025 真面目先生の告白
「──浅野先生」
理科系の教室の入居する理科棟と、通常の教室棟との間に渡された連絡通路。低い声に呼び止められ、紙の束を抱えた浅野は振り返った。高梁が背後に立っていた。
嫌な人に会っちゃったな、と浅野は思った。生徒たちほどではないにせよ、『生真面目』の四字熟語を3Dプリンターで印刷したようなこの男が、浅野も好きではなかったのである。まして今日は仕事が忙しい。正直、勘弁してほしい。
とは言え、無視するわけにもいかないので軽く会釈すると、向こうも小さく頭を下げた。
「どうなさったんですか、高梁さん?」
「ちょっと用件がありまして」
横を向いて舌打ちでもしたくなった。そんなの分かってるわよ、用事がなかったら話しかけてくるわけないじゃないの──という本音は、脇に置いておいて。精一杯、普通の顔をする。
「何でしょう?」
「うちの部員から、苦情がありましてね。ロボット部の五人の部屋の使い方が、どうにも悪いと。使った部品の片付け方が違ったり、電気が点いたままだったり」
悠香たちの事か。浅野はやや姿勢を調え、真面目に聞く態度を取った。
「それは、申し訳ありません。ですが──」
「それでですね、出来れば浅野先生の方から、何か言っておいて欲しいんです。先生は顧問をなさっているそうですし、来年もあの学年を持つのだと聞いたもので」
「……それは高梁さんがご自身で言いに行けばいいじゃありませんか」
浅野は呆れた声を上げた。「物理実験室でしょう? 物理課の管轄なのですし、注意なんて顔をちょっと出せばいいだけではないですか」
「そうは仰いますがね……」
こういう時、決まって高梁は言葉をぼかして明言を避けようとする癖がある。
「確かに私は顧問ですけど、春休みに入ってしまいましたし出勤日数も減ってしまうので、手一杯なのは私も同じなんですよ。高梁さんもお分かりでしょう?」
イライラと怒りを込めた目で睨むと、高梁の堅い顔は塩でもかけたように萎縮した。いや、しかし無表情に近いことに変わりはない。
「申し訳ないとは思っているんですが、私の方も最近はなかなか時間が取れない都合もあるんです。春休み中は物理部も別の場所を使いますし、私も学会発表等の準備がある。それに、あの五人の登校スケジュールは把握していませんから……」
忙しいを言い訳にする気か、この野郎。罵言は心の中だけに留めておいて、浅野はあくまでも大人の対応を心掛ける。
「最近になって先生に大きな変化があったというようなお話は、特に聞いていない気がするのですけれど」
すると高梁は、はは、と口だけで苦笑した。
「厳密には、私ではないんですがね……」
訝しげに眉根を寄せた浅野をよそに、高梁は斜め上へと視線を移した。話をぼかす気では、なさそうだ。
「うちの物理課に二年前に新しく入ってきた、助手の先生がいるでしょう」
知っている。
「確か、常願寺先生とおっしゃいましたよね」
「ええ」
……そこで初めて、浅野は気がついた。高梁は目を逸らしたのではなく、物理課の研究室を見上げていたのだ。
「昨年度から授業も持たせていたんですが、実は常願寺くんが今度開催される例のロボットコンテストに、審査員として出向くことになりましてね」
⁉
「……驚かれるだろうとは思っていました」
驚愕の感情も顕な浅野の顔を見て、高梁は真顔で続ける。
「常願寺くんは東都大学ではロボット工学を専攻していまして、そこの教授が今度の例のロボコンの監修をしているそうなんです。それで彼は今、準備の真っ最中でして。忙しくなって受け持てなくなった授業を私が引き受けたので、採点等の分量も倍になってあまり時間が取れないのです」
「…………」
「申し訳ない」
それでは、と小さく頭を下げると、高梁は立ち尽くす浅野の横を通って行ってしまった。
浅野はまだ、そこに立ち尽くしたままであった。たった今ここで告げられたことの意味を、掴み切れないまま。
つかつかと高い靴音を響かせ、高梁が歩いてくる。
「わっ、こっちくるよっ!」
「隠れろ! 早く!」
「偵察を思い出すなぁ」
「しみじみしないでレイっ!」
小声で大騒ぎしながら、悠香たち四人はトイレの中へと逃げ込んだ。ドタバタ音を響かせたつもりはなかったが、高梁は何か感じたらしい。辺りをキョロキョロ見回している。
「……あっぶねー。さっきの立ち聞きしてたなんてバレたら、また面倒なことになるトコロだった」
陽子が安堵のため息をつく。
鍵を返し終えて下の階へと下りてきた四人は、浅野と高梁が廊下で立ち話をしているシーンに見事に
「いま、うちの愛好会の顧問って誰になってるの?」
「浅野さん。取りあえずあたしたちの意志が伝わってる人って思って」
「じゃあ、常願寺先生に代えてもらおうよ」
「……それは、会ってみないと何とも言い難いんじゃない?」
陽子の声は苦い。
「出来る人がみんないい人とは、限らないんだから。特に研究一筋とかいう奴だとね……」
「そんなに心配なら、今戻って会ってみればいいじゃない」
時計を見ながら、悠香が提案した。
「今だったらまだ、いるかもしれないよ?」
「それもそうだね。研究室が閉まる時間はまだ先だし」
物理課嫌いだけど、と付け加えた亜衣。くすっと笑いながら、陽子と麗も頷いた。
やれることは先にやっておきたい。彼女たちに残された時間はあまりないのだ。
というわけで。
「失礼しまーす……」
早くも平身低頭モードの悠香が、再び物理課の扉を開けた。錆び付いた音が廊下にこだまし、鍵の返却時にはなかった緊張がさらに三割増す。
見るからに人の少ない研究室の景色が広がった。さては、遅かったか?
