刺を手渡した。
「ではこれで。お邪魔してすみませんでしたねえ」
ひっひっひ、と笑いながら船木は歩いて行った。
しばらく金縛りにでもあったように動けないでいると、繋いでいた手を明里に引っ張られた。それによって俺は正気に戻り、そのまま明里を見た。明里は先程と同じように俺の目をジッと見詰めていた。その目は俺の心まで見通しそうで視線を合わせられなかった。すると明里は今度は両手を握り俺を明里の方へ向かせる。
「ど、どうした?」
「……ううん」
俺が慌てて問うと、明里は首を振るだけだった。
ふと明里に握られている左手が気になった。強く握られているはずなのに痛みをほとんど感じなかった。
「帰ろう?」
そう言って明里は左手を離し、右手を握ったまま歩き出した。
「お、おう」
答えて俺も歩き出す。
自由になった左手を見ると、傷はほとんど治っていた。
右手には先の尖った枝。目の前には小さな少女。
「これで、あーちゃんはボクだけを見てくれるよね」
そう言って俺は少女へと近づく。
枝を握る手に力が入る。
「うん。ひかる君だけ見てるから」
少女は俺に怯えることなく、幸せそうな顔をしていた。
また一歩進み、少女へと近づく。
腕を振り上げると、少女は目を瞑り祈るように両手を合わせた。
そして振り上げた腕を思い切り振り下ろした。
「悪夢、なのかな」
昨日見た夢の続きのようだった。それは夢なのか、それとも記憶なのか。
一般的には悪夢なのだろう。だけど俺にはそう悪い夢には思えなかった。
「幸せ?」
この感覚がを幸せと呼ぶのか分からない。暖かい気持ちが心に広がっていた。
「傷を負わせる夢を見て胸が暖かくなるなんて、とんだ変態だな」
独り言ちて苦笑いを浮かべる。自分の傷好きもここまで来てしまったか。
左手の傷を見る。もうほとんど傷は治っていた。ここまで傷が治ってしまったのは初めてだった。それでも慌てることもなく、傷を広げようとも思わなかった。
傷を負わせる夢を見て暖かい気持ちになるのに、手の傷を広げようとも思わない。傷好きは変わらないのに、自分の傷が治ることを良しとしている。傷を見なくても満足している、ということなのか。この心境の変化は……。
リビングへと足を運び、テレビをつける。また通り魔殺人は起きたのだろうか。
流れるニュースをダラダラと見ていたが新しい事件は報じていなかった。昨日までの事件を繰り返し報じて、進展がないことを告げていた。
※
明里のことが気になり、家の前までやって来た。親父さんの亡くなった次の日はマスコミでいっぱいだった。今はもう静けさを取り戻していた。親父さんが亡くなったなんて嘘のように。
家の呼び鈴を鳴らして明里を待つ。しばらく待ったが物音もしなかった。
「留守か」
踵を返して帰ろうとすると、玄関の扉が開いた。
「光?」
そう言うと明里はドアの隙間から顔をのぞかせた。
「ああ、明里。いたのか」
「うん。どうしたの?」
「お、おう。デートしよう」
音も無く明里が出て来たので面を食らったが、ここへ来た目的を明里に伝えた。
「デート?」
「そうデート。気分転換にでも、と思ってな」
少し気恥ずかしくて頭をかきながら視線を明里から逸らす。心配だったのは本当で明里の様子を見に来たのだったが、口をついて出たのは『デート』という言葉だった。思い返せば明里とデートしたことはなかったな。それより過激な事は既にしてしまったが。
「うん、行く。支度するから待ってて」
そう言って玄関を閉じ、また音も無く去って行った。顔しか出さなかったのは寝間着だったからかもしれない。髪も少し寝癖っていたし。ちょっと見てみたかった。
数分待っていると玄関が開いた。今度は顔だけでなく普通に出て来た。
「お待たせ」
「おう」
明里は見てみると余所行きの格好に着替えてはいたが、寝癖は直っていなかった。急いで支度したから髪にまで手が回らなかったのだろう。
「ちょっとおいで」
「ん?」
首を傾げながらも素直に俺の元へ寄って来た。
「はあー」
息を右手に吹きかけ、温めたその手を明里の髪に当てる。当てながら少し頭を撫でる。明里は気持ち良さそうに目を瞑り、素直に頭を撫でられていた。
「よし」
頭を撫でるの止め、髪を見るとまだ少しハネていた。あまり目立たないし、これはこれで可愛いので良しとした。
「それじゃあ出掛けよう。デートだ、デート」
「うん」
