第2話 新しい生活

 小学二年生の夏休みの終わり、僕は東京にある祖父の家で暮らすことになった。


 もともと東京で暮らしていた僕の両親は、僕が生まれる少し前に都会暮らしをすっぱりとやめ、縁もゆかりもない山口県へと引っ越したらしい。山陽と呼ばれる瀬戸内海沿岸の地域は比較的暖かく、過ごしやすいところだったように思う。思うと言っているのはその頃の記憶が、どうもはっきりとしないからだ。


 毎年夏になると少し遠出をした田舎の海岸で花火大会が行われる。僕たちは毎年それを楽しみにしていて、そして毎年そこに父の運転する車に乗って出かけるのが恒例行事だった。その日も、浴衣に着替えた僕たちは、打ち上がる花火を思い浮かべ、なんとなくそわそわとした落ち着かない感じでいたんだ。


 花火大会が開催される海岸は、年を追うごとに混雑度が増した。そのため、僕らはそこから少し離れた海の見える原っぱに車を止め、母の作ったお弁当を食べながら花火を見上げるということにしていた。確かに屋台というのもこういったイベントの心躍る要素のひとつだけど、それは近所の夏祭りで十分。花火大会は花火を中心に据えて楽しもうじゃないかという父の提案を皆が了承した格好だ。


 花火は美しかった。人工的な光の見えない本当の夜。月と星しか見えない世界に、目を見張る程の大きな花がいくつも咲くのだ。そして咲き誇った花はすぐにその花びらを散らす。僕は短い花の一生を、おにぎりを片手にだらしなく口を開け眺めるのだった。


 最後を飾る四尺玉の花が散った後、僕はその余韻に浸りながらも最後の唐揚げを頬張った。


 帰りの車中は皆が心に溜めた感動を吐き出す場だ。僕は花火の美しさと唐揚げの美味しさについて熱弁を振るったのだ。あれではおにぎりがいくつあっても足りないという苦情も込めて。父は僕がほとんどの唐揚げを食べてしまったから食べられなかったと文句を言い、それを聞いた母は嬉しそうに笑っていた。




 そしてガラスの砕ける激しい音と共に、僕は意識を失った。




 次に目を開けた時に見えた天井は僕の心を表しているように何の特異性もなくただ無機質な白。僕の顔を覗き込んで泣いているおじいちゃんの顔も、どこか昔の映画を見ているような、現実味のない映像のように見えた。


 父と母は即死だったそうだ。痛いとか苦しいとか、そういうことはまったく思わなかったはずだよ、と医者が言っていた。それを聞いたおじいちゃんはまた泣いていたけれど、僕には言っている意味がよくわからなかった。


 僕たちの乗っていた車は、車通りの少ない交差点で、横から激しく追突されたらしい。相手は花火大会帰りの客で、運転手は酒を飲んでいたということだ。僕は奇跡的に軽い打撲と額をガラスの破片で切る程度の怪我で済み、事故後、すぐに退院できた。退院して戻った家の中は、夕方の朱色の光で一律染められ、ガランとした誰もいない静かな部屋には、先日まではなかった父と母の写真が置かれていた。僕はその日、初めて泣いた。


 僕を引き取ったのはおじいちゃんだった。そして僕は東京に引っ越した。


 おじいちゃんの家はひとりで暮らすには少し広い一軒家で、前にも何度か来たことがある。最寄り駅からは少し離れていて、坂道をしばらく登った先にその家はあるのだ。その坂道は大きく二段階あり、ゆっくりとなだらかな坂がしばらく続いた後、最後、試練とばかりに坂は少し斜度が上がる。これを僕は一番目の坂、二番目の坂と呼び、家に辿り着くまでの目安としていた。


 僕は二階の部屋を自室としてもらうことになった。そこは遊びに来た時に僕が寝ていた部屋で、一番慣れている部屋。窓を開けるとどこまでも住宅が続く。田舎とはえらい違いだ。しかし、二つの坂を登り切ったところにあるこの家からは遥か遠くまで見渡すことができ、天気の良い日には富士山(と僕が勝手に呼んでいただけでそれが本物かどうかはわからない)を見ることだってできた。


 引っ越しの片づけもようやく終わり、いよいよ新しい学校へ登校するという前日、我が家に見知らぬ女の人が二人やってきた。僕はおじいちゃんに呼ばれ、リビングでその二人と初めて会ったのだ。二人は皐月ゆり、皐月鈴、という名前で、母娘。隣の家に住んでいるらしい。おじいちゃんとはもともと近所付き合いがあり、仲良くしていたそうだが、娘の鈴が僕と同級生ということがわかり、僕のお世話係に任命されたということだった。


 その後、僕は鈴の家には毎日のように遊びに行った。蘭という二歳になる活発な妹、おっとりとした物静かな鈴、明るく大雑把なゆりおばさん、そして時々おじちゃん。僕は皐月家のおかげで両親のいない生活を乗り越えられたのだと今でもとても感謝している。そしてそれは僕たちが思春期を迎える高校生になるまで続いた。その後は気恥ずかしさもあって、徐々に疎遠にはなったけれど。


 そう。

 そのゆりおばさんが今、目の前にいる。

 僕の会社の中途採用面接に来ているのだ。


 僕は突然水をかけられたかのように呆然と口を開け、おばさんの顔を見ていた。


 「今日はCEO?社長?面接だって聞いてたんだけど、この会社ってもしかしていっちゃんの会社なの?」


 僕、水原一一(みずはらかずいち)のことをいっちゃんと呼ぶのはゆりおばさんくらいのものだ。間違いない。


 ――コンコン


 「失礼しまっす…。雇用契約書をお持ちしましたっす…」


 バックオフィス犬井桜子は扉を閉めると僕の方を見てニヤリと笑った。

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