第四話 看病と抜き打ちテストのパラドックス

 ――などと言っていたら本当に熱が出てしまった。

 おかしいな、知恵熱は乳児特有の症状だったはずでは……


 子供のころはインフルエンザでもピンピンしていたものだ。

 たとえただの風邪かぜだろうと、熱があるうちはちやほやされる。身の回りのことは全部やってくれるし、無茶なわがままだってなんでも通るのだ。朝起きてまっさきに体温計を手にとり、平熱に戻っていることを確認するとがっかりしたのを覚えている。


 大人になった今ではこの有様。頭痛と三八度の熱、これだけでもうノックアウトだ。

 おまけにひとり暮らしという事実が、このつらさに拍車をかけている。僕がなにもしなければ、本当になにも起こらない。食事はおろか、水の一滴すら飲めやしないのだ。


 まあ、病院に行くほどのことでもないだろう。頭痛薬がどこかにあったはず……あれ、どこにしまったっけ。

 よっこらせ、と重い体をどうにか起こすとめまいがした。

 頭は回らないが目は回る。薬が回れば少しは楽になるだろうか。

 棚から薬を見つけ、コップに水をくむという重労働をこなした僕は、それを胃に流し込むとふたたび横になった。


 脳裏に例の少女の姿が浮かぶ。

 そういえば、極度のストレスによっても発熱することがあると聞いたことがある。今の僕がその症例にあてはまるとしたら、原因はまちがいなくあの少女だ。いや、彼女に悪気はないだろうから、神様というシステムのせいと言った方がいいだろう。


 とてもじゃないが今日は外に出られそうもない。

 つまり、少女にも会わなくてすむ。

 久々に心が休まりそうだ、そう思い目を閉じようとしたまさにその時だった。うつろな視界の隅っこに、太陽光でも蛍光灯でもない種類の、白い光が見えた。


 どうやら安息の地は、もうこの世界にはないらしい――



「……公園以外にも出てこれたのかよ」


 僕はまったく体を動かさずに言った。

 直接見なくたって、その光の正体はわかっていた。


「びっくりさせちゃったならごめんね。大丈夫?」


 だれもいるはずのない場所から、聞き覚えのある声が返ってきた。

 公園でしか会えないものと無意識のうちに思い込んでいたが、たしかにそういう話は一言も聞かされていない。

 しかし、まさか家の中に来るとは思わなかった……


「大丈夫じゃないから、今日は帰ってくれ」

「大丈夫じゃないなら、今日は帰れないな。あなたを看病しに来たんだよ?」


 まさかの申し出に思わず顔を向けると、天使の笑顔と目が合った。

 まだ幼さの残る少女と男の一人暮らしの部屋が、なんともミスマッチだ。


「ほんとかよ、それ、職務放棄じゃないのか」

「大丈夫、これも交渉のうちってことにしとくから。まあ、十分しかいられないんだけどね」


 ああ、目の前の少女が神様に見える……あ、本当の神様か。

 ともかく、こんなに頼もしい看病人は他にいない。彼女は神様、この世界ではなんでもできる存在だ。無茶なわがままだってなんでも通ってしまうだろう。


 いますぐ僕の熱を下げたり頭痛をなくしたりはできないのだろうか。最初に思いついたのはそれだったが、やめた。あっさり僕が元気になったら、残りの九分そこらでまた例の交渉をするはめになるかもしれない。余計なことを言わなければ、ひとまず今日はゆっくりと心を落ち着けて休むことができるんだ。

 ……あれ、おかしいな。それなら少女がいない方が都合いいんじゃないか?