恥ずかしいので、あえてデートと口にする。明里も恥ずかしいみたいで俯きながら笑っていた。
デートと言っても近所を散歩して、図書館に行った。俺は本をあまり読まないから本を読む明里を眺めていただけだった。目に掛かる前髪を耳に掛けて読む明里には、体の幼さから想像も出来ない色気があった。ただ、傷のある左目は隠したまま読んでいた。やっぱり、傷を人目に晒すのは躊躇われるのだろうか。
なんてことを本を広げたまま明里を見て考えていた。
「本読んでなかったでしょ?」
図書館を出ると明里はそう口を開いた。
「あはは、バレてたか」
「ごめんね、退屈だったでしょ?」
「いや、俺は俺で有意義な時間を過ごせたよ」
「そう?」
首を傾げながら俺の顔を上目使いに見ていた。それに頭を撫でて答える。
そのまま何の気なしに歩いていると、明里と出会った廃れた公園に着いた。
「ここも何だか懐かしく感じるな」
この公園で数少ない遊具のブランコに二人で座る。明里はただ座っているだけだった。何を口にしていいか分からなかったので、ブランコを漕いだ。俺がブランコを漕いだことで起きた小さな風は明里の髪を揺らしていた。
左目の傷が見えた。
「その、目の傷は親父さんが?」
「え?」
明里は小さな目を大きく見開いて、驚いたように俺を見た。
「いや、その言いたくないならいいんだ」
明里の目が何故か責めているように感じて視線を逸らす。それは尋ねたことに対してではなく、何故知らないのか、と責めているように感じた。
「本当に知らないの?」
その言葉を聞き、最近よく見る夢が頭を過った。
「あなたは本当に光?」
「え?」
「あなたは私の光?」
そう言って明里は髪をかき上げて俺を見た。髪に隠れていた明里の顔が良く見えた。
良く見えるはずなのに、霞んでいて良く見えない。それは現実の視界ではなく夢の視界なのか。夢の少女は明里、なのか……?
明里の目に傷を負わせたのは俺なのか……?
「今日は帰る」
明里はそう小さく告げると一人で帰って行った。そんな明里をただ見送ることしか出来なかった。
ブランコの鎖から軽い鉄の音が響く。俺達は昔に出会っていたのか。
思い出そうとすると霧のように消えてしまう。
「分からない……」
溜め息を吐いて空を見上げる。
陽はもう落ちようとしていた。
明里が帰り、数分遅れで俺も公園を後にした。明里の言葉が頭の中で何度も聞こえて来る。
「俺は本当の俺、なのか?」
なんて自己を喪失していると、目の前の男にぶつかりそうになった。
「おっと、すみません」
「ひっひっひ。いや、いいんですよ」
聞き覚えのある嫌な笑い声に慌てて顔を上げる。
「どうも、こんばんは。おひとりですかい?」
船木は辺りをワザとらしくキョロキョロと見渡した。
「見ての通り一人ですよ。何か用ですか?」
「ああ、いやいや。事件の捜査中でしてね。知ってるでしょ? 通り魔事件」
「ニュースでやってますね」
「そうそう、それなんですよ。無能な警察なんて言われちゃいましてねえ」
「はあ」
「凶器一つ見付けられなんじゃあ、無能なんて言われちゃっても仕方ないですがねえ」
「そうなんですか。まあ、頑張って下さい」
「ひっひっひ、ありがとうございます。凶器見付けたら名刺の連絡先に一報をお願いしますねえ」
気味の悪い声を背に帰路に就いた。
昨日はあまり眠れなかった。きっと眠らないと幼い頃の記憶は戻らない。だから夢を見たくて目を瞑るが、結局徹夜してしまった。
「頭が痛い」
無常に鳴り続けるアラームを消してベッドから出る。明里のことを考えれば考える程、目が冴えてしまった。
公園で見た明里の顔と夢の少女の顔が重なるが、靄が掛かったように見えなくなる。
そして気になるのが左手の傷。もう塞がり掛けている。コレクションを見る気にもならない。俺は傷好きでなくなったのか。
明里と出会ってから俺は変わってしまったのか。それとも本来の自分に戻って行っているのかもしれない。
「わからん」
冷水で顔を洗って重たい意識に気合を入れる。そんなことを一晩中考えていて気分が重い。今日は学校を休もうかな。
「光、早く起きないと遅刻するわよ」
自分の甘えを許さない声が響く。ズル休みを母さんが許す訳ない。諦めて学校に行こう。
いつものようにテレビをつけてニュースを見る。特に目立った事件は無かった。通り魔殺人もここ数日は起きていない。
俺が殺したいと思わないから?
