067 夕凪の先輩
よく晴れた翌日の放課後が、悠香たちロボット研究会にとっては最も大人数の活動になった。
教室に保管してあったドリームリフターの部品を組み立て直して、故障がないかを点検し、持ち寄った梱包材で厳重にくるむ。物理部からの応援で渚と聖名子、それに長良や米代が、カバーの済んだそれらを段ボールに仕舞い込み、ガムテープで封じる。
総重量が十キロに達する重い段ボール箱の輸送は、クラスメート十人近くが手伝ってくれた。以前に悠香たちが広報活動をしたおかげでロボット製作に興味を抱いてくれたクラス代表の阿賀野や黒部が、みんなに呼び掛けたのだ。
「私たち、このくらいしか、手伝えないから、ねっ!」
苦しそうに言った矢先に黒部が箱を落としそうになり、慌てて亜衣と陽子が支えに入る、なんて場面もあったが。
そんなこんなで校門前に来ると、そこには相模家の大型乗用車が既に乗り付けていた。いつの間に取得したのか、フロントには駐車許可証がぺたりと貼られている。箱の揃ったところで五人は並び、降りてきた麗の母に礼を言った。
「いいのよ、そのくらい。むしろ私こそ、いつもレイに構ってくれてありがとうって言わなければならない立場だから」
母の言葉にむっとしたのか、麗は無表情ながらも少し怒っているようだった。子供扱いされたのが嫌だったのだろう。
「じゃあここの箱は全部、私が預かるわね」
言いながら箱を持ち上げようとした彼女は次の瞬間、苦痛に顔を歪めた。「重いっ……!」
「あ、いいですいいです! あたしたちが積み込みます!」
陽子の声を音頭に、五人は二人一組で段ボール箱を持った。いたた、と呻きながら、母が後部座席を指し示す。「ごめんなさい……。じゃあ、そこに入れておいてもらえる……」
真剣に腰痛の心配をした方が良さそうだ。不安げに傍に寄ってくる麗に、母は心配ないと手を振った。麗には、他の四人と一緒にいて欲しかったのだろう。
「──そうそう、レイの顔を見て思い出したわ」
本当にたった今思い出したように、母は麗を見上げた。
「今朝からお父さん、あちこち飛び回って仕事するらしいから、当分家には帰らないそうよ。ロボコンの事は話しておいたけど、見に来てくれるとは思わない方がいいかもしれないわね……」
「…………分かった」
麗は少し残念そうに、そう答えたのだった。
時計の針が五時を示し、傾いた陽が空の雲をオレンジに輝かせている。
相模家の車が角を曲がって消えていくまで、五人は校門に立って見送っていた。二つの尾灯が、挨拶するようにぴかっと光った。
手を振り終えた悠香は、さてと、と口を開いた。
「みんな、お疲れさま。明日もあるし、今日はもう解散にしよっか」
「え、もう? 普段ならまだ練習してる時間なのに」
「ここで焦るより、明日ちゃんと大会の人たちに説明できた方がいいもん」
悠香は微笑む。思わず反論した陽子もそれを見てか、うん、と点頭した。「そうだね、たまにはそれもいいか」
「よしっ、今日は早く寝ようっと!」と、目を擦りながら菜摘。
「どーせ普段はゲームで夜更かししてるんでしょー?」と、横目で見ながら笑う亜衣。
麗は相変わらず無言……かと思ったら、微かな声で呟いた。「今日はとびきり、疲れた」
思い思いの感想を口にしながら、五人は階段を登って教室を目指した。広げる荷物もないので、帰宅の準備はすぐに終わる。
……はずが、悠香だけがもたもたしていた。机の中を漁り、ロッカーを漁り、焦ったように何かを探している。
しびれを切らした亜衣が、声を張り上げた。
「おーいハルカ、そんなに遅いと先に帰っちゃうよー?」
が、悠香は急ぐ素振りを見せない。それどころか、
「ごめーん、先に帰っててくれないー?」
そう言い放ったのだ。
「え、うん……」
どうしたのだろう。前例のない返事に四人は顔を見合わせたが、ともかくああ言っているからには仕方あるまい。
帰ろっか、と陽子が言い、四人はやや後ろ髪を引かれるような感覚を残しながらも、そこを後にしたのだった。
「行っちゃった……か」
悠香は、独り言を言った。
三方の窓から差し込む夕方の光が、教室を隅々まで明るく照らし出す。
あの荻窪の橋と同じ匂いを、いつも悠香はこの場所に感じている。それは恐らく、この夕陽の暖かさのせいだ。一日の終わりを締め括るのに、あの光がないのは何だかやっぱり淋しい。
この辺りは山の手台地の崖線沿いに位置し、低層の住宅街が広がっている。そこに建つこの学校は、その高低差ゆえに広大な校庭さえもが家々の屋根の上にあり、極夜にでもならない限りは真冬であっても暖かな光が差してくる。山手女子に惹かれる生徒や保護者は多いが、文化祭を見に来てこの広々とした景色に魅了され、それが決定打になった者も少なくないと聞いた事があるくらいだ。
「……ただの金属の
窓辺に立った悠香は、足元に仲良く並んで控えているエイムとドレークを、そっと撫でた。
「あったかいよね、
そして、ふと思い付いた。
探している風を装って引っ張り出していた紙の束やノートを机に押し込み、カバンを手に教室を出る。一階まで降りると、そのまま校庭に出た。
今日は偶然にも部活が少ないらしく、巨大なグラウンドには誰もいなかった。朧気な掛け声が風に乗って、テニスコートの方から漂ってくるだけだ。
振り返ると、さっきまでいたあの校舎が背後にそびえ立っている。初めの頃に切磋琢磨した物理実験室や、いつか一人で作業をした食堂のある理科棟も、社会課のある文科棟も、総合教室棟も体育館も、ここに来れば全ての建物が見える。
