060 逆転の会議






 そして、悠香たちの賑やかな空気と真逆の雰囲気に纏わりつかれていた空間が、この学校にはもうひとつあった。

 放課後の教員会議室である。


「……それでは、本日の定例教師会議を始めたいと思います」

 ふーっと長い息を吐き出しながら、校長がそう宣言した。

「今日は紙面上、議題がほとんどありません。ですから、早めに二週間前の議論にけりを付けてしまいましょうぞ」

 『二週間前』の語を聞いた教師たちの顔に、一斉に影が射した。また、あの面倒な議論が始まるのか。そんな叫びが無言のうちに飛び交っているようでさえある。

 浅野は浅野で、深呼吸をして心を落ち着かせていた。

──分かってるわね、私。山手女子の自由の規制云々は今日はどうでもいい。あの子たちへの処分軽減さえ成れば、後は何とでもなるんだから。

 四面楚歌であるのは重々承知だ。呼吸をするたびに固まる身体を、浅野はぐるぐる腕を振ってほぐす。嫌々な感じが明瞭な校長の声が、聞こえてきた。

「それでは、問題の中学三年α組の生徒五名について、処置に意見のある先生はお手をお挙げください」

「では、私たちから」

 いきなり信濃と千曲が手を挙げた。

「昨日、例の生徒たちを教室で見かけました」

 ……びく、と浅野は肩を動かした。

「何ですかね、あれは! 積み上げた椅子を崩したり、春休みにワックス塗装されたばかりの教室の床で機械を走り回らせたり……! あんな乱暴な行為を物理実験室でも行っていたのなら、事故も起こして当然だと思いますよ!」

「私も信濃先生からお話を聞いて、正直言って言葉を失いました。物理実験室で事故を起こしたという認識があるならば、少なくとも教室なんかでそんな活動はしないのではないですか? 体育館と言いテニスコートと言い、広大な敷地があって危険の少ない場所なんて幾らでもあるでしょう。やはり本人たちの危機意識というモノは、著しく欠如していると言わざるを得ませんよね」

「ですから我々は──」

「私が許可しました」


 手も挙げないまま大声で割り込んだ浅野を、信濃や千曲も含めた誰もが吃驚の表情で見つめた。

「日曜日は体育館もテニスコートも他所の運動部が使用していましたので、妥当と判断しました。責任は私にあります」

 凜とした声が、どこよりも自分の外耳でびりびりと響いている。きっぱりと言い切った浅野に、信濃がかぶりを振りながら詰問を浴びせる。

「お言葉ですが、それで教室の使用を許可するという事情が信じられません。 それならば譲ってもらうなり、日曜日には活動をしないなり、それなりの手だてが取れたでしょう? わざわざ危険の塊のような教室で行うなど……」

「体育館では危険はないとおっしゃるんですか?」

 う、と信濃は引っ掛かったような声を搾り出した。それはそうだ、安全性の担保が完全にできるところなんて滅多にない。

 浅野は構わず続けた。「教室の備品を乱暴に使用しているという点については私から注意を促しますが、教室の床を傷付けているというのは五人に限った話ではないと思います。彼女たちは事故以前に、あの教室での活動中に小火を起こす騒ぎも起こしていました。同じ教室を使用していますから、反省を活かして最低限の配慮はしているはずです。消火の手順も把握しているでしょう」

 それこそが、自分が彼女たちを信じられる要因でもある。そう確認しながら、しゃべり続ける。

 が、千曲が口を挟んだ。

「それは希望的観測でしかないじゃないですか。しかもそもそもいま伺った限りでは、小火を起こした後に事故を起こしたんですよね? 私、初耳なんですけど」

 あっ、と不覚にも浅野は声を上げかけた。しまった、向こうに有利な情報を与えてしまった。悠香たちに有利になるように持ち出した話だったのに。

「そんな生徒を信頼せよという方が無理な話です。浅野先生、自分の生徒を守りたいというお気持ちは分かりますが、それは誰より生徒たちのためになりませんよ」

「そうです! そういうところはきちんとしていかないと、大人になった時に苦労するのはあの生徒たちなんですよ!」

 再び図に乗った二人の論調が、鼻息の荒さを増す。他の教師たちは静観の構えを取ってはいるが、特に大河津などは悟ったような顔をして微笑すら湛えていた。


──やっぱり、言われ放題か……。

 悔しさをおくびにも出さぬよう、浅野は見えない所で服をぎゅうっと握りしめた。

 浅野だってそう思っている。だが、今はただ、悠香たちの活動を守ってやりたいのだ。後の生涯のことなんて誰にも分からないが、今目の前の楽しみや喜びだけは奪ってやりたくなかったから、こうして真っ向から反論しているのだ。