「そんな訳ないか」
頬杖をつきなが独り言ちる。
「何が?」
「いや、なんでもない」
不思議そう顔をして母さんは朝食テーブルに並べる。
「そういえば包丁が一本見当たらないんだけど、何か知ってる?」
「俺? 台所なんて冷蔵庫にしか用ないよ」
「ふふ、そうよね。お父さんかしら」
そう言いながら母さんは食器を洗いだした。
トーストをかじりながら、ダラダラとニュースを見ていた。
※
放課後、明里を迎えに行った。昨日のことがあったから、明里と会うのは少し気まずかった。それで明里から逃げても、何も変わらない。明里との過去、そして自分の記憶。取り戻さないといけない。そうじゃないと、俺はいつまでも無感動な一生を歩んでしまう。そんな気がする。
一人トボトボと歩く明里が見えて来た。
「明里」
俺の声に明里は顔を上げ、小走りで近寄って来た。
「もう来てくれないって」
「思ったか」
無言で明里は頷いた。そんな明里の頭を少し乱暴に撫でる。
「そんな訳ないだろ?」
ひとしきり撫でた後、明里の手を握って歩き出す。
「ほら、帰ろうぜ」
「うん」
「じゃあ、また明日な」
そう言って明里と別れようとするが、明里は手を離してくれなかった。
「上がってって」
「家にか?」
尋ねると明里は無言で頷いた。
「次は家に来て。光の家みたいに綺麗じゃないけど」
前に俺の家に来たから、次は明里の家ってことか。気にしなくていいのに。
「そうか。じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
「うん」
そう言って明里は俺の手を引いた。明里の家に上がるのは初めてだから少し緊張するな。
「どうぞ」
「お、おう。お邪魔します」
家に上がると、和室が目に付いた。そこには明里の母親らしき女性が座って俯いていた。
「お母さん、心が壊れてしまったの。ううん、ずっと前から壊れていたのかもしれない」
俺の視線に気付いたの、明里は口を開いた。
明里の母を見る。心が壊れてしまったのは明里の父親が亡くなったからだろうか。でも、ずっと前から?
「行こう。光」
「あ、ああ」
ずっとここにいる訳にもいかない。明里続いて部屋に入ろうとした。
「――かる?」
何かが聞こえた気がした。
振り返って再び和室を見る。明里の母親が立ち上がっていた。
「あ、お邪魔します」
心が壊れていると明里は行ったが、普通に生活しているのだろう。頭を下げて挨拶する。
「ひかる、ヒカル、光。日向光?」
何かを確かめるように俺の名前を口にして、俺の苗字を言い当てた。
「は、はい。俺は日向光です」
再び頭を下げる。急にフルネームで呼ばれてビックリしたが、明里から俺のことを聞いているのだろう。
「光、光、光! 悪魔の子め!」
髪をかきむしりながら明里の母親はヒステリックを起こしていた。
悪魔の子なんて大層なものじゃなくて、ただ傷好きの変態なだけなんだけどな。
「お前が私の家庭を壊したんだあアアアッ!」
叫びながら俺の首を絞めようと両手を伸ばして襲い掛かって来た!
