013 燃え上がる心






 シャワーが四十度の水を放つ音が、浴室にこだまする。


──正直ちょっと、ショックだったな。

 湯気に包まれながら、悠香は思った。

──これまではこんな記事見ても、別に何も感じなかったのに。浅野先生に倍率を聞いて以来、変にリアルに聞こえてくるよ。

 シャワーを手に取り、目の前の鏡のくもりを洗い流す。鏡の向こうの自分は、やけに悲しそうな表情を顔いっぱいに湛えていた。そりゃそうだよ、と思った。自分の学校を散々に言われて、悲しくない人なんているはずがない。

──なんで雑誌って、あんなひどい記事を書くんだろう。

 やりきれない思いが、脳内で交錯した。

 今に始まったことではない。あの雑誌は先日も四ページ以上に渡って延々と、『教養教育リベラルアーツを中坊相手に広げたところで何が得られるのか』などという記事を書いていた。山手女子をターゲットにしているのは明白であり、あの時は何人もの生徒がそれを学校へ持ち込んできて、生徒同士でもけっこう論争になっていた。

──そんなの、実際に授業を受けた人にしか分かるわけないのに。『ナントカ界の権威』とかいうおとしよりがやるような、現実離れした分析だけで記事を書いてるんだもん。あんなやり方じゃ、偏った見方のモノしか書けないよ。

 悠香は憤然としながらシャワーを浴びた。記者が変わっても内容が変わらないところを見ると、結局のところ山手女子の掲げる教育方針や理念そのものが、あの会社の人間──否、近頃の報道機関には根本的に気に食わないのだろう。そうとしか、思えない。

 果たしてこの気持ちを、『公憤』と呼ぶことはできるのだろうか。後頭部に残った石鹸を最後にシャワーの水圧で吹き飛ばすと、悠香は湯船に足を入れた。あつっ、とちょっと足を引っ込める。我慢して、肩まで浸かる。


 湯船の中は心なしか、少し息苦しい。

 物理法則に従えば当然ではあるのだが、きっとそれだけではないはずだ。

 小学生の頃より、やや狭くなった湯船。悠香は肩まで浸かった姿勢のまま、自分の身体を眺めた。

──成長、か。

 こうして眺めてみると身体の方は多少なりとも成長しているみたいだが、やっぱり肝心なのは心とか頭の成長なのだろう。大人はとかく頻りに、そう言う。

──身体はせいぜい、水泳の授業の時に笑い物になるくらいで済むけど……。

 あちらこちらをふにふにと触ってみながら、悠香は秘かに嘆息した。それもそれで、子供扱いされているみたいで嫌だ。

 成長という単語で思い出す話がある。あの某国民的漫画の主人公である鉄腕アトムは、その設定上、本来なら開発した博士の子供として生み出されたのに、『成長しない』からという極めて理不尽な理由で捨てられた。『成長出来ない子供なんてロボットだ』と言って。

 機械(ロボット)が成長しないなんて、サルでも分かりそうな話だ。初めて読んだ時、なんでそんなことが分からないんだろう、と悠香は首を傾げたものである。

 初めて読んだのはいつの事だっただろうか。確か、隣県の父の実家に行ったときだ。

──まだ、小学校低学年とかの頃だったかな。懐かしいな。

 天井を仰ぎながら、悠香はふっと唇を曲げた。あの頃はまだ、寂しそうに蹲(うずくま)るアトムの顔に何かを読み取るなんて事は、出来なかった。




『親のロボット』


『決まった道を辿るしか能のない、ロボット』




 その言葉が自分に跳ね返ってくるまでに、さほどの時間は要しなかった。




 アトムのことは、他人事か?

 自分だってそうではないのか?

 成長することを期待され、そして成績という意味では目下のところその期待を破りまくっている自分には、棄てられる危険は本当にないと言えるのか?

 あの雑誌の論調に対して一人前の怒りは感じられても、そもそも自分は本当に山手女子の『いいところ』を知っているのか? 理解しているのか?


 ……そんなの、言えるわけがない。




──私は、私がどんな人なのかも分からない。

 目を瞑った悠香は、心の奥で呟いた。

──それどころか、私に与えられた環境がどんなもので、どんないいことがあるのか、それさえ知らないや。うちの学校の掲げる『自由』とか『教養』だって、考えてみればさっぱりだ……。


 どれだけ足掻いても、中学高校の六年間は六年間のままだ。

 それ以上伸びたりなんてしない。

 なのに悠香は中二の三学期に至ってもまだ、目指すその理想の正体すらも掴めていないのだ。このままでは何もできないうちに高校まで終わって機会を失うか、その前に保護者の手によって『ロボット』にされる未来しか、ない。

 そしてそこには恐らく、好きなことに取り組める自由など存在しないのだろう。


 当然だ。

 ロボットが成長しないのと同じくらい、当たり前だ……。




 ざばん!

 悠香は湯船から勢いよく立ち上がっていた。

 そしてその時、ようやく悟っていた。周囲よりも活躍できない悠香が、既に敵のいるロボットコンテストにあんなにも惹かれる理由が。

 急に居ても立ってもいられなくなってきて、身体を軽く洗い流して浴室を出る。超特急で服を着て、そのまま真っ直ぐ自分の部屋に向かう。スマホを点け、陽子にメールする。

〔ロボット、なんか私がやること無い?〕

 返事が来るのに、だいたい五分かかった。焦れったさばかりが募ってゆく。

〔突然どうしたの? あのロボットの部品なら、茨城の麗の家にあると思うけど〕

〔そうじゃなくてー! 私が今出来ることって何かない?〕

〔……そんなの、自分で考えなよ〕

 はっと悠香は気がつく。また、誰かに頼ろうとしていたのだ。

──そうだよね。自分で考えなきゃ。

 悠香は部屋を見回した。今までの自分の部屋には、もう見えなかった。




 風呂から上がるなり部屋に閉じこもって出てこない、悠香。

「あいつ……」

 そこへ不機嫌そうな顔でやってきたのは、友弥だった。貸していた漫画を今日返してくれる約束だったのに、いつまで経ってもやって来ないことに業を煮やしたのである。

 友弥は悠香の部屋の前に立った。部屋に入ってからもう、かれこれ二時間だ。

「悠香、寝てんのか?」

 軽くノックして友弥は扉を開ける。部屋の天井の電気は消えていたが、奥の勉強机にLED灯が点っていた。

 悠香はそこにいた。

「ハルカ、いい加減アレ返せよな。もう三週間──」


 言いかけて友弥は、気づいた。

 悠香は、眠っているのだ。

 あの雑誌と科学の分厚い参考書、それになぜかロボットに関する本を枕にして。いや、眠っていたと言うより落ちたと言うべきなのか。

 試験前になってもいつも余裕を噛ましている悠香が、どうして勉強なんかしているのだろう。そんな疑問が頭を擡げてくる。

 が、友弥はなぜか微笑まないではいられなかった。悠香が自主的に勉強してる所なんて、初めてだったからだ。何があったか知らないが、ここにある『週刊読売』にでも触発されたのだろうか。


──悠香は悠香なりに、ちゃんと考えていたのかもな。

「頑張れよ」

 そう小声で呟くと、友弥はベッドから布団を引きずってきて、悠香の肩にそっと掛けてやった。

 悠香の寝顔が、ちょっと笑っているようだった。





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