第3話お互いの都合。

「到着…到着」

 私は、自動車のサイドブレーキをキュッと引いた。

「ふぅ…着いた着いた…」

 車もそれほど混んでなく、すんなり温泉宿に着いた。所要時間30分くらいか。

「…」

「はいはい」

「敦子さん…早く降りて下さい。ボヤボヤしないでね」

 洋子は、うたた寝している彼女に喋りかけた。

「…」

 敦子さんとは、さっき立ち寄った「お蕎麦屋」の女亭主だった。なぜか、この女性も温泉に着いて来ている。結局二人はあまりにも意気投合してしまい、お蕎麦そのものの味もろくに味わえなかった。洋子は、自分の作った蕎麦の味もそっちのけで「私たち、これから温泉へ行くんですけど…あなたも行きます?」なんて言い出す始末でして…。彼女も躊躇することなく「この分だと、もうお客さんは(お店へ)来そうにないし…まぁ週末はいつもやっていないから当たり前っていえば当たり前なんだけど…、私も一緒に着いてちゃおうかな?お邪魔じゃなきゃ」と何も考えずに簡単に返事が返ってくるし…こういう展開になるともうアラサーの女子力は止まらない。無力なアラサー男は、彼女らに従うのみです。私がわぁわぁ喋り出すと、返って面倒なことになるはず。今日は、どうも予定通りに事が進まない日だった。洋子も「いいわよ。ねぇ、晴彦」なんて軽く言い返してしまうし…困ったもんだ。「すごく嬉しいなぁ…久しぶりの温泉だわ。じゃ、食べ終わったら用意してきますね」ってニコニコしながら彼女も蕎麦ばを啜っていた。洋子は「それはそうと、宿の部屋空いているかなぁ…」と突然言い出し、テーブルの上に置いてあった自分のスマフォで、本日泊まる予定の温泉宿へ電話をかけ始めた。俺も「大丈夫かな?」と余計な心配とかしてみたが、偶然は重なるもので二人部屋のキャンセルが出たらしいという答えが返ってきた。それを聞いた彼女も「二人部屋でもいいわ。例え料金2倍でもまぁこの際いいわよ」と笑って言い返した。大胆不敵な女性陣により部屋の問題は、ものの数分ですんなり解決してしまった。物事が纏まるときは、いつもこんな感じだと思ったわけで。彼女は、銀行を辞めてまで祖父の営んでいたお蕎麦屋を継いだり、今日初めて合った洋子と意気投合しちゃうわ、そんな洋子と一緒にお蕎麦を作ってしまうし…この女性の性格が全く分からんのです。大胆というか…無謀というか…あのお店が、流行らない訳もちょっとだけ理解できるような…そんな気もしたりして。まぁ余計なお世話か…。今日ほど、とてもペースを乱される日はないと思った。

「はぁ~い」

 敦子さんは、目を擦りながら自分の荷物を持って車から出た。

「…」

 洋子は、敦子さんを見ていた。

「…」

「何?」

「ほんとにお店閉めちゃって良かったのかな?と思ってさ」

「…」

「全然。それより私もお邪魔して良かったのかな?と若干思っています!」

 「その顔は、全然思ってないでしょ、あなた…」と思っている自分がいる。まぁもういいんだけどさ。

「…全然。返って楽しくなりそうでいいじゃない。ねぇ、晴彦」

「…うん?」

 聞いてない素振りをしてみた。

「3人の方がいいわよね、晴彦」 

「…」

「どうかな?」

 洋子が、温泉宿に連れてきてまで俺に伝えたいことは一体なんだったんだと、ふっと思い出した。その問題が問題なんだ。敦子という女など正直どうでもいいと思っている自分もいたり。自分の気持ちがよく分からない。乱れている混乱している気持ちを一度温泉に入って落ち着かせたい、そんな気分だった。

 「はぁーーー」溜息を着きたい。洋子が、敦子さんを誘う意図が全く分からない。やはりどうかしているよ…今日の洋子は。全く理解ができない。私が何をしたんだ?

