007 日常の延長上






 物理部が開発しているロボット三台をじっくりと見ていたら、いつの間にか三十分が経っていた。

 さすがにそろそろ帰ろう。誰からともなく言い出して、五人は部室を後にした。


「……なんか、すごかったな」

「うん、すごかった」

「すごすぎて、意味分かんなかった」

 夕方。最寄りの地下鉄駅のプラットホームで電車を待ちながら、悠香達は口々に言い合った。

「なんて言うか、細かい作業なのは分かったけど、あれがどのくらいすごいのかは全く想像つかないよ……」

「数学とかの授業で、公式も解き方も習ってもいないような問題を出されてる気分だった」

「あ、そのたとえいいね、ナツミ」

 議論というより文句の言い合いが一段落したところで、麗が静かに指摘した。「とにかく、まずは知識固めが必要だと思う。あれがどんなことをできるマシンなのかも分からないのでは、まずい」

「レイちゃんはアレの仕組み、分かったの?」

 途端、思い出したように悠香がたずねる。麗は一瞬黙ったが、曖昧に首肯した。

「ある程度は」

「すげえ、流石は父親がエンジニアなだけのことはあるなぁ」

 素直に感心する陽子。やっぱりサラブレッドは事情が違うのだろうと納得する横から、悠香が割り込んできた。

「んー、でも逆に言えば、小学生の時のロボット製作で培ったレベルの知識でも分かるって事だよね」

「それじゃ絶対に無理」

 暢気なその一言を麗はズバッと斬った。えー、と悠香は心底不思議そうな声を上げる。

「じゃあなんで、レイちゃんは分かったのさ?」

「趣味。個人的に勉強してたから」

 その一言で、『覚悟』の意味を一つ悟った気がした四人であった。麗の科学の成績は学年トップクラスだと、先生が以前に言っていたのを思い出したのだ。

 こうなったら、こちらも相応の覚悟で挑まなければなるまい。

「……みんな今週、暇な時ってない?」

 亜衣は全員を見渡す。

「あたしは水曜と金曜は部活が」と、陽子。

「水、金、土は厳しいかもしれない」と、麗。

「わたしもさすがに今週くらいは出ときたいからなぁ、んじゃ水曜にしよう」と、菜摘。

「オールウェイズ、フリーダム」と、悲しい事を言う悠香。

 全員空いているのは木曜のようだ。

「じゃあさ、木曜日にどこか──って学校の図書館しかないか、とにかくそこに集まって勉強しようよ。それまで各自勉強して、基礎知識くらいは身につけてくること! それでいいんじゃない?」

 亜衣はそう提案したのである。

 なるほど名案だと、残りの面子も思った。みんなで同じことを学ぶよりも、個人個人で知見は高めておいて不明点を教え合う方が、時間のない中ではずっと効率がいい。

「……レイちゃん、何を勉強すればいいの?」

 悠香の問いに麗はちょっと考えて、列挙を始める。

「……まず、ロボットを動かすのに必要な基本的な物理法則──梃子とか滑車とか輪軸とかのモーメント計算だとか張力や動力の計算、オームの法則とか合成抵抗とかの電気関係、右ねじの法則とかフレミングだとか磁力関係の知識は基礎中の基礎。その上で、歯車とかベルトとかの物理法則を応用した部品類の仕組みも知っていなきゃ。電気回路に使う抵抗器とかダイオード、センサーとかの基本の電子工作部品から、電磁弁ソレノイドや空気圧シリンダーみたいにエネルギーを動力に変換するアクチュエーターの仕組み、シーケンスとかフィードバック制御とかの電気系統関係の知識、それからロボットを自作するからには実験器具や計測装置の使い方も。テスターとかノギスとかマイクロメーターとか──」

「……あ、もういいです……」

 音を上げたのも悠香であった。何なんだ、今の途方もない数は、種類は。目が回りそうだ。

 それは誰しも同じらしく、一様に不安そうな目をして麗を見つめている。

「しかし、あと三ヶ月なのに知識固めから入って間に合うのか? おまけにその量、覚えるの相当大変なんじゃあ……」

「このくらいも分からないでロボットなんて、ううん、専門分野なんて無理。どれも猛勉強が必要」

「うっ……」

 丸っきり慈悲のない麗の受け答えに、しかし陽子は黙り込んでしまった。確かにそれも正論だった。

 現実を突きつけられ、しんと静まり返ってしまった廊下の空気。何とか取り繕わなきゃ、と悠香は声を出す。

「ま、まあ、とにかくやるっきゃないよね」

 亜衣が横入りしてきた。「それって特にハルカじゃないの? 確かハルカ、二学期の期末で……」

「はいはいはいはい」

 耳が痛い。二学期の期末テストの幾何と物理で、がっつり落第点を取ってしまった事を追及されているのだろう。亜衣の言葉を無理やり遮った悠香は、弁解するようにその先を口にした。