「やってほしいこと、なにかない?」

「う、うーん……」


 なぜか少女は目を輝かせている。そういえば、子供のころはやたら世話好きな女の子がクラスに一人はいたっけな。それに、せっかく来てくれて看病する気満々なのに、なにも頼まないというのも気が引ける。


「じゃあ、おかゆでも作ってくれないか。今日なにも食べてないんだ」

「わかった!」


 例によって少女の手が輝く。彼女が無からなにかを創り出すのにも、もうすっかり慣れてしまったな。

 差し出された茶碗からは、ほのかに湯気が立っていた。これは手料理と呼べるのだろうか、などと思いながら、僕は体を起こしてそれを受け取る。お湯をたっぷり含んだごはんに、梅干しがひとつ。オーソドックスなおかゆだった。


「……いただきます」


 これを十分かけてゆっくり食べれば、今日のところはやり過ごせるだろう。

 僕はれんげを取り、おかゆをすする。やさしさと、どこか懐かしさを感じさせる味がした。


「あ、おいしい」

「ほんと! やったあ!」


 無邪気に喜ぶ少女。自然と僕も嬉しくなってくる。

 なんだか、娘ができたみたいだな。

 こんな生活をしている僕に恋人などいるはずもなく、もちろん結婚や子供なんて考えたこともない。生まれてこの方味わったことのない、新鮮な気持ちだった。悪くない、かも。


 ……でも、食べている間ずっと食い入るように僕を見ているのは、ちょっと勘弁してほしい。

 ひとたび意識してしまうと、けっこう恥ずかしいものがある。照れ隠しに僕はれんげいっぱいにおかゆをすくい、口の中に押し込んだ。


「あれ、顔赤くない? 熱があるのかな」


 じっとこちらを見ていた少女がそう言って首をかしげた。

 それは熱のせいなのか、それとも彼女のせいなのか。ますます落ち着かなくなって反射的に顔をそらした僕を、少女は身を乗り出してのぞきこんできた。

 今まででいちばんの至近距離で、目と目が合う。僕は動揺して「のわっ」と間抜けな声を上げてしまい、その拍子にやわらかいごはんが気管に入った。


「ぐっ、ごほっ」

「わあ、大丈夫?」

「げほっ、げほっげほっ」

「うーん。せきも出てるし、熱もある。これは完璧に風邪だねえ」


 助けを求めるような視線を少女に送ったが、彼女は得意気な表情でこちらを見ているだけ。診察を終えたお医者さん気分なのだろうか。そんなことより水をくれ水を!



 ようやく一息ついた僕は、残りのおかゆをさらっと平らげて茶碗を脇に置いた。

 予定が狂ってしまったが、こうもじろじろと見られていては仕方がない。世話焼きな少女にもう少し付き合ってあげるとしよう。


「いいもの出してあげる、風邪にはこれが効くんだよ!」


 そう言った少女は、頼んでもいないのにまたなにかを創り出した。

 今度は湯呑ゆのみを持っている。のぞきこんでみると、なにやら濃い緑色のお茶のような液体が入っていた。どうやら飲めということらしい、が。


「うげえええええ」


 蒸れた雑草を凝縮したような、ものすごい臭気が僕を襲った。

 無理、これは無理! 今ここで吐かなかったのは奇跡だ。


「つ、ついに異世界の物質を持ち込んできたな! そんな得体のしれないもの飲めるか!」

「もー、たしかにニオイはひどいしすごく苦いけど、これは特製の漢方薬だよ。もちろんこの世界のものだから、あなたが飲んでも大丈夫。はい、どうぞ」


 なかば強引に押しつけられるようにして湯呑を受け取る。少女の眼差しにせかされるように、僕はそれをおそるおそる口に――ほんのすこし含んだ瞬間にやっぱり無理だと悟った。こんなもの全部飲んだら逆に体調が悪くなりそうだ。良薬は口に苦しとは言うが、これがいくら良薬だろうと、この殺人的なまずさとはつりあわない。


「ほら、がんばって」

「無理、ほんと無理」


 僕は情けない声を出しながら異臭を放つ湯呑を顔から遠ざけようとするが、見えない壁のようなものに阻まれて押し戻された。くそ、ずるいぞ。全能の力に勝てるわけないじゃないか。