「…お邪魔でした?」

 敦子さんは、俺の顔を覗きながら言った。

「いや、そんなことないですよ」

 ここで拗らせるわけにはいかない。

「だったら、「どうかな?」なんて言わないでよ。もう…空気が読めないんだから…晴彦は」

 「重いから荷物持って」と目で合図した。「自分のくらい自分で持てよ」って少し思ったが、しかたなくバックを持った。洋子一人でも大変なのに性格が全く読めない敦子という女性も加わって…もう…頭を掻き毟りたい。すっげーー迷惑だわ…。

「…空気が読めない男で、すいません」

 黙って要られないので、つい言ってしまった。

「…」

「やっぱり、仲がいいのね、川越家って」

「…ん?」

 洋子は「うふっ」と笑いながら温泉宿の入口の方へ歩いて行った。

「…」

 俺は「そうかな…」と呟きながら妻の後に付いていった。この状況で夫婦仲がいいと言われましても、どう答えていいか全く分からず。

「…」

 騒がしい私たちが旅館へ入ると、威勢の良い女性の声が聞こえた。

「いらっしゃいませ!」

 ちょっとふっくらした着物を着た女性の声だった。この女性も敦子さんか?今日は、元気の良いスタッフと喋るのは、危険だ。間違いない。

「…」

「本日、予約した「川越洋子」2名と…敦子さん…あっ!敦子さんの名字は…」

 私は、彼女を見ながら言った。名前は知っていたが、彼女の苗字は知らない。

「私は…いぃ……い……伊藤…伊藤!敦子と申します」

「…」

「…だそうです。本日、キャンセルが出たっていうので、無理に予約させてもらった川越二名と伊藤です」

 多少嫌味に聞こえる風に言ってみたり。

「ちゃんと、伊藤さんの分も予約されていますよね?」

「…大丈夫ですか?」

「あっ、はいはい。ちゃんと承っております。計3名様ですね。お待ちしていました。お疲れになったでしょう…」

 「それは良かった…ふぅ…」俺も額をかきながら思った。ここでまた予約できていないとかなんとか言われたら、もうギブアップ。勘弁してくださいって」感じです。

「お荷物、フロントに預けてくださいね。後で、従業員がお持ちしますから」

「…はい」

「どうもです」

「お世話になります」

 3人とも、その女性スタッフに荷物を預け、近くにあったソファーへ座った。

「…」

「…」

「…」

 3人とも一瞬無言になった。俺も疲れているが、何だかんだ2人もまぁ疲れているのだろう。あれだけ喋れば。この温泉宿に来るまでずっとあの調子で喋り倒してきた。聞いている俺もうんざりするほどだった。しかし、相当2人の相性もいいのだろう。とさえ思う。このまま今夜泊まって、仲が良いままだと旦那としても嬉しいかもしれない。この年代になると、判子押したようにすぐに友が出来ることはない、なかなか出来難いわけで。どうして出来ないのか考えたこともあったが、結局分からず終いで考えるのをやめてしまった。友と呼べる人を多く持った人が幸せなんだと今は思う。幸せとは何か?と聞かれれば、まずは友の数だろう。そしてその中でも良き理解者が何人いるかだと答えるだろう。幼き頃に「友達100人~」とまではいかないだろうが、多いに越したことはない。

「…」

「…これからどうしようか?」

 私は、このままだと何も言い出しそうにないのでしゃべり出した。

「…」

「まだ日も暮れていないし、どうする?」

「…私は、お風呂入りたいなぁ…」

 敦子さんは、背伸びをしながら答えた。

「どうしようかな?晴彦はどうするの?」

「…」

「取りあえず、部屋に行って…横になりたい」

 俺は、非常に疲れている。洋子は「風呂の前に土産を買いたい」だなんて、訳の分からないことを言い出さないだろうな?もう絶対に動きたくない。

「…」

「それじゃ…取りあえず部屋へ行きますか?」

 洋子は、スッと立ち上がった。

「…」

「じゃ…一度、これで解散ね」

 敦子さんもスンナリ立ち上がった。

「そうね」

「気が早いけど…夕飯は、どうするの?各自で食べる?」

 洋子の頭の中は、食のことだけか…笑。

「この宿のシステムもよく分からないことだし、後で内線鳴らしたら?内線くらいあるでしょうし」

 私は、長くなりそうな2人の会話に割って入った。長引くのは身体に悪いからだ。

「…はい」

「そうね、そうしましょう」

「取りあえず、今、15時ちょっと過ぎだし…19時頃にお互いの部屋へ連絡するということでいいかな?」

 「よいしょ」とぼそっと言いながら荷物を置いた。

「…」

「了解」

「らじゃー」

 洋子と私は、敦子さんとロビーで別れた。彼女は、ちょっと用があるということらしいので、一人フロントへ向かった。「なんの用?なんだろう?」と首を傾げながら、荷物を持ってくれている女性スタッフと階段で2階へ上がった。