「大丈夫だって! だって、他人事じゃないんだもん」



◆ ◆ ◆



 悠香の家──玉川家は、東京都杉並区の荻窪駅の近辺にある。

 荻窪は青梅街道と環状八号線、それにJR中央線が交差してできた場所にある都市だ。地下からは東京メトロ丸ノ内線が発着し、その都心アクセスの良さから周辺には大小様々な住宅が建ち並んでいる。

 駅前商店街の華やかな光に囲まれながらビル街の下を通り抜け、ぽつぽつと点るおぼろげな街灯を辿ること十分。そこに、悠香の家はある。


「ただいまー」

 玄関で響いたその声に、リビングのソファーに座って本を読んでいた玉川友弥ゆうやは顔を上げた。高校二年の彼は、悠香の兄だ。

 と、目の前を悠香がまっすぐ通り過ぎ、そのまま二階へ上がる階段まで駆け抜けていった。

──あれ。

 ふと違和感を抱いた友弥は、階段に差し掛かった悠香に声をかける。「どうしたんだよハルカ、珍しく急いで」

「ちょっとねーっ!」

 ほとんどスルーに近い答えを口にしたかと思うと、もう悠香の姿はそこにはなかった。

「…………?」

 首を傾げる友弥。奥のキッチンに立っていた母が、不思議そうに言った。

「どうしたのかしらね。普段ならソファーで一頻りゴロゴロしてから二階に向かうのに。宿題でもやる気になったのかな」

「ハルカに関してそれはないだろ」

「そうよね……」

 二人は目を合わせ、まあいいか、と沈黙のうちに了解したのだった。悠香に対する家族の評価と扱いは、大概そんなものだ。




 一方。

 自室に帰り着いた悠香は、ベッドの上にカバンを放ると自分も飛び乗って大の字になった。ふうっ、と長い息を吐く。

 亜衣にもうあんなことは言わせたくないし、だったらなおのこと勉強しなければ。そうは思うのだが、闇雲に始めたのではいつ覚え切ることが出来るかも分からない。そうなると、手段が重要になる。

 麗の挙げた諸々の物理法則をダイレクトに覚えるのも手だ。しかしながらそれでは、開始十分で飽きて落書きにでも走るのが関の山だろう。あとは、教科書を音読するとかだろうか? 

──私の身の丈に合った覚え方って、いったい何だろう。

 天井を睨み付けた悠香は目を閉じ、

 暫し考え、

 だんだん、

 瞼が重く……。


 いけないいけない。寝てしまうところだった。

 はっと顔を上げるや、目覚ましにと輪ゴムを構え、悠香はそれを腕に向けた。パチンと甲高いクラップ音に思わず、痛っ、と声が上がる。これで一旦は目が覚めた。

──アレだな、私はきっと長い間一つの事を考えてると眠くなっちゃうタイプなんだな。

 導きだした結論に独り納得すると、心を決めた。とりあえず、ロボット関係の本か何かを見つけて読んでみることにしよう。案外そういうものでも、知識は入ってくるかもしれない。歴史マンガが歴史の勉強に効果的なのと一緒だ。まずは読んで、何となくでも概要を掴むのが肝要なのだ。

 思い立ったが吉日、である。悠香はベッドから下りてパソコンを起動すると、取りあえず区立図書館のホームページから検索を掛けてみた。


 コンマ一秒で結果は出た。

 残酷なまでにはっきりと。

〔全件貸出中です〕


「…………」

 茫然と、冷徹なその文字列を眺める悠香。

 どうしよう。いきなり未来が潰されてしまった。

──杉並区ここ以外の図書館はカードを持ってないから使えないし、学校の図書館には大した本は無かったってアイちゃん言ってたし、ウチの系列の大学図書館まで行くのは遠いし隣が隣だけに居づらいし……。

 次々に候補が浮かんでは、可能性が打ち消されてゆく。

 山手女子と同じ経営母体を持つ系列校である、四年生総合大学の山手大学は、世田谷区の山手中高の校舎の隣にある。そうでなくても定期券圏外な上に、男子校の隣に乗り込むなんてとても一人では出来そうにないと悠香は思ったのだ。別に男子が苦手なわけではないのだが。

 仕方ない、ネットに頼るか。

 そう覚悟を決めかけた矢先だった。ヴーン、ヴーン、どこかでバイブレーションが鳴動しているのに悠香は気づいた。

「……あ」

 スマホのようだ。机の上で主人を呼ぶ端末を手に取り、悠香は画面を起こす。青く輝く画面に表示されたのは、陽子からのメールだった。

〔とりあえず、この辺りの図書館にある使えそうな本を全部まとめて借りたんだけど、見る?〕


「……どうりで……」

 

 悠香はスマホをベッドに投げ出して、自分もそこへ飛び込んだ。

 独占の犯人は陽子だったらしい。






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