思い返せば、ロボット製作の作業中に悠香たちの使った部屋には全て、あの夕陽の見える方角に窓が開いていた。疲れた時、諦めそうになった時、気づいたらあの遥かな輝きは無言のまま、背中を支えて、押してくれていた。
──やっと、ここまで来れた。
夕陽を見上げ、悠香は顔を綻ばせた。
──誰に感謝すればいいんだろう。ロボット研究会のみんなにも、物理部の人たちにも、先生方にも、誰にも彼にも、何万回お礼を言っても足りないや。
北上の言葉が、今はより実感を伴って目の前に浮かんでいた。ロボットそのものを作るのは、そんなに難しい話ではないのかもしれない。でも、そのロボットに必要に応じて機能を持たせたり、それを守るのには、悠香一人の力では到底足りない。もしも悠香一人で作っていたら、たとえ相応の技術力があったとしても、風邪を引いて倒れたあの時点で失敗に終わっていたに違いないのだ。
仲間を取り戻せた。信頼を取り戻せた。結果的にではあるが地震でも助かり、同じく結果的に物理部の協力も受けることができた。悠香の力以上に、ここまでの道程には奇蹟のチカラが活きている。
──頑張り続けて、よかった。走り続けて、よかった。諦めないで、本当によかった。
野球グラウンドに建つ高い照明鉄塔から延びた影が、隣接する陸上グラウンドのずっとずっと先まで続いている。ぴょんとそれを飛び越えながら、悠香は強くそう思った。
まだロボコンという舞台に立ったわけでもないのに、この達成感の充足は、どこから来るのだろう。
「玉川さん」
その時、悠香を呼び止める声があった。
悠香はくるっと踵を返すと、こちらへ向かって歩いてくる姿を認めた。
こんなタイミングで毎度現れる人物は、一人しかいない。北上である。
「校舎のところで、玉川さんの姿を見かけてね」
「……よく見つかりましたね」
悠香は恐々と笑った。教室棟の入り口からここまで、直線距離にして二百メートル近くはあるはずだが。この先輩、千里眼か何かでも備えているのだろうか。
「会うのは久しぶりね」
いつも通りお洒落な出で立ちの北上は、花のように優しく笑う。「どう、ロボットは。調子いい?」
「物理部の人たちのお陰で、解決しなかった問題がなんとかなりました」
さっきの微妙な表情は取り消して、悠香も負けじと笑った。今は笑顔では誰にも引けを取りたくないのだ。
「それは良かったわ。あの子たちもきっと、支え甲斐があったって思っていると思うよ」
北上の笑みがさらに眩しくなる。悠香も意地を張ってもっと笑う。気持ちが悪いくらい笑顔の輝く空間が、校庭の真ん中にぽっかりと形成された。
ふと、悠香は口元を釣り上げる。
「北上さん、そこにベンチがありますし、座りませんか?」
北上はややびっくりしたような顔になった。
そして、嬉しそうに返してきた。「玉川さんも、順調に相手の気持ちを読めるようになってきているみたいね」
「えへへ、これでもリーダーなので」
今のは経験則だけど、とぶっちゃけるのは心の中だけである。
鮮やかさの増した茜色の夕映えの空を、隊列を組んだカラスが航っていくのが見える。その向こうに、美しいまでに橙に染められた大小の雲が、所在なさげにぷかぷかと浮いている。
煌々と燃える太陽に温められた西向きの木製ベンチは、まるで人の温もりを抱いているように芯から温かかった。
座ったはいいものの、悠香も北上も暫くの間、何も言葉を発しなかった。声を出してしまったら、前に広がるあの美しい風景が、敢えなく折り畳まれてしまうように思えて。
「──立派に、なったね」
囁くように、北上が言った。
「前に会って、こうして話をした時の玉川さんは、何もかもに自信を無くして、近付いてきてくれるモノにも怯えてた。でも、今の玉川さんは違う。あの太陽みたいに、芯から燃えてる」
「最近よく、変わったって言われます。私にはよく、分からないんですけど」
頭を掻くと、悠香は北上を見た。いや、むしろ北上の目に覗き込まれているみたいだ。
「大丈夫だよ。玉川さんはもっと自信を持っていい」
北上は強い口調で、そう言ってくれた。
悠香は顔を赤くする。過去あれだけズバズバと悠香の欠点を指摘し追及してくれた北上の言葉だからこそ、それは説得力に優れていたし嬉しかったのだ。照れ臭くなってまた前を向きながら、悠香は一言一言を送り出すように言った。
「私、最近よく、自分は本当に幸運だなぁって思うんです。いい仲間といい環境に、私は恵まれました。でもその事に気づいたのは、こうしてロボットに取り組んで、全てを失って挫折しかかってからです。その時に折れたままだったとしたら、きっと何にも気づけなかったと思います」
だから、と繋ぐ。腰を上げて北上の斜め前に立つと、悠香は大きくお辞儀をした。背中がちりちりと温かかった。
「北上さん、あの時の私を支えてくれて、励ましてくれて、ありがとうございました。それとあの時、あんな弱気な事を言って、ごめんなさい」
悠香なりの精一杯の気持ちを伝えたつもりだった。感謝の気持ちに寸分の嘘も混じっていない事を、今ここで神にも誓えると思った。
顔を上げた悠香は、北上の反応を窺った。ちょっとだけ、何かを期待しながら。
「………………」
目を上げてもまだ北上は、自分がたった今言われた事の意味が分かっていないかのように、目をしばたかせていた。
そして次の瞬間、悠香は初めて目にしたのだ。
北上が話し相手から目を逃がし、幽かに首を振るのを。
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