「……そうだよ、全能の力だ。きみはなんでもできるんじゃないか、味もニオイも変えられるだろ」

「あっ、たしかにそうだね。思いつかなかった」


 人間、追い込まれると知恵が働くものだ。思いつかなかったじゃないよ、と僕はガックリとうなだれながら湯呑を少女に突き返す。周りに張り巡らされていた見えない壁はもうなくなっていた。


 少女がふたたび渡してきた湯呑からは、こんどは甘ったるいにおいが漂ってきた。

しぶしぶそれを受け取り、舌の先で少しなめてみる。深緑の液体から、こども用の歯みがき粉みたいなイチゴ味がした。

 これはこれで気持ち悪いが、さっきよりはだいぶましだ。僕は我慢してそれを飲み干した。


「わー、えらい! これで明日には元気になってるよ!」

「……明日も寝込んでたらこいつのせいだぞ」

「大丈夫だよ、よくわかんないけど秘伝のお薬だからね」

「ちょ、よくわかんないってなんだよオイ」


 言葉の端々がいちいち引っ掛かる。本当に大丈夫なんだろうな。

 でも、心なしかお腹がぽかぽかしてきた。体調もすこし余裕が出てきた気がする。今はこの少女の笑顔を信じるしかない、か。


 それからは少女に無理やり寝かしつけられるような格好で、僕は布団に横になった。風邪を治すには睡眠がいちばん、だそうだ。もっと早くその結論に至ってほしかった。

 けれどもすんなり寝ることはできそうにない。少女の熱い視線が僕に降り注いでいるのが、目を閉じていてもわかる。

 ……くそ、落ち着かない!

 この空気に耐えることは、僕にはできなかった。


「なあ、きみは、僕の答えをいつまで待ってくれるんだ?」

 なにか話すことといえば、結局は交渉の話くらいだ。


「うーん……明日かもしれないし、明後日かもしれない」

「そんなに急な話になるのか」

「かもしれない、ってだけだよ。もっともっと先かもしれない。もちろん最後の交渉のときは、今回が最後だよって伝えるから」

「なんだか、抜き打ちテストみたいだな……そういえば、そんな名前のパラドックスがあったっけ」


 時間つぶしにちょうどいい。僕は少女にその話をしてやることにした。



 抜き打ちテストのパラドックス――予測できないことを予測しようとすると起きるパラドックスだ。

 ある日、帰りのホームルームで先生が生徒たちに「来週一度だけテストをします」と言ったとする。先生は「いつ実施するかはだれにもわからないよう、抜き打ちで行います」と続けた。

 しかしテストでいい点数が取りたい生徒たちは、その日にちをなんとか予測しようとする。その結果、彼らは「抜き打ちテストを行うのは不可能だ」という結論に達してしまうのだ。


 生徒たちの言い分はこうだ。

 抜き打ちテストが金曜日に行われるとすると、木曜日が終わった時点で金曜日がテストであることがわかってしまう。これでは抜き打ちにならないから、金曜日にテストはない。

 では木曜日に行われるとする。しかし金曜日にテストがないことは予測がついているので、水曜日が終わった時点で木曜日がテストであることがわかってしまう。よって、木曜日にもテストはない。

 もっと前の曜日も同じようにして予測がついてしまうので、だれにも予測できない日程でテストを行うことは不可能である、と。


 しかしこの推論に反して、テストは水曜日に行われた。

 もちろんそれを予測できた生徒はだれもいない。不可能であったはずの抜き打ちテストが、正しく実施されてしまったのだ。



 そんなことを簡単に説明しながら、僕は早くも後悔していた。

 こんなもの、パラドックスでもなんでもないのだ。ちょっと考えれば人間でも解けるような言葉遊びを神様にしてどうする。


 生徒たちは木曜日の放課後に「今日はテストがなかったから、先生は明日テストをするしかない」から「明日テストがある」と予測できる。水曜日、火曜日と遡っても同じで、毎日「明日テストがある」という予測を立てることになる。