──生徒を信頼するのが前提の話だもん。あの先生方に対しては、説得力が無さすぎるわよね……。

 やっぱり、駄目なのか。まだ言える事はないのか。記憶や知識を必死に回転させながら、浅野は信濃を睨んだ。いや、信濃本人を睨んだのではない。その背後にある何かを射抜きたいのだった。


 その時、さっと手を挙げた教師がいた。

「どうされました、山国先生」

 浅野は校長の声がかけられた先を見た。今日の六限に授業を持っていた、数学課の山国だ。

「いやぁ、恥ずかしながら僕、その『例の生徒』たちが誰なのかを今日初めて知りましてね」

 山国は照れながら後頭部を掻く。その表情は、優しかった。

「浅野先生が顧問をなされている部活であるとは伺っていましたが、僕が授業を受け持っているクラスにその五人がいるとは知らなかったんです。灯台もと暗しとは、まさにこの事ですな」

「…………」

 お前は何を言いたいんだ、とでも言わんばかりの冷たい空気が、会議室に立ち込めている。山国はそれを察していたのだろう。ごほん、と咳払いをした。

「中学三年のフロアでは、その五人の話題が溢れ返っておりましたよ。ロボットを開発して、ロボコンに挑むんだそうですな。それも物理部ではなく、独自の活動として。なかなか頑張っているようではないですか」

 山国は浅野に笑いかけ、浅野は見開いた目をぱちくりさせる。

「実のところ、僕は二週間前までの議論は対岸の火事のような感覚で聞いていたんですが、その話を聞いて、ようやく面子を確認した本人たちの顔も見て、意見が変わりました。なぁ、信濃さん」

 信濃は真顔で返事をした。「何でしょう?」

 その時、浅野は見た。山国の優しい表情から、いつの間にか優しい目だけが抜け落ちているのを。


「あんたはさっきから──いいや、それ以前からずっと、生徒の顔を何一つとして見ていませんな。事故を起こしたという見かけの事実と、生徒たちの中に堕落している者が多いという傾向だけで、生徒の中身の全てを理解しようとしておられる。そりゃあ、無理が生じるというものだ。それこそロボットは評価できるかもしれんが、残念ながら生徒たちはあんたたちの思うほどにはロボット的ではありませんからね。ことにこの学校の生徒は、退学処分などと追放紛いのことをしてしまったら、何をしでかすかも分かりませんがねぇ」


 そこまでをほとんど息継ぎもなしに言ってのけると、山国は満足げに椅子に座った。口元がちょっと、吊り上っていた。

 その隣あたりから、さらに別の声が挙がった。同じく数学課で、別の授業を受け持っている先生だ。

「実は、私も……。実際の生徒はお話にあるような適当な感じはしなくて、それどころか至極真面目な感じさえ受けました。この子たちなら大丈夫なのかな、なんて思ったりして……。あくまで、私の個人的な感覚なんですけどね」

「私も同感ね。相手は人間だし、ここは企業のプレゼンの場ではないわ。やっぱり『人』を見なければ、生徒のことなんて何も分からないと思うのよね」

「むしろ教室で良かったのではないかね。老朽化している理科棟には火災報知器しか取り付けられていないが、教室にはスプリンクラーが配備されとる。同じように火の手の上がるような事故が起きたとしても、生徒の人命や校舎の安全に関わる事態に発展する前に、スプリンクラーが作動して消し止めてくれるだろう。物理課の先生方を愚弄する意図はさらさらないが、我々からすれば物理実験室よりもよほど安心じゃないか」


