015 悠香の願い
亜衣たちと別れた後の、帰り道。
悠香は陽子を、あの荻窪駅の空中通路に連れてきた。
陽子も毎日通っている場所なので、別に驚きはしない。ただ、不思議がっていた。
西日の辛うじて当たる、黄昏の荻窪駅西口通路。会社帰りのサラリーマンや学生たちの賑やかな会話が、改札から延びるこの細い道を満たしている。
「いやー、とりあえず方向性だけでも決められてよかったよねー」
言いながら悠香は、途中で買ってきた缶ジュースの残りを勢いよく飲み込んだ。喉が快い音を立てた。
「さっきのテンションの低さとはえらい落差だな……」
半ば呆れ口調で陽子は言うが、悠香はあくまで呑気だ。缶をコトンと置くと、のんびり口調で呟く。
「今思えば、決まっただけでも良かったかなーって。議長が私じゃ、いつまでも意見がまとまらないような気がするし」
「……ん、まぁ」
反応に困る陽子。
新手の自虐だろうか。しかし実際のところ、ハルカがリーダーなのはやっぱり不安要素が大きいよなぁ。自分が悠香を薦めておいて、今さらになってそんな事を思う陽子だったりもするのだ。
だが、ともかく悠香の言う通り、これから先に取り組む目標が据えられたというのは大きいはず。
「先はまだ、長いもんな……」
陽子は呟いた。ずっと向こうに沈み行く太陽に向かって、何本ものレールが延びている。きらきら輝く線路の上を、満員の下り電車が駆けてゆくのが見えた。
こんな時間を過ごすことになるなんて、例えば二ヶ月前の二人に想像できただろうか。きっと、できなかったはずだ。
「……なんか、幸せ」
ぼそっと悠香が言うと、陽子も金属製の手すりにもたれ掛かりながら口を開いた。
「それにしてもあたしたち、よくあの時ああやって決断したよな。既にライバルがいる舞台に、初心者なのに挑もうとするなんて。無茶もいいとこじゃん」
お説ごもっともである。あの日、どんな事を考えていたっけ。悠香は記憶を辿りながら、ゆっくりと答える。
「うーん……。最初は私も、もう物理部が参加決めてるなら私たちは別の探した方がいいのかなーとか思ってたんだけど、レイちゃんの言うとおりダブルの方が目立つ可能性は有るなって思い直して。それに、北上さんが困ったら頼ってもいいって言ってくれたから、なんか安心しちゃったんだ」
「なにそれ、『頼ってもいい』って。初耳なんだけど」
陽子が少し身を乗り出してきた。そうだ、あの言葉は陽子には聞こえていなかったのだ。
「……きっと、何でもないよ」
悠香はちょっと笑って、そう答えた。
実際、なぜあんな言い方をしたのかは悠香にもまだ分からないままだ。
それに、あの時の北上の顔は、思い出したくなかった。真剣な眼、氷のような声。何だかとても、怖かった。
手すりに飽きたのか、うまく鳥の糞を避けつつ窓枠に寄りかかった陽子は、ふと思い出したように尋ねる。
「……それはそうと、ホントに間に合うと思う?」
「分かんない」
見事に即答だった。
「……いや、『分かんない』じゃまずいって。いくら申し込みタダだからって、そんな姿勢で臨むのってどうなのよ?」
たしなめるが、悠香はまるで危機感というものを感じ取る器官がないみたいだ。相も変わらず暢気な声である。
「んー、でも最悪レイちゃんのお父さんはNASAのエンジニアなわけだし。どうにかなるんじゃないかなぁ」
その適当さが、余計に陽子の不安を煽るのである。
「それを最初から頼ってどーすんだ。大体、エンジニアなんて子供の相手してられるほどヒマな仕事じゃないんじゃないの? てか、そもそも日本にいないんじゃないの?」
「大丈夫だって」
悠香は手すりに置いた空き缶を一撫ですると、陽子を振り返った。
そして、あくまでも適当な未来予測を突き通した。
「きっと何とかなるよ。……ううん、何とか出来るよ」
その根拠のない自信は、一体何処から来るのだろう。不安げというより不審そうな表情を浮かべる陽子に、一瞬だけ笑いかけると、悠香は外に顔を向ける。
西へ向かう線路の端に沈みかけていた太陽が、ふと戻ってきたように悠香の顔を明々と照らし出していた。
