016 不穏な会議





 三月二日、日曜日。

 山手女子中高文科棟三階の教員会議室は、ちょっとした紛糾に包まれていた。

 今日は毎週月曜日に行われる、定例教師会義の日である。


「えー、つまり区の条例に引っ掛かりまして。どうもこの地区の容積率規制が、以前よりも厳しくなってしまっているらしいんです。つまり建設中、仮の理科棟を敷地内に確保することができません。従って理科棟の建て替えは、当面の間は厳しいかと……」

 事務員の報告に、校長の小名木おなぎ信雄のぶおは小さく嘆息して答えた。

「……理科棟の件は今後、耐震補強工事の線で早急に検討するしかありませんな」

 重いガスでも立ち込めているみたいに、会議室の中は息苦しい。渋々といった様子で頷く面々に、校長はゴホンと咳払いした。

「では、理科棟耐震化の件はここまでとして、次の議題に入りましょうか。皆さん、資料の次のページを捲ってください」

 ばさばさばさ、と一斉に捲る音が重なる。社会課の他の教員と同じ場所に座っていた浅野も、同じように紙を手に取った。

 その時、校長がこんな事を口にしたのが聞こえた。


「……しかし、信濃先生と千曲先生。さっきも訊いたが、これは本気で提案しているのかね?」


 普段の校長なら、議題を提出した教師に対してそんな言葉はかけまい。

──どうしたんだろ。

 捲った資料を見もしないでいると、浅野の向かい側に座っていた当の信濃しなの朋朗ともあき先生が立ち上がる。彼と千曲ちくま美世みよ先生は、共に英語課の教師である。

「本気です」

 いきなりそう言い放つや、信濃はぐるりと周囲を見回した。「さ、まずは資料をご覧ください」

 はっとしたように浅野は資料に目を通した。

 そして、さらに驚かされた。


『山手女子における様々な自由の規制について』

 そんな表題が与えられ、色々な分野にわたっての目論見が延々とそこには綴られていたのだ。その中身は、山手女子の生徒に与えられている自由を、悉く剥奪するに等しい内容ばかりである。


──何よ、これ。どういうこと?

 あまりに突然の提案に、浅野は戸惑った。いや、浅野ばかりではない。半分近くの教師が、紙を前にして目を白黒させている。

「ご存知の通りだと思いますが、我が山手女子中高は基本的には伝統的な考え方に基づいて生徒に自由を与え、その自主性に多くを委ねています。しかし、我々は必ずしもそれがいいとは考えていません。ですから今回、こうした提案をさせて頂きました」

 そこで説明を一度切った信濃の指が、一本立てられる。

「最近の生徒の有り様は目に余ります。例えば先日、生徒たちの中にパシリ担当が決められていた事が中学一年で発覚しましたよね。気に入らない教師の授業を集団ボイコットした事件もありましたし、他にも部活の打ち上げのノリで焚き火をしたりだとか、無料通話アプリでのトラブルが高じて乱闘になったりだとか……。まさしく枚挙に暇がありません。これほどまでに生徒たちは幼稚化し、また質の悪い事件が多くなりました。皆さん、これが我が校が『自由』を守ってきた結果ですよ?」

「近年の学力偏重主義には確かに批判も多いですが、ああいった指標があることは努力の目標になるとも言えますし、一概に批判できるものではありません。そもそも中等教育に自由が必要なのか、大学等の高等教育で保証されているものをわざわざ時期を早めて与える必要性はあるのか、そういった点での検証が近年では行われてきていません。我が国の成長も完全にストップし、教育というモノの意味と真価が改めて問われている昨今、我々も変革を検討すべき岐路に来ていると考えます」

「極端な話、生徒手帳を作り、校則を記載して明文化するのも手です。していいこととすべきではないことを、この際はっきりとした方がいい。今のこの学校は、対応にあまりにばらつきが多すぎます」


 信濃と千曲は、さも自信たっぷりに持論を述べ終えた。

「下らん」

 奥の方から声が上がる。

「色々と書いているみたいだが、結局は生徒への信頼が一切ないという話だろう。それにこんな案を実行に移してしまったら、我が校は一体何になる。ただの中途半端な学校になるだけではないか。君たちはまだ若いから、伝統の大切さが理解できないのかもしれないが──」

「お言葉ですが、その伝統の結果がこれなんですよ。四天王校などと大仰な看板を振りかざしているにも関わらず、国立大学の進学率はその辺によくある進学校にすら劣ります。しかもその度合いは、『名門校』の中でも我が校が最悪ワーストです」