「…」

 それほど、廊下は広くない。2人が横になって歩くともう…いっぱいいっぱいな感じだ。

「…」

 洋子もキョロキョロ回りを見ていた。

「205号室です。この部屋は、角部屋ですよー」

 女性スタッフは、笑いながら言ってきた。

「へぇー、ラッキー」

「良かったじゃん」

「敦子さんのお部屋は?」

 洋子は、鍵を開けているスタッフへ訪ねた。

「敦子さん、あぁ…あの伊藤さんですね。おそらくは202号室です。確かキャンセルがあったお部屋は、隣の隣…だったかな?」

 ドアを開けて、すぐ近くにあるスイッチを押しながら答えた。短い廊下が明るくなった。見た目は、古びた和室で…思ったより古いなぁというのが私の第一印象だった。温泉宿は、少し古びているくらいが丁度いい。あまり新しかったりコンクリの打ちっぱなしのようなおしゃれな内装でも気持ちが落ち着かない。このくらい古びている宿が私にはしっくりくる。

「それでは、お荷物とお部屋の鍵、ここへ置いておきますね」

 女性は、荷物と鍵をテーブルに上へ置きながら言った。

「…はい」

「ありがとうございます」

 私は、一人がけの椅子に座りながら言った。洋子も目の前の椅子へちょこんと座っていた。

「あのさ…」

「はい?」

「ここの温泉は、何が売りなわけ??」

 俺は、ふっと思ったことを呟いた。今朝、洋子が見せてくれた雑誌の切れ端以外の情報はなかったわけで。見たというより眺めただけだが…。

「はぁ~い。うちの売りは、何といっても天然温泉なんですよ。神奈川県三浦沖、水深300メートル付近の海水を取ってきていまして…そうそう、テーブルの上に置いてあるパンフレットに詳しいことが書いてありますよ」

「なるほど。海洋深層水ってわけね。どれどれ…」

「気持ち良さも効き目も200%ですか…。ふーん。効能は、神経痛・筋肉痛・関節痛…なるほどねぇ…」

 私は、パラパラッとパンフレットを眺めながら答えた。口には出さなかったが、「どこにでもある温泉宿」かな?と思った。まぁそれなりのことアピールしないと、新規の客も来んだろうし…。

「気持ち良さそうね」

「まぁ…入ってみないと何とも…」

「ゆっくりしてくださいね」

「はい」

「食事とかは…どうすればいいのかしら?」

 食の事は、洋子に。これからはそうすべき笑。大事だよな、これ。洋子は、これだけは忘れないうちに聞いておかないとなぁと思って、女性へ訪ねたのだろう。素晴らしいことなり。しかしながら「私も飯のことしか考えていないのか?」と思うくらいお米が大好きです。大好物です、お米とみそ汁さえあればなんとか生きていける。実は、とても安上がりの男でして、それだけで幸せを感じられる男だったんです。はいーー。洋子は、気付いているのかな?簡単に愛を感じられる男だというを…まぁいいか、おいおいな。

「…」

「このお部屋にお持ちしますよ、何時頃お持ちすればいいですか?」

 スタッフの女性は、当然だと言わんばかりに答えた。

「あら…そうなの。別の部屋の方と一緒に食べるの、平気??」

「はい、大丈夫ですよ。何時頃って言っていただければ、人数分このお部屋へお持ちしますが。何名様になります?」

「…」

「どうしよう?」

「じゃー3名で」

 洋子は、女性スタッフの目を見ながら言った。

「3名ですね」

「あの人、一人で食べたいかもよ?」

「そんなことないんじゃない?ここまで着いてきちゃったくらいの人だから。きっと、一人で食べないと思うよ。多分、寂しがり屋の子だと思うし…」

 まぁ。そっか。

「しかもさっきフロントの前で、19時頃にお互いの部屋の内線を使って、連絡し合うって言わなかったっけ?」

「…」

「そっか、忘れていた」

 「お前は、サルか」

「そうだよ」

「じゃ…ねぇ、どうしようかな?」

「…」

「後でもいいんじゃない?」

「後じゃ、私が困る。お腹減ったら、イライラするでしょ、いつも。晴彦は」

 うん、確かに。

「…」

「ここでいいか。一人で食べたかったら、それはそれで対応しようよ。僕が持って行ったっていいし…」

「じゃ…取りあえず、3名分の食事をこの部屋へ持ってきてください。時間は…19時頃でいいかな?」

 洋子は、笑いながら壁に飾っている時計を眺めながら答えた。約束を

「はい、畏まりました。それでは、19時に3名分のお食事をお持ちしますね。もし変更の場合は、内線を鳴らして頂くか、フロントまでお越し下さい」

 晩御飯の話より私は、眠たくて仕方なかった。「風呂なんて、入っている場合じゃないよー」と思っていたり。洋子が行きたいのであれば、一人で行かせるかな?などと思っていたり…とにかく眠いのです。

