第14話
時計はさらに歩みを進め、午後九時と少し。
浴室には、ほのかな
優花さんの髪から漂う、あの、蠱惑的なオトナの香りだ。後日値段を調べたところ、かなり高いシャンプーだと知り、私はとても恐縮してしまった。
ぴちょん、とシャワーから水滴が落ちる。
私は湯船に身を沈め、ふうう、と熱っぽい息を吐いた。
頬に差す朱色の残滓は、お風呂にのぼせてしまったからというわけではない。
思い出そうとしただけで、また、赤みが戻ってきてしまいそうになる、優花さんとの女子会によるものだった。
* * *
「すぐ、終わるから……」
「っ……!」
私は身を固くして、目を閉じた――。
その横を、優花さんの手は通り過ぎる。
直後、カタッ、と顔のすぐ横の何かを抜き取るような音をたてる。
「……へっ?」
私が目を開けると、にっこり笑顔の優花さんが、表紙に流麗な筆記体で『Memories』と印字された一冊のアルバムを手にしていた。
「ホラ、すぐ取れた!」
後ろを振り向けば、私の頭のすぐ脇、本棚の一段に一冊分の空きができている。
どうやら、また私は、盛大に空回りしてしまったらしい。
いや、何かを期待していたとか、そういうことは全然まったく何もないんだけれど、とにかく、高鳴る鼓動をなんとか鎮めようと息を整えつつ、
「あっ、あるばむ、ですか!」
と、上擦った声で尋ねる私に、優花さんはいたずらっぽく笑う。
「ふふっ……じゃーんっ!」
賑やかな効果音を付けながら、ページをめくる。
するとそこには、魔法少女のステッキを握り、フリフリの衣装を着せられた少年の姿。
「……これ、まさか」
私は、なんだか嫌な予感がして、チラと優花さんを窺う。
対する優花さんは、変わらない満面の笑み。
「そうでーす! 星司君の、小っちゃい時の写真でーす!」
案の定、だった。
「い、いいんですか!?」
私は思わず、そう確認せずにはいられない。
だって、自分の小さな頃のアルバムを勝手に開陳されるって、普通は、怒っても仕方ないことではないだろうか? しかも、格好が格好だし。
しかし優花さんは、一切悪びれる様子のない会心の笑みで、言い放つ。
「いいんです! だって私、星司君のお姉ちゃんだもん!」
全然理由になってない。
「でも、」
「……あのね、加奈ちゃん」
私の言葉を遮って、優花さんは、これまでの笑みを消して、突然、憂えた表情を浮かべる。
「星司君は、あんな感じにちょっと大人しいっていうか、あまり自己主張をしないタイプなのね。お姉ちゃんの私でも、たまに、何を考えてるか分かんないこともあったりして……」
優花さんの語り口は、心から弟を心配する姉のそれに思えて、私は口を噤み、真剣に聞き入る。
「でもね。そんな星司君が、唯一、明確に好きなものがあるの。それが、魔法少女」
瞳に郷愁の色を帯びさせて、優花さんはアルバムを撫でる。
アルバムの中の小さな鳥海さんは、まるで昔、私がドリーミィ・スターを真似していた時みたいで、表情こそ今のような少し固い感じだったけれど、ポーズを決めたり、他の子と並んだり、纏った雰囲気は、確かに、楽しそうに見えた。
「だから、説明資料の作成とか、レッスンプランを組んでる時、すっごい楽しそうでね? だから……なんて言うか、ね」
優花さんは儚い微笑を湛えて、私を見る。
「加奈ちゃんにも、もっと星司君を知って欲しいの」
「……はい」
優花さんの真っすぐな視線に、私も真っすぐに見つめ返して、答える。
「それで、加奈ちゃんに、星司君を好きになって欲しいの」
「はい。……はい?」
流れで頷いてしまってから、ん、今、何かおかしなことを言われたような? と、私は首を傾げた。
好き……? ん? んん??
「それでそれで、ゆくゆくは私のことを『優花お
「はいっ!?」
もう本格的に何を言っているのか分からない!
疑問符をいくつも浮かべた私の手を、胡乱な目つきの優花さんが力強く握る。
「これは、決して私がそっちの方が萌えるからとか、不純な理由で言ってるんじゃないの。本当よ?」
「じゃあどういうことなんですか!?」
「私が思うに……加奈ちゃんは、バランスが悪いの」
バランスが、悪い……?