「私ね、今までこんな楽しい気分になれたのって、初めてなんだ。自分で──いや、もちろん全部自分でってわけじゃないけど、何かやろうって決めて行動を起こすことって、これまでの私の十四年の人生で多分一度もなかったと思うの。それ以前に、自分が何が好きで何がやりたいのかさえも、自分のことなのに私は知らなかった。だから、これまでずっと他人の敷いたレールの上を走ってきた私が、自分で道を切り
……レール。
陽子は何回か、その単語を脳内で繰り返した。
レールとは何かと聞かれたら、きっと色々なモノに喩えられるだろう。けれど悠香が言っているのは、多くの場面で自由が認められている山手女子の生徒にとっての『レール』の事だ。
「………………」
陽子は、返事ができなかった。陽子にとっても悠香の話は、耳の痛い話だった。
悠香や陽子に限った話ではあるまい。山手女子の生徒たちだってみな、色んなことに手助けを借りながら生きている。言い換えれば、『レール』を引いてもらいながら生きている。けれど、彼女たち自身に『手助けされている』という自覚はあるだろうか。きちんと感謝できているだろうか。他人からじゃなく、自分から何か始めようって、考えた事があるだろうか。
口に出すのは簡単でも、それを実行するのは簡単なことではないのだ。
悠香は、『自分で道を切り拓くのが楽しい』と言う。
その言葉はきっと嘘じゃない、と陽子は思う。
夕陽に照らされた悠香の目は、輝いていた。まるで大好きな遊びに興じる子供のように、キラキラと輝きを放っていた。この二年間、こんな悠香の眼差しを見たことは一度もない。
しばらく、無言の時間が続く。
悠香は陽子の顔色をずっと伺っていたようだったが、やがてまた口を開いた。
「昨日、週刊誌を読んでて思い出したんだ。私、せっかく自由に色々できる環境にいるのに、その利点を何も活かせてないなって、ずっと感じてた。だから、ロボコンに出て成果を残せれば、前より少しはそういう自分から脱け出せるような気がして、だからこそ目指そうって思ったんだったんだ。あっ、ウチの人気を取り戻そうっていうのも、もちろんあるんだけど」
「…………」
「──ううん、私にはどっちも大切なことだもん」
そう言って夕陽から目をそらした悠香は、今度は陽子の方に向き直った。妙に改まった姿勢で、はにかむように笑う。
「ほら、メンバーの中じゃ私が一番、頭、悪そうじゃない。だから、みんなには迷惑をかけるかもしれない。だけど、私はやり通してみたいんだ。仮初めにもリーダーになっちゃったわけだし。だから私……、頑張るよ」
長い長い悠香の独壇場に、陽子は結局一言も挟むことはできなかった。
「あー、のど乾いた……。もう一本買ってくるね」
伸びをしながらそう宣言すると、悠香は改札前の自販機の方へ歩いて行った。また電車が到着したのか、駅から出てきた人の群れがたちまち悠香の姿を隠す。
独り残された陽子は、悠香のいた空間をまだぼんやりと見つめ続けていた。
「自立、か……」
……自分は成績も悪くない方だと自負しているし、体育だってそれなりには活躍している。進学校の一生徒としては、陽子はそれで十分だと思っていた。
別に、ナントカ賞だのナントカ検定だのにさして興味はない。頑張るのは大学受験が近付いてからでいい。それまでは勉強と部活とを、それぞれ両立しながら日常を謳歌してればいい。そう思っていた。ロボコンへの参加は、所詮はその場の雰囲気によるものだ。
そういう尺度で見ると、悠香は部活は幽霊、成績は平均以下とけして芳しくはない部類に入るのだろう。しかもてっきり悠香自身に、その自覚は無いものと思っていた。
生活圏の近さから中一以来ずっと仲良くしてきたけれど、悠香はそういうボンヤリした性格の人間なのだとずっと思ってきた。
なんだか、悠香に置いて行かれているような気がして、ちょっと……ほんのちょっとだけ、悔しかった。
陽子は悠香が置き忘れていった缶を手に取り、それを眺めて悠香を待った。
十二両編成の下り特急が駅を通過していく重たい音が、鉄骨造の通路をゆったりと揺らしていた。
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