「…何かご用の際は、内線000をお鳴らし下さい。フロントに繋がりますから」

「はぁーい」

「…はい」

 女性スタッフは、軽く会釈をして部屋を出て行った。

「…」

 私は、無言のまま欠伸をした。瞳には、涙が溜まっていた。相当眠いんですよ。

「…うーん…少し横になるわぁ…眠い…」

 一人がけのソファーから立ち上がり、転がるように隣の畳の部屋へゴロゴロと動いた。おそらく一分も立たないうちに意識が遠のくだろう。という感じで。

「グンナーイ」

「じゃあー」

「…私は、お風呂入ってくるね。晴彦は、ここで横になっている?温泉に入ると気持ちいいと思うわよ、きっと。疲れなんて吹っ飛んじゃうわぁ」

 洋子もソファーから立ち上がりながら喋ってきた。

「…」

「…ん…」

「…ねぇ、行こうよ…晴彦」

「…」

「行きましょうよ、明日には帰るのよーたくさん入らないと損した気分になっちゃうわ」

「…」

 確かにそうだけど…。

「ねぇねぇ…」

 私の身体をゆさゆさ揺らしながら言った。

「うーん、じゃ…行きますか」

 私は、重い腰をクイッと起こしながら起き上がった。「まぁ~せっかく温泉に来たわけだしな…」

「良かった…一人で行くの、なんか嫌だったの」

 洋子は、テーブルの上に置いてあった浴衣を取り自分のバックを畳に置きながら言った。

「…」

「どうしてそんなにまでして…温泉へ来たかったの?洋子は、行きたいものは行きたいの!って言っていたけどさ…本当は、何か理由あるんだろ??」

 特に朝の会話を蒸し返そうとは思わなかったけど、つい喋ってしまった。ついさっき出会ったお蕎麦屋の女亭主、敦子さんも連れてきてしまう不可解な行動もよく分からず。 何度も言うが、客観的にみてもよく分からんのだ、今日の洋子の行動は。マンションの寝室に置いてあった雑誌の記事もめちゃくちゃ気になっており…その件も早く聞き出したかったけど、敦子さんがまぁ目の前をちょろちょろくっついてくるので、そうそうあからさまに聞き出せなかったわけで…。早くはっきりして、それから…ゆっくり温泉をざぶーんと楽しみたいわけです。聞いた後に今までのような関係で居られる…保証ないけど。

「…」

「そんなに気になる??」

 洋子は、じっとこっちを見ながら言った。

「そりゃねぇ…」

 気にしないわけないでしょ。あなた。

「…どうしようかなぁ…」

 やっぱりどうしてももったい付ける気か?

「…」

「やっぱり後でね。もう少しよーく考えてみるから。後悔したくないしさ」

 洋子は、笑いながら言った。

「…」

 洋子の顔色を推測すると…それほど「悪い」ことじゃないかも…しれない…ような…気がする。

「何か…言いたいことがあるってのは、分かった。今、言いたくないってことも、いま…分かった」

「そう?」

 洋子の微妙な表情が何ともいえなかった。その顔は、不安な顔ではない…と思うが…正直いまの私には全く分からない。分かるほど頭の中が整理できていない。混乱しているというのが正しい。

「…じゃ、いつ言ってくれる?」

 どうしてもその答えが欲しかった。正直、この状態は生殺しだよな?と思った。

「…」

「せめて、それくらい答えてよ。こっちも生きた心地しないよ」

「…」

 洋子は、一呼吸おいてから

「帰りまでに「答え」をまとめて置くわ。それでいい?私がもったい付けているからって、機嫌悪くなるのは、絶対嫌よ。私が、勝手なことを言っていることも十分分かっている。わがまま言っていることも分かっている。御免なさい。けど…それだけは、お願いね。約束よ。せっかく久しぶりに温泉に来たわけだし…笑って過ごしたいじゃない。お願いね」