 なんということだろう。山国をきっかけに、何人もの教師が口々に五人と浅野を擁護してくれるような発言を始めたのだ。

 浅野は面々を見渡した。ああ、この教師たちは皆、今日一日の間に中学三年に授業を行った人々だ。

「しかし、そんな事をいちいち考案していたら、処分など何も決められないではないですか……!」

 すっかり弱った様子の信濃が訴えるが、形勢が逆転したのは明らかだった。校長が、ふむ、と髭を弄りながら尋ねる。

「ですから、決められないんですよ、信濃先生」

「時間を浪費する事を肯定されるんですか?」

「千曲先生も落ち着きなさい。生徒の為に時間を浪費するのが教師という職業だと、私は思っておる」

「…………」

「今の議論を聞いていて、私も今更ながら疑問に思う点があるのだがね。信濃先生と千曲先生、あなた方は入学希望者が集まらない理由をどうあっても生徒の自由のせいにしようとするが、本当にそうなのでしょうかな? そこまで確信に至る根拠は、いったい何ですか」


 校長が尋ねたのを合図にか、会議室がしんと静まり返った。

 説明を求められている側が逆転した。信濃と千曲の顔が、困ったように歪んだ。


「……私自身、就職に苦労した経験があるんです」

 千曲が先に口を開いた。苦しそうな表情に添えられた瞳には、どんな風景が映っていたのだろう。

「信濃先生もそうだとおっしゃっていたんです。東京の私立大学を出てから就職するまでに、三年かかりました。その間、『もっと学歴があれば』と何度後悔したか知れません。面と向かって面接官に言われた事もあります。それどころかこの学校に勤める前、アルバイトをしていた中学受験の学習塾で、ここのような『名門校』を蔑む声を多く聞きました。大学受験こそ大事だ、放任主義は教師のやる気がないのと同義である、と」


 途切れた言葉の合間に、行き場のないため息があちこちから漏れ聞こえてきた。山手女子の評判が塾ですこぶる悪いことは有名だったが、今や『名門校』が纏めてそうした扱いを受けているわけか。

「よくある辛口雑誌の編集者と違って、塾は教育者である点に於いては当事者でもあります。ですから、当てずっぽうで『名門校』を扱き下ろすような愚かな真似はしないはずです」

「就職難が叫ばれて久しい昨今、生徒たちに同じ苦しみは味わわせたくない。だからこそ、この学校はもっと生徒をぐいぐいと導けるような構造システムに変わっていく必要があると思うんです。事実、そのような方針転換を行った学校がいくつも出てきています。そのためには自由を犠牲にしなければなりませんが、大学受験や就職の事を考えれば、そんな悠長な事は言っていられないはずだと思いました。ですからまずは、生徒に『学校とは何をする場所であるか』を考え直させるようにと……」


 僅かな時間で憔悴してしまったように、二人の顔には苦労の跡が滲んでいた。

 ただ単に自由の破棄を望んでいたのではない。自分の主張を遠そうとするのにはそれなりの理由があるのだろう。無論、二人だけではなく、ここに集った全ての教師にあるはずだ。

「……それもまた、一つの要因なのかもしれませんな。しかし物事は複次的に起こるのが常。もっと多様な視点を用意して、基本の議論に立ち返ることが必要でしょう」

 丁寧な口調を維持する校長は、もうはっきりと自分の意思を決めていたようだった。何かを言いかけた信濃に、右手を掲げる。

「焦るのは禁物です。変化に一番戸惑うのは我々教師ではなく、生徒なのだから。最善の方針を練るためには今年一年、色々と試したり考えたりして我が校の有り様を決めていくしかない。無論そこには、生徒に制限を課すという事もあるだろう。しかし今は五人の話が先です」

 そこで言葉を切ると、校長は浅野を見、次に高梁を見た。相変わらず高梁は眉毛をぴくりともさせず、腕組みをして座っていた。

──そう言えば高梁の『持論』とやら、まだ聞いていないなぁ。

 そう思った時、校長が審判を下した。


「処分は保留のままとして、取り敢えず五人を見守ってみるというのは如何ですかな。──つまり、我が山手女子の行く末を、あの五人に預けてみたいのです。そこで出た結論も参考に、今後のこの学校の方針を探ることにすればよろしい。反論は、ありますかな?」




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