020 悪夢の最中





 試験前日。学校に着いた陽子が教室へ入ると、机の上でぐったりとしている悠香と、菜摘がいた。

──なんて言うか、予想通り過ぎるでしょ……。

 呆れながら陽子は二人のすぐ横に立って、ガタガタと机を揺らしてみる。慣性の法則に従って、悠香の身体がぐらぐらと揺れる。抵抗できないぐらいには疲れているようだ。

「……ハルカもナツミも、大丈夫?」

 問いかけると、これまた予想通りの応えが返ってきた。

「……ここんとこ、毎日、徹夜続きぃ……」

「だから言ったのに」

 言ってから、今回は何も忠告してなかったなと気づいた陽子。まぁいい、些細なことだ。

「先生も早めに勉強始めとけってあれほど言ってたじゃん。ロボットやってても試験でポカしないくらい普段からやっとけばよかったんだよ」

「だってそれも出来ないくらいあっちに夢中だったんだもん!」

 突然元気な声を上げる悠香。なんだ、生きているではないか。

「気持ちは分からないでもないけどさ……。あたしだって一応両方ともちゃんとこなしてたんだから。多分、アイもレイもだよ」

「正直に白状します。試験の存在そのものを完璧に忘れてました!」

「おい!」

 ロボコンは来年度なのに、肝心の代表リーダーが落第でもしたら参加できなくなってしまうではないか! 

 叫び声と同時か、授業開始のチャイムが四階建ての鉄筋ビルに響き渡った。あ、と悠香が物悲しそうな声を上げる。

「おーい鐘鳴ったぞ、席につけー」

 いつの間に来ていたのか、資料を机上に置いた先生が声を張っている。幾何の授業を担当する、数学課の山国やまぐに俊成としなり先生だ。

 先生来るの早いよ! なんて愚痴りながら生徒たちがばたばたと着席する。陽子もその一人である。

 全員が席に座ったのを確認した山国は、口を開いた。

「まさか忘れてないと思うけど、こないだ言った通り今日は久々に検定教科書を使うからなー」

 ……途端、みんなは慌て出した。学習指導要領など完全無視の山手女子の授業では、検定教科書なんて滅多に使わないから誰も持ってきていないのだ。人によっては捨てていたりする。

「聞いてないよーっ!」

「黒板の端にでも書いておいてくれたらよかったのに!」

 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら教科書を探し出す生徒たち。本当に言ったかどうか不安になったのか、ぱらぱらと手帳をめくって確認した山国。ほっと胸を撫で下ろしている。やっぱり言っていたらしい。

 机の中からサッと取り出してみせた陽子とは裏腹に、悠香は必死になって机の奥を漁った。かと思うと。

「──違う! 私、ロッカーに入れてたんだった!」

 叫ぶが早いか、勢いよく席を立ちかけた。


 立ちかけ、足を引っ掛け、派手に躓いた。

 バッターン!

 重厚な衝突音が教室の壁でガンガン共鳴した。

「ハルカ大丈夫⁉」

 近くにいた何人かがすぐに駆け寄ってきた。てへへ、と悠香は苦笑いしている。

「……だ、大丈夫。いつものことだから」

 今のも新手の自虐ネタだろうか。教科書を前に悠然と構えながら、陽子はそんな事を考えた。

──いつもいつもそんなに転んでたら、今頃全身包帯まみれじゃん、全く。

 ちょっと、心拍数が上がっていた。


 躓いた拍子に崩れ落ちたノートとファイルの山の中に、戦略メモやセンサーについて調べたデータがちょこっとだけ顔を覗かせていたが、悠香に気を取られていた陽子がそれに気付く事は、なかった。




◆ ◆ ◆




 ここ山手女子の学年末試験は、火曜日から土曜日にかけての五日間に分け行われる。一日の科目数はせいぜい二、三程度だが、教科数そのものは十三とけっこう多い。これが高校二年のピーク時にもなれば、のべ十七教科などという暴力的な数のテストに襲われる。

