第20話 奪還
*
「なんて、出鱈目…ッ!」
悪態は宙に消える。
高速で飛行し、あまつさえ空気抵抗すらも感じない。この現状こそが出鱈目以外のなにものでもなかったが、彼女はそれを棚に上げているようである。
なので、おれも棚に上げることにした。
「もっとスピードでねーのかッ!」
「好き放題言ってくれるじゃない…!」
あと一歩が遠い。
肉薄することはできても、何故か最後の最後で縮めることができない。フローラも歯がゆく思っているのか、苦々しい顔をしている。
いや、というよりも。
随分と汗をかいているような。
「あーもう、あんた邪魔ッ! 捨てていい? 捨てるから!」
「ちょ、まてよッ! 即決すぎだろっ!」
この女、本気で手を緩めやがった!
必死に細腕へ縋りつく。コンマ数秒遅れれば間違いなく落下していた。
眼下に見える蜂の群れはもちろん、この高さから落下するのはいくらなんでも洒落にならない。っていうか、間違いなく死ぬ。
「お前、まじふざけ…」
言いたいことは山ほどあったが、その全てのみ込んだ。
いや、飲み込まされた。
彼女の目が限りなく真剣だったのだ。
「いい? テツオ」
「なんだよ?」
「あたしはセルタを助けたい」
「おれもだ」
「そのためにあいつに追いつかなきゃいけない」
「その通りだ」
「でも、今のままじゃ追いつけない。だから」
「…だから?」
「覚悟しなさい」
何を、と聞く間もなかった。
フローラの顔を見上げていたのに、いつの間にか見下ろす形になる。縋りついていた筈の細腕に胸元を掴み上げられ、フローラの視線は遙か前方を睨み付けている。
いやいやいや、ちょっと待った…っ!
先の展開が予想できすぎて抗議する気持ちもあった。あまりにも無謀でおれへのリスクが高すぎる。ていうか、失敗すれば間違いなくおれが死ぬ。
けど、案外いけるんじゃないか?
そんな思考が脳裏をよぎり、ただフローラにされるがままになっている。
「いくわよ、テツオ」
静かな声。
胸元を握る腕から力みを感じた。赤い輝きが増し、目がくらむ。ため込まれた力が今か今かと解放の時を待っている。
おそらくは、その頂点。
そこで、ようやく肚が決まった。
「思いっきり、いけっ!」
「うぉおおおおおおおおりゃああああッ!」
咆哮。
込められた力はフローラの全身を駆使した投球フォームから解放された。
思考が加速する。
遠くに見えていた背中に徐々に近づいているのがわかる。空気の抵抗、風の音、急加速による衝撃。その全てがどこか遠くに行ったような気がした。
おそらく一秒に満たない時間。
その刹那に満たない時間で、
「なッ?」
あの化け物は反応した。
急激な方向転換。
視界から消えたと錯覚するほどの速度。
思考している時間はない。直感を信じて手を伸ばし、
「掴んだッ!」
堅い感触。
およそ生物のそれとは思えない硬度。それがあの化け物のものだと確信し、全身をぶつけるつもりで引き寄せた。
「セルタッ!」
見えた。
セルタは眼前でぐったりとしている。こちらの呼び掛けにも応えず、瞼は閉じられたまま。
ブラックアウト。
生身ではあの急加速に堪えられなかったのだ。
彼女に手を伸ばそうとして、何かに腕を掴まれた。
瞬間、鎧が軋みを上げる。
「がああああッ!」
警告音が響く。
と、同時に腕に激痛が走った。
握りつぶされる。
全身から冷や汗が噴き出る。瞬間的ではなく継続する傷み。これまで経験したどの痛みとも似つかないそれは、おれの思考とは別に肉体の自由を奪った。
吐き気と目眩。
鈍る思考と強張る肉体。
その狭間で、自分に出来る事を判断した。
「フローラァアアアッ!」
叫ぶ。
と、同時に間近で赤い光が瞬いた。
化け物の手が緩む。
そこを逃さず、セルタを抱える腕にしがみ付いた。全身を奮って、その腕に抱えられた少女を払い落とす。
眼下、落下する少女を赤い光が追う。
あとは大丈夫。
フローラがセルタを救う。
そして、おれは。
「逃がさねえぞ…っ!」
おれがすべきことをする。
セルタを追おうとした化け物にしがみ付く。背後から首元へ両腕を回し、両足を股関節に巻き付ける。背筋を使って締め上げ、全身の自由を奪った。
落ちる。
先ほどまでの浮遊感は消え、瞬く間に暗雲が遠ざかる。背中に衝撃。地面ではなく蜂の集団に衝突した。
既に意識は朦朧としている。
腕の中でじたばたと化け物が抵抗をしているような気がしたが、それももはや無意味だ。
おそらくは、あと数秒。
来るべき衝撃に備え、おれは全身の力を抜いた。
*
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