異様な説得力を帯びた優花さんの言葉に、私はたじろいでしまう。
「加奈ちゃん、ドリーミィ・スターのことは『好き好き! 大好き~~っ!!』って感じだけど、その正体の星司君のことは、何も知らないでしょ? だから、バランスが悪いの」
「な、なるほど」
一理ある、気がする。私はコクッと頷く。
「だから加奈ちゃんは、星司君のこと、いっぱい知らなきゃいけないの」
「なるほど……! それで、バランスを取る、と」
「そう!」
理解は進む。私の言葉に、優花さんも、嬉しそうにパッと顔を輝かせる。
「そしてドリーミィ・スターと同じくらい星司君を大好きになってもっとバランスを取るの!」
「なるほどれない!」
「その末に私を『お
「そこは全然分からないです!!」
なんでかつやつやしだしている優花さんに、私は荒い息をつく。
私の心のオアシスのような存在とすら思えていた優花さんは、私もたじたじなほどの、とんだ暴走特急だった。
結局、論理の飛躍に振り落とされて、なんだか頭が痛くなってくるようだった。
「加奈ちゃん、言ってたよね? 自分はヘンタイじゃないか、って」
「は、はい」
ここにきて、流れはまさかの元々の相談内容に接続する。
「いい? 私はこれから、大事なことを言います」
「は、はいっ」
優花さんはそんな風に改まるので、私はなんかもう、どうにでもなってくれみたいな気持ちで、背筋を伸ばして待ち構える。
「女の子が、男の子に憧れたりドキドキしたりするのはね……普通のことなの!!」
「!!」
電流が走ったかのような衝撃だった。
そうだった……! 確かに、その通りだ!
小学校時代をドリーミィ・スターに捧げ、中学校時代は夫と死別した女性が尼僧に身をやつすかの如く世俗を遮断していたツケが、ここに来て私の中の常識的判断を奪ってしまっていたような、なんかそんな境地になってくる。
あと、魔法少女アニメとかの、女の子同士の友情や少しアブナイ関係とか、そういうものばかりに触れ過ぎていた所為もあるのかもしれない。
「で、でもっ!」
しかし、私の中に残った、最後の理性が一矢報いんと立ち上がる。
「相手は、ミニスカート・ドレスの魔法少女な男の子ですよ!?」
「それが何の問題があるというの!?」
「!?」
その最後の抵抗は、逆に質問を返されるという、ミイラ取りがミイラになる展開を生んでしまう。
「男の子がスカートを履く……むしろ、それでこそ爆萌えよっ!!」
爆萌えよっ――――――!!
爆萌えよっ――――!
ばくもえよっ……
文字通り、爆弾が投げ込まれたような破壊力のある言説に、私の頭のキャパシティは完全にオーバーしてしまうのだった。
返す言葉を見つけられず、頭に反響する「爆萌えよっ」の声にくわんくわんと目を回す私の沈黙を、優花さんは肯定、あるいは自分の言葉に感銘を受けたものと取ったのか、
「さあ――これからめくるめく星司君ワールドの始まりよ!」
「ひええっ!」
悲鳴を上げた私を、優花さんは後ろからがっちりホールド。
背中に当たる柔らかい感触にドキマギする余裕もなく、私の目の前で、アルバムのスライドショーが開始される。
「この写真はね――!」
「ひゃああっ!?」
「そっちの写真なんかね――!」
「こんなとこまでっ!?」
「あっちは――!」
「きゃーっ!?」
* * *
「……ううっ」
見てはいけないような、ここで口に出すのも憚られるような、いろんなものを見せられてしまったような気がする。
勧められるままお風呂に入って、火照った頭はそのまま茹でられて、結局、のぼせてしまったような状態だった。
フラフラとした足取りでお風呂を出た私は、脱衣かごに起こった異変に気付く。
私の下着がない。
代わりに、私のものじゃない、なんというか、すごくすごいのが入ってる。
「ふっ……気付いたようね」
「優花さん!? 一体何を……、」
優花さんは脱衣所の入り口の壁に背中をもたれさせて、西部劇のガンマンが拳銃を引っかけてくるくると回すような趣で、私のパンツをくるくると回している。
「本当に何してんですか!?」
「いいこと? 加奈ちゃん」
私の疑問を華麗にスルーして、優花さんは携帯電話を掲げる。
それはよく見たら私の携帯電話で、画面の表示は送信済みのメールで、宛先は鳥海さんで、内容は『大切な話があります。事務所で待っていてください。』――
「ええええーー!?」
「加奈ちゃん! 昔の偉い人曰く『鉄は熱いうちに打て』よ! さあ、今すぐ星司君の下へ! こんな日のために買っておいたそのすごいやつを着けて!」
「えっ、ちょっ、えっ」
「早く! 私の洗脳が効いてる内に!!」
「ええー……」
* * *
そのあとの流れは、私はあんまり覚えていなかった。
あまりにもあんまりな怒涛の展開だったこともあるし、のぼせ気味だったのもある。
穂波ちゃんならいざしらず、私程度の腕ではツッコミも追いつかず、激流にただただ流されるように、流されて、流れ流れて――
「……で、大切な話とはなんだ?」
私は今、例のすっごいやつを着けて、夜の事務所に二人きり、鳥海さんと相対していた。
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