第5章 デビュー編
第31話
「――卒業式もすぐそこまで近づいている。中学校生活最後の日々を大切に過ごすように」
ここ数日のお決まりのフレーズで、担任の先生は今日もホームルームを締めた。
起立。礼。それから各々割り当てられた掃除場所へ。
私ものったりとした動きで教室の掃除用ロッカーから箒を取り出す。
「……」
掃除中でも構わず交わされる、友だち同士の賑やかな会話も、どこか遠くに感じてしまう。
ぼんやりと床を掃く私の頭には、昨日の帰り際のこと――張り詰めたような邂逅が思い出されていた。
* * *
夕刻の駅前は、休日ということもあって人通りも多く喧騒が広がっていたけれど。
それでも、この一角は。世界から切り取られたように、言葉も、視線も、はっきりと感じられた。
星司さんは驚いた表情で、『マコト』と呼ばれた銀髪の女性はいぶかしむような表情で、互いに見詰め合う。
その傍ら、金髪の小さな女の子は、睨むかのようにこちらを見ている。
そして、私は。私は――
私は、どんな表情をしているのだろう。
「……久しぶりだな。真琴」
「……そうね」
まず二人が交わした言葉は、どこかそっけない、距離を探るような感じがあった。
そのまま二の句を継ぐことなく、しばしの沈黙が訪れる。
互いに、言いたいこと・言うべきことを迷っているように、視線を揺らがせていた。
いつもはほとんど遠慮なんてしない星司さんがこんなふうになっているのは。あの契約の夜、自身の心の内を明かしてくれた時のように、とても得がたくて、私にとっても尊くて、そんな時くらいだったから。
そんな星司さんを別の女性が引き出していることに、私の心は身勝手にざわついていて。
「……その子が」
『マコト』さんの視線が、いきなり私に向いた。
まるで私の胸のざわつきを咎められたかのように感じて、肩がビクリと跳ねてしまう。
「オーディションしたっていう、あんたの弟子?」
「ああ。若菜加奈だ」
「ふうん……」
値踏みするような視線に射竦められつつ、私はどうにか小さな会釈を返す。
視線が私を刺していたのは、ほんの数秒の間で。
「……行くよ、キャロル」
と手を引いて、踵を返す。
『キャロル』と呼ばれた女の子は結局口を開くことはなく、最後に一度こちらを一瞥してから、買い物袋を揺らして雑踏の中に消えていった。
その姿を、星司さんはじっと見ていた。
星司さんは苦しさを滲ませた表情を浮かべていて、それはやはり、あの契約の日に見せたような、私にとって特別なもので。
私は彼の横顔から、自分のてのひらへと視線を落とす。
さっきまでは確かに繋がっていたてのひら――だけじゃなく、頭も顔も、すっかり冷えてしまっていた。
「……すまん。俺たちも、早く帰らなければな」
垂れていた頭に星司さんの声が降る。
星司さんの次のアクションが来る前に、私はガバッと顔を上げて、
「あ、あの、私、もう大丈夫なので! その、ひとりで、帰れるので……!」
夢中で、まくし立てる。
「だが」
「本当に大丈夫です、ほらっ!」
未だ心配そうな星司さんにアピールするように、その場でバタバタ足踏みをする。
とにかく、早く。そんなことを願いながら、大きく頭を下げる。
「……今日は、ありがとうございました! 楽しかった、です! それではっ……!」
勢いよく言い切って、顔を見ることなく振り返り、駆け出すようにその場を離れる。
悲しさや空しさ、申し訳なさにぐちゃぐちゃになった瞳に気付かれまいと、ただただ、必死に。
* * *
「……はあ」
思わず大きなため息がこぼれた。
いろんなネガティブな気持ちがこめられたため息の、しかし一番ウェイトを占めていたのは、やはり罪悪感だった。
私のことをすごく心配してくれていた星司さん。
なのに、私がとってしまった態度は、本当、最悪だった。
あんな逃げるような――そのくらい、あの時の私は、不安で、恐ろしかった。
するりと離れていた手が。
他の誰かに見せた星司さんの弱みが。
二人の間に作られた、ただならぬ雰囲気が。
あまりにも身勝手だとわかっていたけれど――それでも、知りたくなかった。知るのが、怖かった。
あの後、星司さんは変わらず私に手を差し伸べてくれたのだろうか?
私の手を握って、その温かさを分かち合ってくれたのだろうか――?
