00-9. 繊細《せんさい》な問題

【語り部:ホープ・豊島恵一】



 賀陽かやさんの命が無事でよかった。でも、怪我くらいはしてほしかった。


 恨みがあるわけではない。加藤先輩の話を聞くかぎり、賀陽さんは尊敬しても良い部類の人物である。まぁ、正直なところ、個人的にはあまり好きではないが。


 とにかく、“今回の事件からは戦線離脱をせざるを得ない”程度に怪我をしてほしかった。


 喪服のような黒いスーツに白い手袋の男。先刻、得体のしれない男が僕の前に突如現れ、加賀さんへの襲撃がある事が告げられた。そしてひとまず、この場に駆けつけたわけだが……。


 駆け付けた時、事務所の前には覆面の男がひそみ、賀陽さんはまだ来ていなかった。


 覆面がナイフをもっている事は聞いていた。僕はひとまず身をひそめた。賀陽さんが来た。怪我をしたところで助けに入ろうと構えていた。


 しかし、賀陽さんは強かった。僕の想像を超えて……。


 一瞬で覆面男を制圧した。怪我をしてもらうチャンスをもう一度つくりたかった。僕は注意を逸らそうと声を掛けた。狙い通り、形勢は変わった。でも、それも一瞬だった。


「おい、後輩。そいつの覆面をはげ」


 賀陽かやさんの小さな事務所。その床に覆面の男が転がされている。賀陽さんは煙草をくわえ、インスタントコーヒーの粉をカップに入れている。


 やれやれ、と、僕は男の覆面に手をかけた。


「か、賀陽さん」

「なんだ?」


 賀陽さんはインスタントコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置き、ソファに座り、煙草に火をつけた。


「なんだよ?」


 僕はしばらく次の言葉を見つけられず、賀陽さんの行動をみつめていた。


「なんだっつの」

「……マスクが首に縫い付けられています」

「ほう……」


 賀陽さんはしばしの沈黙を作った後、デスクへ向かい、ハサミを手に取ると静かに覆面に近づく。


薬中クスリか……」


 そうつぶやくと、ハサミで覆面の糸を一本一本切る。

 切り終えると、マスクをはがす。


「やっぱり、クスリ打たれてるな」


 賀陽さんは、閉じられた目を指で押し上げ、瞳を覗き込む。平然と。


「ラリってると、マスク、とっちまうかもしんねーからな」

「賀陽さん、なんで平気なんですか?」


 男の首には、幾筋も、細く赤い糸が連なっている。


「まあ、この街にはこのくらいの事するやつは、結構いるからな……」


 結構いるからな……。

いったい、どれだけの修羅場をくぐってきたのだろうか。


「理解に苦しむよな、ほんと」


 新宿で看板を構える凄さを、今はじめて感じる事ができた。


 しかし、あの黒服の男とこの覆面にはどんな繋がりがあるのだろうか。あの男……政府の人間だと語っていたが……


「中国人っぽいな。おい、この顔、心当たりあるか?」


 あの男は僕に、「刺客を」と言っていた。


「聞いてんのか?まぁ、心当たりなんかあるわけないか。どうせ数ある鉄砲玉の中の一発だろう」


 僕はあの男の指示に従うべきなのか……


「おい、加藤に連絡しろ。一応、こいつの顔、写メって、お前んとこのデータベースと照合しといてくれ。急ぎでな。なにせ、この俺の命が狙われたんだ」


 僕や賀陽かやさんの身辺情報をたやすく入手し、得体のしれない男を使って襲撃を実行させる。がある以上、とにかく今のぼくには、従う《やる》以外の選択肢はない……


「おい、やんのか、やんねーのか!」

「や、やります!」

「あ?お、おう。気合はいってんな……」


 しまった。いけない、僕は今、冷静ではない……


「大丈夫かよ、おい」


 冷静に……


「聞いてんの?」


 冷静に、冷静に、冷静に、冷静に……


 ふと、賀陽さんが僕の顔を覗き込む。

「なぁ後輩君、ほんとに君、捜査一課?」


 賀陽さんと僕の視線が重なる。


「あ、あれか、ゆとり世代ってやつ?まぁ、そうだわな。いつも、事件が起きた後に偉そうにのこのこ出てくるだけだもんな、本庁様は。当事者になるとテンパっちゃうってか?」


 ……なん、だと?

 賀陽さんが視線を外し、背を向ける。

 食い掛かる僕。


「なんといいました?」

「このがって言ってんだよ」


 いけない、冷静に……


ってかぁ?はっはっは」


 ……なれない


「賀陽さん。あんたみたいに一課リタイアした人に言われたくないですね。私は自分が刑事であることを誇りに思っています。が、直接ではないにしろあなたの後輩にあたる事だけは誇れません。むしろ恥です!」


 言い切った後、はっとする。

 しまった。つい、こらえきれなく……


「はっはっは」


 賀陽さんが声を上げて笑う。


「正気に戻ったか。じゃ、まぁ、ひとまずコーヒーでも飲んで、落ち着け。そんで、君の誇りである偉大なる大先輩、加藤君に連絡をいれてくれたまえ」


 テーブルの上に置かれたコーヒーカップ。このコーヒーは僕に入れてくれていたようだ。


「さっきは君ひとりにこいつを運ばせてしまったからな……」

「……くく」


 僕一人に運ばせたこと、正直イラっとしたけど、賀陽さんも反省しているらしい。


「すみません、自分、コーヒーは砂糖とミルクを入れて飲むんです」

「は?」

「甘党なんですよ。普通、砂糖とミルクも一緒にだすでしょ」

「なんだと、人の好意にいちゃもんつけんのか!?」


 賀陽さんが席を立ち、スティックシュガーとミルクを取ると、僕に放り投げる。


「ちっ、気を使って損したぜ」


 そう言うと、すねたようにそっぽを向く。

 まったく、この人は、ガサツなのか、繊細なのか……。


 まぁでも、おかげ様で落ち着いた。


 さて……落ち着いた所で、冷静に考えてみよう。

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