 これではまるで狼少年だ。そして生徒たちの毎日の予測をひとつにまとめると、「明日以降のどこかでテストがある」になる。なんのことはない、先生と同じことを、言い方を変えて言っていただけだったのだ。


 しかし予想に反して、少女は「あれ? ほんとだ、なんでだろう?」と不思議そうにし始めた。

 今までは簡単に解決されてしまっていたのに、なんでこんなくだらないものに引っ掛かってるんだ。僕も不思議そうに少女を眺める。やがて「思いついた」とばかりに少女は言った。


「わかったよ、そのパラドックスを打ち破る方法」

「お、ぜひ聞かせてくれ」


 少女は自信満々、どや顔でこう答えた。


「月曜日より前から、勉強しておけばいいんだよ。そうすれば、どの日がテストでも大丈夫じゃない」


 ……え?

 僕は一瞬固まって、それからはずっと笑っていた。少女はなにやら不服そうな顔をしてこちらを見てくる。彼女にとっては大真面目なのだろう。


 そうか、下手に矛盾が生じていないぶん、天界のルールが介入する余地がないのか。

 全能の力を持っていても、発想力は人間のままらしい。それは人間界の不可能を可能にするの力であることを、僕は改めて認識した。



「脱線して悪かった。ええと、そうそう交渉の話だ。交渉を打ち切るのには、なにかしら条件があるんだろう?」

「うん。もちろん、基本はあなたがどうするか決めたらおしまいなんだけど」

「例外もあるわけだ」

「そうね。あなたの評価値ポイントが大きく変わった場合、とか、明らかに神様になる意志がないと判断された場合、とか。他にもいろいろ」


 少女はそこまで言って、ハッとした顔で話を切った。


「あー、だめだめ。風邪ひいたときはあんまり考え事しないで、ちゃんと休まなきゃ。この話はもうおしまい」

「それもそうだけど、大事なことじゃないか」

「少なくとも今日は最後じゃないんだから、また今度でもいいじゃない。そうだ、落ち着いて寝られるように、子守歌をうたってあげるよ」


 僕の反論をさえぎるように少女はまくし立てると、ふたたび僕を無理やり寝かせ、どこかの民謡らしきメロディを口ずさみはじめた。

 まったく勝手なやつだ。でも、僕のためにしてくれていることだ、悪い気はしない。それに今日は元々ゆっくり休むつもりだったんじゃないか。ここはおとなしく従っておこう。


 僕は目を閉じてぼんやりと考える。

 神様のくせして、漢方だの子守歌だの、持っているアイデアはおそろしく庶民的だ。神様になる前は、この少女はいったいどんな生活をしていたんだろう。


 今までは自分のことがいっぱいいっぱいでなにも思わなかったが、ふと僕はおかしなことに気付いた。

 この少女、神様にしては幼すぎる。このくらいの年の子なら、僕なんかとは比べ物にならないくらいの未来があったはず。神様の適性があると判断されるのは不自然だ。

 それとも、人間界に暮らしていたときとは違う、仮の姿なのだろうか。それにしては言動が年相応に幼くも感じるのだが……


「なあ」


 どうしても気になって、つい声が出てしまった。

 だが、少女からの返事はない。いつの間にか歌もやんでいる。

 あれっと思い目を開けると、そこにはだれもいない空間が広がっていた。


 ……ああ、十分経ったのか。


 茶碗もれんげも湯呑も、きれいさっぱり消えていた。むせておかゆをまき散らした痕跡もない。十分前までの僕の部屋だ。


 まだ明るい窓の外に背を向けるようにして、僕はまた目を閉じた。静寂がじわじわと体の不調を思い出させる。ふう、と声に出しながらため息をつくと、僕の頭は見えないおもりが乗っかったような感覚にとらわれた。ああ、十分前までの僕だ。


 ようやく取り戻した平穏は、今の僕にはあまりに静かすぎた。

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