いつしか清掃時間も終わっていて、周りはすっかり放課後の空気。
これからの予定を話し合う穏やかな教室の中で、私は一人、憂鬱だった。
私の所為とはいえ――今日のレッスンは、絶対、気まずい。
「……誰なんだろう、あの人」
自分にしか聞こえないくらいの声で呟く。
一日経っても鮮明に思い出せる、凛と咲く銀の美貌。
星司さんとの間に、そして一瞬とはいえ私との間にも流れた、一触即発のような空気は、きっと気のせいじゃない。
まるでお昼のドラマでよくある、元カノと今カノが鉢合わせしてしまったかのような――
「いや今カノではないけどもっ!!」
「ヘイ加奈うわあーー!?」
私がいきなりあげた素っ頓狂な叫びに、いつの間にかやって来ていた雛ちゃんが仰天する。
「えっ、わっ! ご、ごめんね雛ちゃん……!」
「お、おう。いいからいいから」
おろおろしだした私が逆に落ち着かされる始末。
今日は朝からこんな不安定な調子で、雛ちゃんにも穂波ちゃんにも心配されてしまっていた。
「今日ってレッスンある日だっけ?」
「う、うん、そうだよ」
「そっかあー。穂波も今日は練習だっつっててさ。たまには一人で帰るかー」
唇を尖らせて自分の席にバッグを取りに行く雛ちゃんは、ちょっと拗ねたような様子。
だからってわけじゃないけれど、私もほんの少し、レッスンを休んで雛ちゃんと遊びに行きたい気持ちになってしまって、そういう逃げ腰がダメなんだって、またまた自己嫌悪に陥ってしまって。
そんな時に、ちょうどスマートフォンがメッセージの着信に震えた。
表示された送信者の名前――『鳥海星司』を見て、心臓がきゅっと縮こまる。
もしかしなくても、昨日のことだ。
怒られるだろうか。
失望されるだろうか。
全て、終わってしまうだろうか――
「……っ」
それでも。怖くても、向き合わなければ。
ぐっと勇気を振り絞って、メッセージを開く。
『鳥海星司:
昨日はありがとう。あの後、大事はなかっただろうか?
君は大丈夫だと言っていたが、やはり休んだ方が良いように思う。
よって、今日のレッスンは休みということにしたい。よろしく頼む。』
読み終わって、まず、想像していたような内容ではなかったことにほっとして。
次いで、レッスンが休みになったことに、もう一度ほっとしてしまった。
星司さんが慮ってくれている体調面は、そもそも昨日からして別に不調ではなかったけれど、精神面において、今は時間をおいてくれたことがありがたかった。
とりあえず、返事をしなければ。
ぱっぱっぱっ、と文面を入力していると――再度、スマートフォンが震えて、
「あっ」
と声が出た時には、既に、タイミング良く(あるいは、悪く)掛ってきた電話を、入力の動作の流れで取ってしまっていた。
ど、どうしよう……。
表示されていた番号は見覚えのないもので、アブない業者とかだったらと思うと怖いけれど、電話を取ってしまった手前、返事をしないと悪いような気もする。
「も、もしもし……?」
意を決して、おっかなびっくり、そう返事してみれば。
『もしもし、若菜加奈さん?』
返ってきた声は、薄っすらと聞き覚えのあるものだった。
耳にした言葉の数は少ない。けれど、あの人混みの中でもはっきりと聞こえて、何度も思い起こした声だった。
『昨日の夕方、駅で会ったんだけど、分かる?』
「……はい」
星司さんに『マコト』と呼ばれていた、あの
思ってもいなかった、まさかの展開だった。心臓が、ドキドキと緊張しだす。
『いきなりごめんなさい。今、大丈夫?』
「えっと、ちょっとなら……」
言いつつ、ちらりと周囲を一瞥。
教室内で電話をするのは、あまり褒められたことではないだろう。
良くないことで、通話相手もよく知らない人で、しかも少し怖くて――でも私は何故か、この繋がりを断ってはいけないと思った。
身体を縮こまらせたりスクールバッグで壁を作ったりして、なるべく隠せるように工作をする。
『少しお話できたら、と思ったんだけれど、都合のいい時ってある?』
「……お話、ですか?」
繰り返しながら、背筋を冷たいものが撫でる。
さっき一瞬頭を過った元カノ今カノ修羅場ではないけれど、昨日のただならない雰囲気からのこの呼び出しは、やはり、ただ事ではない予感がある。
スマートフォンの向こうの『マコト』さんがコホンと咳をして、それから。
『――星司のこと』
その一言で。
今までの星司さんとの日々や、交わした言葉、垣間見た思い――いくつもの、大切な欠片が胸の中に浮かんできて。
ああ、そうか、って。私の心は決まった。
『昔のこととか、今のこととか。……知りたくない?』
「……知りたい、です」
迷わず答えた。
スピーカーからは、小さく『……そうよね』と聞こえて、それから私たちは二言三言を交わし、通話を終えた。
私は星司さんへの返信を再開。それも送ると、スクールバッグを手に決然と立ち上がる。
「あれ、加奈?」
どうやら私はかなり早歩きをしていたみたいで、校門のところで帰ろうとしている雛ちゃんに追いつく。
雛ちゃんは、ちょっと驚いたような顔をした。
「なんか、さっきまでと顔つき違うじゃんね?」
どうやら、なんでもお見通しみたいだ。
それが嬉しくって、私は精一杯、強がりの笑みを浮かべて、言う。
「うん。……ちょっと、これからね」
「そっか。よくわかんないけど、ファイト!」
「うん!」
そして手を振って別れて、雛ちゃんとは別の方向へ。
私たちの帰宅路とは逆の道を、風を切って歩く。
曇天の心は、まだ全て晴れたわけではなかったけれど。雲の切れ間から差し込む、一条のきらめきを見つけられた。
自分の気持ちを、したいことを、向き合いたいものを自覚してしまったからには、立ち止まってはいられないんだって、そう思った。
だから私は、その先に行こうと、一歩を踏み出す。
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