「……あのー、常願寺先生いらっしゃいますか……?」
人が少ないと分かっていてもへっぴり腰になってしまう。でも怖いんだよね、と内心呟いた途端。
「僕を呼んだかい?」
若い男の人が出てきた。
まだ真新しそうな白衣に、高梁ほどではないにせよ高い身長。件の
キタ! ──目配せしあった四人は、すぐさまずらっと並んだ。
「あ、あの」
言いかけた悠香を押し退ける亜衣。悠香にこういう説明を任せるのは得策ではないと、もうさすがに悟っている。
「突然押しかけてすみません。私たち、中学二年α組の者なんですが……」
「ああ、もしかして」
手を振って亜衣を遮ると、常願寺は笑って言った。
「物理部に迷惑かけてる団体っていうのは、君たちかい?」
……四人の間に滞留する空気が、見事に凍りついた。
「話は高梁さんから聞いてたよ。ロボット製作をしてるそうだね」
手招きしながら、常願寺はソファーに腰かけた。
「それで、今日はどうしたの?」
その瞬間まで高梁を呪い殺すことばかり考えていた悠香たちは、いきなりストレートな問いをぶつけられて答えに詰まってしまった。亜衣が何とか、口を開く。
「ええっと……そ、それでですね、ご存知の通り私たち、ロボコンへの出場のためにロボットを開発しているんですけど、先生は大学でロボット工学を学ばれていたと聞いたものですから、ぜひご指導頂けないかなーと……」
「僕がかい?」
常願寺は一瞬ポカンとした顔で目をしばたかせたが……、少しして頭を下げた。
「ごめん、僕にはそれは出来ないんだ」
四人に衝撃が走る。
「大会運営側にいる人間が助言をするわけにはいかないんだよ」
「あっ……」
「僕は内部の人間だから、内部情報を流出させたと見なされる恐れがあるんだ。内部情報保持のために明文化されて決まっていることだし、そうでなかったとしてもいけないのは分かるだろ? だから僕には、その役目は出来ない」
──そうか、すっかり忘れてた! 常願寺さんは審査員も任されてるんだった……!
迂闊だったと歯軋りする亜衣。その背中から、「どうしても、どうしてもダメですか……?」と訊ねる悠香の声がした。が、常願寺の表情は引き締まるばかりだ。
「しょうがないんだ、諦めてほしい。ほら、もうすぐ高梁さん帰ってくるから」
立ち上がった常願寺に急かされ、すっかりどんよりモードの四人も立ち上がる。 やっぱり物理課なんてこんなものなのかな……なんて、考えながら。
「……まあ、しょうがないよ。常願寺も結局、高梁みたいな教師だったってだけの事なんだからさ」
廊下をとぼとぼ歩きながら、陽子は早速常願寺を呼び捨てにした。
「よく分かんないけど、物理ってどうしても理論重視計算重視じゃん? だから几帳面にならざるを得ないんだよ、きっと」
その横で、悠香が下を向きながら息を漏らす。
「でもちょっと、期待してたんだけどなぁ」
悠香のため息は、今の四人の気持ちの全てを代弁していた。確かに悪いことなのだろう。それは分かったが、ちょっとくらい……なんて考えてしまうのだ。
「……とにかく、やるしかないね」
窓の外を見上げながら言ったのは、亜衣だ。
「教師に無理に頼る必要ないよ、うちには麗がいるんだから。何か問題が起こるまではこのまま頑張ろう。ちゃんと設計図もあるんだし、さ」
「……うん」
燦々と降り注ぐ夕方の春の光は、暖かかった。
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