「う、うわあ」
咄嗟にその手を掴んで明里の母親を止める。
「ど、どうしたんですか⁉」
「おま、お前だああアアッ!」
叫び、女性とは思えない力で俺は突き飛ばされてしまった! そのまま仰向けの俺に座り込み、マウントポジションから首を絞めて来た。
「殺す殺す! 悪魔の子おおおオォォッ!」
「くう、ううっ」
必死で手をどかそうとするがビクともしない。悪魔が取り憑いているのはこの人じゃない、か……。
「だめえ!」
明里の叫び声が聞こえた気がした。
「げほっげほっ」
急に息が楽になった。ぼんやりとする意識の中、顔を上げる。明里の母が倒れていて、その上に明里が倒れていた。明里が突き飛ばしたのか。おかげで助かった。
「げほっ。だ、大丈夫か」
「う、うう」
無理な体勢で体当たりしたのだろう。明里も苦しそうだった。
「逃げるぞ! 走れるか?」
「う、うん」
明里の手を引いて起こす。そして、そのまま手を引いて家から飛び出した。
後ろを振り向いたが、母親は倒れたままで、追って来ないようだった。
ただ、目だけが俺を恨めしそうに見つめていた。
「上がってくれ」
「お邪魔します」
とりあえず、俺の家に逃げて来た。まさに死の恐怖を感じた。明里の母親とは初対面のはず。それなのに、あそこまで恨まれているなんて思わなかった。
「俺のこと話したのか?」
「ううん」
明里から話していない? とすると、一体どうやって俺のことを知ったんだ……。
「大丈夫?」
「あ、ああ」
俺の両手を明里が握りながら、心配そうに俺を見つめていた。
夢で見た場面と重なる。
ぼやけていた視界がクリアになる。
幼い少女の顔が明里と重なった。
「そうか。明里のあーちゃんか」
「光?」
「俺達、小さい頃に出会っていたんだな」
俺の言葉に明里は驚いていた。そして無言で頭を縦に何度も振っていた。
「最近、明里の夢を見ていたんだ」
「夢?」
「うん。とは言っても小さい頃のな。少女と一緒にいるのは分かるんだが、それが誰なのか分からなかった。それが、本当ついさっき明里だって分かった」
俺の手を握る明里の手に力が入る。
「記憶喪失って程じゃないと思うけど、小学校低学年くらいまでの記憶がに無い。あったのはこの左手の傷だけ」
治りかけの傷を明里に見せる。
「そう……」
「もう治り掛けてるけどな。ずっと傷が治らないようにしていたのに、どうしたんだろうな。明里に出会ってから傷に興味が無くなっちまった」
言いながら明里の傷痕を撫でる。
「でも明里の傷は好きだな。愛おしく思う」
「んん」
恥ずかしいのか、くすぐったいのか明里は吐息を漏らした。
「これ、俺がやったんだろ?」
「うん」
撫でる俺の手を握る。
「後悔してるか?」
「ううん。このおかげで光だけしか見えなかった」
「そうか」
暖かい気持ちで心が満たされる。柔らかな心地よさは春の日差しのようだった。
その暖かさが眠気を呼んだのか、俺達はそのまま寄り添って眠った。
※
振り下ろした枝は明里の左目に吸い込まれて行く。
酷い出血だ。
今の俺なら急いで止血をするだろう。そもそも、好きな女の子に傷を負わせる真似はしないだろう。それは幼さ故の無邪気さか。純粋と言うのだろうか。いずれにしても歪んでいる。でも俺達はそれで良いのだ。世間から見たら歪んでいる俺達の愛はこれで良い。
誰も介入出来ない二人だけの楽園。
幼い俺達が見付けた愛の形は今でも変わり無い。後悔も無い。
もう俺達を阻む者は存在しない……。
※
目を覚まして、体が軽いことに気付いた。
「明里?」
寄り添って寝ていた明里がいない。
俺は床に寝ころんでいた。体を起こして辺りを見渡す。電気も点いていない。
「明里?」
再び明里の名を呼ぶ。
――胸騒ぎがする。
起き上がり、家の中を見て回る。トイレもお風呂も見たが、明里はいなかった。
最後に自室に向かうが、やはり明里はいなかった。
ふと机の引き出しが開いていることに気が付いた。何かかが抜かれている?
