第19話 空を跳ぶもの
*
それは、突然やってきた。
おそらくは一瞬に満たない時間。
けれど、その瞬間のことはこれまで生きてきた中で最も鮮烈に焼き付いた。
*
響く轟音。
衝撃が室内を揺らす。
天井が崩れたのだ。
見上げる視界に無数の瓦礫が降ってくる。
その向こうから何かが、室内へ飛び込んできた。
襲撃者。
落下する瓦礫よりもなお早く、襲撃者は室内へと降り立った。
「えっ?」
鎧すら感知しえなかった襲撃者は、こちらの思考が追い付く前に事を為した。
セルタが消えた。
その事実を認識し、無意識に視線が影を捉えたのは同時だった。遙か上空、小さくなる姿。セルタは呆然とした表情のままこちらを見ている。
セルタを抱えた何かは人影のように見え、そのくせ人間には不可能な動きで遠ざかっていく。
不意に、襲撃者が背中越しにおれを見た。
「っ!」
息を呑む。
笑顔。
まるでお面に描かれたようなそれは、一切の生気を感じさせない。人間のように見えるが、間違いなく人間ではない。
奴らだ。
あの蜂と同じ、化け物だ!
「ざっけんじゃねぇええええええッ!」
手を伸ばした。
自分の叫び声が後から響く。
自分でもわからないままその背中に追いついた。
あと少し!
その背中を掴もうとして、
「がはっ!」
胃袋を潰された。
蹴られたのだ。
呼吸が止まる。本能が身体を縮みこませる。酸欠で視界が明滅した。舌が無駄に突き出され、吐き気が思考を濁らせる。幸いなことに胃の中身はぶちまけずに済んだ。
衝撃。
地面とは明らかに違う固い感触。甲板の装甲だと気付くのに数秒。視界に広がる暗雲の存在に気付くまで更に数秒掛かった。
「ぁ…っ!」
身体が動かない。
こんな感覚は久しぶりである。全力疾走直後にぶっ倒れるのと似ている。なるべく全身から力を抜き、回復を待つ。
焦るな。
指先一本動かすのにも難儀する現状で追いかけても取り返せない。あと数秒、いや、一呼吸でもいい。その分を回復に努めれば追いつける…!
「はっ、そう甘くねえか…!」
羽音が迫る。
蜂。
遙か上空から無数の影が降ってくる。
この鎧が貫かれることはない。だが、ここで時間をとられればセルタに追いつくことはできない。
全身に無理やり力を入れる。
一瞬、意識が遠のいた。未だに酸欠が回復していない。それでも立ち上がることができた。迫る無数の蜂を見定める。
退路はない。
セルタを救うにはあの化け物と同じルートを最短で突破しなければならない。
情報が流れ込む。
捉えた。
遙か上空。
あの襲撃者は文字通り空を駆けている。翼はなかった。どういう原理でそんな真似ができるのかはわからなかったが、現にセルタを抱えたまま飛でいたのだ。
ならば、
「逃がさねえ…っ!」
それに追いついたおれも飛べるはずである。
膝を柔らかく、腹の下に意識を持っていく。イメージは砲丸。放たれれば標的に届くまで全てを弾き飛ばす。
角度修正、気合は十分。
重心を下げる。
太腿に込めた力を足先へ伝達、背筋に掛かる負荷を食いしばって堪える。
ここから先は何も考えない。
あとは自分の身体を信じるだけである。
「い、けぇええええッ!」
跳躍。
急激な加速と全身を貫く衝撃。
数瞬の意識の空白の後、視界一杯に暗雲が広がった。
浮遊感。
眼下には無数の蜂が見える。あかつき丸の姿は蜂の影に隠れて見えなかったが、向こう側には荒れた大地が広がっている筈だ。
上空うん千メートル。
蜂の群れに突っ込んだ時の後遺症なのか、また情報が流れ込んでこない。意外に衝撃に弱いらしい。自分が落下しているのかいまだに上昇しているのかもわからない。
先ほどまでの情報からおおよその方角に当りを付け、肉眼で探す。
と。
「いやがった…っ!」
点にしか見えない。
けれど、間違いない。
鳥のように優雅でもなければ、飛行機のように無機質でもない。飛び跳ねるように加速と減速を繰り返す様は、蜂が飛ぶ姿ともまるで違う。
こちらの方が高度は上。
かといって、このまま落下しても追いつけるわけがない。
ならば、やることは一つ。
一歩踏み出す。さらに、もう一歩。
遅い。
もっと早く。
もっともっと早く。
せめて一歩でも、なんてことは言わない。
あの化け物にできておれに出来ないことなどない。少なくとも出来なければセルタを取り返すことなど不可能。
できるできないじゃない。
やるんだ。
やるしかねえんだよッ!
「うぉおおおおおおおおおおおッ!」
動く、動く、動く。
手足が自分のものと思えないほど軽い。
これだ!
このままあの化け物に追いつく。
空を駆ける、空を駆けろ!
と、
「…テツオ。あんた、なにやってんの?」
赤い光が視界を染めた。
浮遊感が消える。
背中から回された細腕がおれを抱き止めたのだ。
見上げるとすぐそばで少女が見下ろしている。何故か、妙に顔を顰めている。気味の悪いものでも見る視線。気のせいか、背中から回された手が緩い気がした。
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「セルタが攫われた!」
「なっ!」
表情が一変する。
驚愕から怒りへと。
細腕に力が籠められ、溢れんばかりの怒気が物理的に鎧を焼いた。
膨れ上がる殺気。
鎧から警告音が響く。どんな衝撃だろうと耐えった鎧が怒気にすら反応している。その事実は恐ろしいと同時に、頼もしくもあった。
彼女となら、あの化け物とも戦える。
「あんた、一体」
「フローラッ!」
「あそこだッ! とっと飛べッ!」
一点を指す。
おれの肉眼では点にしか見えない。だが、フローラには見えたようだ。
一瞬で、景色が遠ざかる。
赤い残滓が宙に残り、点でしかなかった姿が輪郭を帯びていく。
徐々に鮮明になる姿。その動きを見て、おれは唸るしかなかった。
化け物は宙を蹴って跳んでいる。
やはり、おれのやり方は間違っていなかったと確信した。
*
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