「…」

 なんというわがままな妻なんでしょう。いま始まったことじゃないけど。今日は、相当だ。

「一生のお願い」

 洋子は、頭を下げなら言った。彼女が、私に対して「頭を下げる」のを初めて見たような気がする。それなりの「覚悟」があるということか。「一生のお願い」という言葉にも重みがあった。何だか、本当に「一生のお願い」に聞こえてしまったのは…気のせいか。

「…分かったよ。「約束」する。だから…洋子も不機嫌な顔するなよ。お前は、顔に出やすい質だからさ。それだけは「約束」してくれ」

「…」

 お互い一瞬顔を見合った。

「うん…分かった。「約束」するわ」

 私たちは、微妙な「約束」をしてしまった。この「約束」が良い方向に向けばいいのだが…。今の私たちには分からない。分かっていることは「分からないことだらけ」ということ。そんな日だった。

「じゃ…お風呂に行きますか」

 私も笑いながら言った。「約束」をした以上は、守らなきゃ…男が廃る!ってもんよ。

「はい」

 洋子は、今日一番の笑顔で答えた。妙な「約束」の後だけど、少し嬉しかった。もう少し早く見たかった気もするが、贅沢ってもんかな。私たちは、何だかんだあったが、取りあえずお風呂場へ向かうことにした。洋子と俺の性格で一つだけ似た場所がある。それは、性格が二人ともポジティブであること。その性格で色々あった結婚生活を何とか乗り切ってきた…つもりである。その生活も今日で終わるかもしれないが…人生は、なるようにしかならない。その時は、その時でキチンと考えるとするか。「俺も腹を括ろう!」

「ねぇ…家族風呂があるみたいよ。個室なんだってさ」

 洋子は、部屋を出てから数十秒後、突然言い出した。

「そんなのあるんだ?よく知っているね?」

 洋子は、さっきテーブルの上に置いてあったパンフレットを持ってきていた。

「なるほど」

「そこを曲がって…突き当たりの階段を上がるとある…みたい。予約制じゃないから、込んでいたら…入れないみたいだけど」

「ふーん」

「空いていたら、入ってみる?」

 洋子は、ニコッと笑いながら言った。

 思わず「ゴクン」と唾を飲み込んでしまった。

「…」

「別にいいよ、照れくさいからさ」

「なぁーんだ、詰まらないの。私のナイスボディー、見たくないの?」

 洋子は、自分の容姿に自信があった。もう…35を過ぎた熟女?なのに、出会ったときの体型とそれほど変わっていない。いや…歳を取った分、余分な贅肉が落ちて…よりグラマーになったかもしれない。一緒に歩けば一度や二度他人が振り向くこともざらだ。大して努力もしていると思えないが…天性の何とやらか。私と同じくらい残業もてんこもりだし、ジムへ通った経験も私の知っているかぎりないはずだ。実に羨ましい身体の持ち主だ。

「…」

「どう?」

 洋子は、腰を振ってみせた。夫を誘惑してどうする?

「…」

「夫を誘惑しているのかい?」

「…したら、悪い??いやな気分じゃないでしょ」

「参ったな」

 お互いの顔を見ながらクスクスッと笑ってしまった。結果的に無謀な「約束」を交わしたことが良い方向に向いているかもしれない。お互い余計な力が抜けたのだろう。

「…うん?」

「どうしたの?」

 洋子は、クルッと振り返った。釣られて俺も振り向いてしまった。

「…」

 見えたのは、一人のヒョロッとした男性だった。誰かを捜しているように見えたが…こういう怪しそうな男性には関わらない方が賢明だ。今日は、ある意味厄日なんだから。「洋子…絶対声を掛けるなよ…そっとしておくのも悪いことじゃないということも覚えてくれ」と呟いた。

「…」

「どうかしたのかしら?」

「どうもしないと思うよ。きっと、一緒に来た友人でも探しているんだろうよ。それよりさ、家族風呂へ行こうよ。家族風呂」

「…そうね」

 その男に興味がないのか、意外とすんなり俺の話を聞いた。洋子は、クルッと前を向いて歩き出した。私の記憶が確かなら、その男性がうろうろしていたのは、敦子さんが泊まっている部屋の近くだった。そういえば、さっきから敦子さんの姿が見えない。一人でフロントへ向かったっきり話していない。「どうしたのかな?」と思いながら家族風呂へ向かった。