 今回の試験においては、代数と物理、世界史が難関の目玉教科とされていた。代数は高校での履修内容が大量に範囲に含まれていること、世界史は抽象画や図ばかりの板書が分かりがたすぎること、そして物理は例によって教師の人気の問題だった。授業の進行があまりに下手なので、聞いているこちらも途中で聞く気が失せてしまう。そのくせ内容が異様に高度かつ専門的で、後で教科書を開いても大した参考にもならない。だから試験での苦戦が予想されていたのだ。

 無論、普通の生徒には、である。




 三月七日。


「よっしゃ! 今日の物理と幾何が終われば試験終わりだー!」

 伸びをしながら菜摘が歓喜の声を上げた。

 物理、の響きにあからさまにビクッとしたのが何人かいたが、菜摘たちには物理など敵ではない。何せ、ロボコン関連でさんざん勉強したのだから。

「珍しいね、ハルカが喜ばないなんて」

 亜衣は広げたまとめノートに突っ伏している悠香に声をかける。「もっと喜びなよ。あとたったの二教科なんだし、そのうちの一つは満点だって狙えるかもしれないんだよ?」

 すると悠香は、消え入りそうな情けない声を搾り出した。

「今日、幾何があるじゃん……? 幾何が死ぬほど苦手な私には、今日が最大の山場なんだ……」

「…………」

 なるほど、納得である。自分で言ったからかさらに沈没してゆく悠香に、亜衣は汗をかきながら励ましの言葉をかける。

「だ、大丈夫でしょ……。だって今回の範囲でハードなのって、図形の相似合同条件くらいじゃん。山国の授業さえちゃんと聞いてれば──」

「無理だよぉ……。そもそも私、モノを空間的に捉えるって事が全然出来ないんだもん……。おかげで美術のデッサンの成績だってめちゃくちゃ悪いし……。これまでの幾何の私の平均点、たったの二十九点だったんだよ……?」

 周りの点数をも下げそうな雰囲気である。

 遂にマイナス発言に業を煮やした陽子が、亜衣と悠香の間に割り込んできた。「……ハルカ、三角形の物を思い浮かべろって言われたら?」

 ふぇ、と悠香は骨の抜けたような声を返す。なぜそんな事を聞くのだろうか、とでも言いたげだ。

「うーん……家の屋根とか?」

 なぜそこで家の屋根を思い浮かべる、と突っ込むべきか否か一瞬迷った陽子と亜衣だったが、何とか踏みとどまった。

「まあ……うん、それは何だっていいや。とにかく、こういうの考えるときは何かと関連付けて考えれば想像しやすいの。苦手ならそうやって覚えるんだよ」

 悠香が顔を上げた。興味が出てきたらしい。陽子は構わず説明を続行する。

「例えば、三学期の最初の方で習った中点連結定理ってのがあるでしょ。あれだって漫然と覚えるよりも、ビジュアル的に覚えた方が効率いい。ある家は北側の屋根が八メートル、南側の屋根が四メートルあるとして、北側が上から二メートル、南側が一メートル分だけ別の色で塗り分けられてるとすると、比が一緒だからそれぞれの境目を結ぶ線は地面と平行になる。図に起こせば、当たり前でしょ? そうやって工夫して覚えれば、そんなに大変じゃないんだよ」

 すると悠香は、パッと目を輝かせた。席から立ち上がり、陽子の肩をグラグラと揺さぶってくる。

「すごい! 確かにそれなら私でも覚えられるよ! ヨーコすごい!」

「いやハルカ、今の喩え、山国が二週間前の授業で言ってた……」

 陽子の付け加えた言葉は微塵も耳に届いていないらしい。大した説明をしたつもりはなかったが、悠香はそれだけでもう迷いを振り切ったみたいだった。

「そっか、私の好きな物に例えればいいんだ!」

 席に戻ると悠香は教科書をカバンから引きずり出し、凄いスピードでめくっていく。その目は今や獲物を見つけた猛禽のように、爛々と輝きを放っていた。じゃあこの定理はアレに例えれば、だとかぶつぶつ呟いている。

 早い話、悠香はコツさえ掴んでしまえば強いのだ。

──授業、普段からちゃんと聞けよ……。

 何と声をかけたらいいか分からずに、複雑な心境を持て余す陽子と亜衣であった。




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