「自由を売りにしなくても、他の進学校は生徒を集めているじゃないですか。この時代にあっているのは、就職難の世の中に出ていく子供たちに確かな未来への道筋を与えてやれる学校であると、そうした『事実』が語っています。のんびりなんてしていられないんです。昨年の東大入学者数の減少と連動するように入学希望者数が激減するという形で、おそれは既に現実になっているんですよ?」

「…………!」

 ガタン、とわざとらしく大きな音を立てて、反論した教師は椅子を引き座った。それ以上言う気がなくなったのか、はたまた返せる言葉がなくなったのか。

 それからしばらく、誰も喋らなくなった。みなが目をそらすように会議の資料に目を遣り、必死に何かを追っている。


──悩ましいわよね、確かに……。

 浅野は口の中だけで、そう呟いた。

──目に余るとまで言うべき事なのかは分からないけれど、実際のところ『自由』である事を活かしている生徒って本当に少ないのよね。私はまだ高校生を受け持った事はないから、あんまり決めつけ的な事は言えないにしても。

 この学校に就職して、早五年。その間、なかなかに興味深い成果を上げる生徒の話はいくつも聞いたが、自分の周りではほとんどいなかった。浅野は自由を校風として謳うことに反対の意思を示してこそいないが、ずっと疑問には感じていたのだった。本当にそれは、機能しているのだろうか?

 四天王校の一つに数えられるというブランド力を力にするのでも、或いはそこに属する教師や生徒を利用するのでも、もしくは山手女子が所有する貴重な物品や知識を使うのでも、何でもいい。そういう事をする生徒が見たかった。いや、そういう生徒がいなかったからこそ、信濃や千曲はこんな革命運動まがいの行動を起こしたのではないだろうか。浅野には、そう思えてならない。


 私立山手女子中高は、あらゆる意味で『世間離れ』した学校であることで有名だった。文部科学省の指定するスーパーサイエンスハイスクールスーパーグローバルハイスクールに名を連ねていないのも、方針が自校の理念にそぐわず特定教科への肩入れもしたくない、という理由で申し出を蹴ったからだ。

 他の多くの『名門校』が次々とこれらの制度に名乗りを上げる中で、山手女子には今、売りにできる要素はあまりにも少ないのが現状だった。校風が自由であることは、実はそこまで特別ではない。単なる題目として『自由な校風』を挙げる名ばかりの学校も多いが、長い歴史の中で余裕を有するようになった名門校の多くは、山手女子のように生徒の人間性を重視するような教育方針を採っている場合がほとんどなのだ。前述の理由で『理系教育が強み』『海外留学支援などに積極的』などのアピールも効力が薄く、進学実績も不利となれば、当然の結果と見られても反論の余地はない。

 倍率二倍以下という結果に、教師たちもまた、灰色のため息を吐き出していたのだ。その色の正体は『仰天』でも『不安』でもなく、『諦観』なのかもしれない。


「異議はない、ということでよろしいでしょうか?」

 信濃の声に、泡を食ったように反論がちらほらと飛び出した。

「待ってください。この案では、自由の剥奪と生徒の最近の行動との間に何の関連性も見られませんよね」

「それは単なる一時的かつ罰則的な処置として考えているからです。我々も鬼ではないので、そうして少し様子を見ることも必要かもしれないと思いまして」

「こんなことをしたら、保護者や外部からの批判が出るわよ。どう対処するつもりなの。当然、貴方たちが矢面に立つのよね?」

「承知の上です、覚悟はできています。そんな事に囚われていたら、学校改革なんて進みませんから」

「そんなに急に切り替えたら、逆に生徒たちは戸惑うと思いませんか。そもそも学力低下と仰有いますが、生徒が自主的に勉学する事そのものに意味があるんですよ。すぐには結果に結び付かなくても、学習に趣味に努力している生徒は多いはずです」

「──最大の疑問がそこなんですよ。努力している生徒とは、どれほどいるんでしょうか?」


 最後に質問をした教師は、はい? と無意識に聞き返していた。

 信濃は冷ややかな笑みを浮かべていた。

「では、こういうのはどうでしょうか。実は小名木校長先生には既にお話を通してあるのですが、今から我々のする提案の実行の是非について、この場で決を採りたいと思います。若手の先生方には我々と似たような考えの方が多いでしょうから、通ると思いますが……」





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