「…」

「…」

 洋子の歩く速度が速くなった。獲物を捕らえたヒョウのようだ。

「あったあった…ここよ。晴彦」

 洋子は、嬉しそうに喋ってきた。「そんなに小走りしなくても家族風呂は逃げんて…」と思いつつ。

「…残念…使用中みたい」

「ほんとだ」

 ”使用中”という看板が掛かっていた。

「…」

「どうする?」

「しょうがないよ。夜は長いんだし、また来ればいいじゃん。食事の後とかさ。帰るまでに、二・三回入るっしょ。次の機会でいいんじゃない?それとも出てくるまで待っている?僕のナイスボディー眺めたいなら?」

 俺は、笑いながら一応訪ねてみた。

「…」

「ナイスボディーねぇ…」

 洋子は、俺の身体をジーッと見ながらお腹をポンポンと摩ってきた。

「まぁ~ちょいボディってとこで」

 ちょい何とかって言葉はもう古いか…。

「はいはい」

 洋子は、いつものように一言多かったが否定はしなかった。彼女は、努力なしにその体型を維持しているようだけど(これでもしてるっつうの!って、突っ込みが入りそうだが)私も深夜残業たっぷりしている割に、体型維持しているほうじゃないかな。と思いながらちょっと出てき始めたお腹をなでなでしながら思った。

「どうしようか?」

「取りあえず、今回は、バラバラということでいい?待っているくらいなら、部屋に帰って寝たいね」

「…そうね、今回は、ばらばらということで」

「うぃ」

「何時頃待ち合わせする??」

「そうかそうか、どうしようか?」

 スマフォをタップしてチラッと見た。

「18時45分頃にフロント前でどう??」

「そうね。食事の時間は確か19時頃だから…それくらいでいいわ。どうせ、私の方が遅れると思うし…」

「遅れんなよー」

 家族風呂の隣にそれぞれ男湯と女湯がありそこで洋子と別れた。私は、欠伸をしながら男湯に入って行った。正直一人になれたおかげでホッとしたところもある。朝からずっと洋子と一緒だったしこんなに意識して一緒にいること事態、最近なかったような気がする。だから、気疲れてもおかしくないわけです。もちろん悪い意味じゃない。と思いもあって。休みの日は、一緒じゃんって言うかもしれないけど、普段の休みの日は、何となく一緒にいるだけのような気がするし…お互い意識して全ての会話をしているわけでもない。けど、惰性で喋っているわけでもない。洋子は、どう思っているのだろうか?この際、一度聞いてみたいと思っている。

「ふぅ…」

 俺は、シャツを脱ぎながら深いため息をついた。

「…」

 ふと、自分の目に館内掲示板が映った。

 すみからすみまで…ゆっくり三昧。心ゆくまでリラックス&リフレッシュしてください。と書かれていた。「へぇーアカスリ処や手もみ処もあるのね。やっちゃおうかなぁ…?」 首を回しながら思った。俺は、全裸になって浴場へ向かった。掲示板に描かれていた浴場の図面は広かった。実際はどうなのかな?と思いながら向かった。

「…」

 「まぁ、こんなもんかな?」俺は、フェイスタオルを片手に持って、スタスタと浴場の中へ入って行った。熱気むんむんの浴場の中は、複数の家族と思われる人たちがたむろっており、若干込んでいるように思えた。家族で来るものあり、夫婦で来るものあり…ちびっ子も何人かいた。「ここは、プールじゃないんだよ、坊や」って言いたくなるくらいうるさい声がたまに傷です。「チャプーン」私は、片足を茶色の湯に付けてみた。丁度いい温かさだったので、そのまま身体を勢いよくざぶーんと浴槽へ入れてみた。

「ふぅ…うぅ…」

 やっと心から落ち着いたように思う。なんて気持ちいい湯だ…。

「ふぅ…」

 自分の身体が、じわぁ~と徐々に暖かくなっていくのが分かった。すごくのどが乾いたとき、ポカリをガブ飲みしたら普段は気付かないけど、そういうときは、なぜか胃の中にポカリが通っていることが分かってしまうような…そんなちょっとした違和感(感覚)に似ている。

「温泉って最高!」と叫びたい。よく分からない状態で来たけど、まぁいいか、全てを許せる気がする。しかしなぁ…今日は本当に色々あったわけで。これからまだ何かあるのかと思うと…正直本当にしんどい。しかし、いまはこの幸せを噛みしめたいと思う。とても気持ちいいからです。湯船につかる幸せ。これですよね、温泉のだいご味は、はい。ありがとうございます。


 心に落ち着きがないとき

 やさしいことでさえ難しく思える

 そんな日は

 うまいもの食って寝るだけさ

 太陽は、また昇る。

 人は、かれる暇なんかないのさ 

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