家には明里がいない。辺りを探した方が良さそうだ。
家を出て辺りを見渡すが、人っ子一人いない。
「明里、どこに行ったんだ……」
独り言ちて歩き出す。
明里がどこに行ったのか分からない。
分からない。
――分からないが、足はある場所を目指している。
俺の体は明里の居場所を知っている? 奇妙な感覚に導かれるまま歩みを進める。運命の赤い糸に導かれているのかな? なんて能天気なことを思う。
きっと明里は無事だろう。明里を傷付ける者は存在しないからだ。
「ここに明里が?」
そこは明里の自宅だった。家に帰ったのか、なんてことは思わない。
明里が傷付くことは心配していない。だが別の意味で明里が心配だった。
――この感覚は何だ? 思い浮かぶことが自分で理解出来ない。
玄関の扉に手を掛ける。
――ここは開いている。
扉に鍵は掛かっていなかった。
――二階にいる。
前に見た和室ではなく、明里の部屋にいる。
――それは……。
突き当りの扉を開ける。
――ここは明里の部屋。
扉を開けて目に映ったもの。それは血だらけの包丁を持つ明里と、力なく横たわる明里の母親だった。
暗くて見えないが、嗅ぎ慣れた血の匂いが充満している。
「駄目だ明里。それは」
明里の持つ包丁を奪い取ろうとする。
「駄目!」
だが決して渡すまいと体を振って俺から逃れようとする。
「私がやったの」
その声につられて明里の母親を見る。夜目が効いて来て、明かりが無くても姿が見えた。
両目に傷。連続通り魔殺人の被害者と同じ傷。
「違う」
「私がやったの!」
「違う! あいつらをやったのは」
――俺か。
認識してしまえばなんてことはない。通り魔殺人の犯人は俺だ。
「これは、これまでのは俺がやったんだ」
「そんなことない!」
「いや俺だ。これを見ろ。俺の傷は塞がりつつある」
左手を明里に見せて告げる。
「傷好きの俺が、傷が治るまで放っておくわけがない。あるとするなら他の傷を見ているからだ。新鮮で生々しい目の傷を」
口元が歪む。自然とニヤけてしまう。俺の心は明里を傷付けた頃から壊れていたんだ。それが明里と離されたことで収まっていた。それが明里を再会したことによって溢れ出してしまったんだ。
明里のことを思って暖かい気持ちなった、なんて綺麗なことを思っていた。その実はただの異常性癖者だった。
「ははっ」
自嘲気味な笑いが出る。
――こんな壊れた人間は存在しない方が良い。
「違う」・
明里の声が響く。
「傷が治るのは当然。だってそれは私だから」
「傷が明里?」
「違う。光の傷痕は私がいなくて出来た穴。私が戻れば傷が埋まるのは必然」
左手を見る。
「それに光が人を傷付けたのは悪者から私を守るため。だから目を潰して明かり(私)を目に入れないようにした」
そうだ。あいつらに明かり(明里)を映させないようにしたかった。
「これは光の愛。だからその罪は私の物」
「――駄目だ」
「やだ! 私から光の愛を奪わないで!」
暴れる明里を後ろから抱きかかえる。こちらを向かせて傷痕に口づけをする。そして唇を重ねる。
「ファーストキスだな」
そう言って明里から包丁を奪う。
「ごめんな」
「え?」
戸惑う明里の太ももに包丁を突き立てる。
「い、痛い……」
静かに明里は苦しんでいた。
「抜くなよ? 出血が止まらなくなるからな」
苦しむ明里を見つつ携帯で電話を掛ける。
「人を刺しました。救急車をお願いします。場所は――」
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