第3話

                  *


「三喜男と玲なら奥にいるよ」

「え、あいつら来てるんですか?」

「馬鹿みたいに食ってるよ。あんたの分も持ってくから待ってな」

 そうとだけ言って珀芽は厨房の方へと向かった。

 注文しなくても飯が出てくるのがこの店のいいところである。食べたい物があっても注文させてもらえないが。

 静馬は奥の間へ向かった。

「よっ」

「おう」

「…おはよ」

 室内には一組の男女がいた。

 無駄にガタイがでかい男。

 短髪で顔面に袈裟懸けの傷がある。どう見ても堅気ではないが、顔立ちは意外に端正である。背筋はすっと伸び、無骨な指が箸を器用に扱っている。

 女の方は艶があった。

 綺麗な黒髪と目鼻立ちのすっきりとした顔立ち。着崩した着物から伸びた手足は長く、しなやか。相当な美人である。ただし、外見が、である。中身を知る静馬としては何とも残念なことだった。

 男の方が三喜男、女の方が玲。

 どちらも教育部で静馬と同じ組に所属している。

 静馬は、二人と同じ卓に座った。

「朝稽古をサボったのか?」

「朝飯が足りなかったんだ。これじゃ動くに動けねえ」

 そう言って三喜男は、米をかきこんだ。

 卓には大皿が何皿も積み上げられている。濃厚な油の香りと皿に乗った無数の魚の骨。朝食とは考えられない量に静馬は胸焼けを覚えた。

「…静馬こそどうした。仕事は?」

「今日は休み。気分転換に来た」

 ふぅん、と玲はどうでもよさそうに言う。

 机にもたれかかり、今にも眠ってしまいそうだ。静馬は傍らに置かれた徳利の存在を無視する。ほのかに上気した玲を見て、静馬は改めてもったいないなと思った。

 ほどなく、珀芽が飯を持って現れた。

 味噌汁、白米、漬物、豚肉の燻製と卵を絡めた料理。

 醤油と胡椒を掛け、静馬は両手を合わせた。

 いただきます。

 静馬は黙々と箸を動かした。

「そういや、明後日から授業だっけな」

 静馬が朝食の半分を片付けた頃に、三喜男は言った。

 静馬は一度箸を止める。ここに来た目的を思い出したからだった。目的、といっても先ほど思いついたことである。

「二人とも課題やった?」

「あ?」

「…ああ、なんか発表するんだっけ?」

「そうそう。実は俺まだやってなくてさ、二人はどうかなって思ったんだけど」

 静馬の言葉に、二人は顔を見合わせる。

 言ってから静馬自身気づいた。この二人がどうして課題をやっているだろうか。

「すまん。聞いたおれが馬鹿だった」

「おい」

 三喜男は眉間にしわを寄せたが、玲はうんうんと頷いている。

「…私たちは話す内容もないから。木刀振ってるだけだし」

「ま、そりゃそうだわな。稽古なんざ、毎日似たようなもんだし」

 静馬はため息を吐いた。

 事実、こいつらの仕事は刀を振って走り回ることなのだ。

 三喜男と玲は道場の内弟子である。

「じゃ、どうすんだ? 岡ちゃん、結構厳しいぜ?」

「型でもするさ」

「型?」

「…演武」

 静馬は首をかしげる。が、間を置いて理解した。

 型とは武道における基本動作である。演武も同様の意味を持つ。それを見せるというのは普段の仕事を見せつつ、成果を見せるものではないか。

 思わず、呟いた。

「なるほど」

「ま、発表はどうでもいいが久しぶりに集まるのはいいな」

「…みんな元気にしてるかな」

 のそのそと玲は上半身を起こす。酒臭い。

 静馬も意見に同意し、箸を動かした。なるべく早く。

 なるほど。

 やはり、何かをするには誰かと話をした方が良い。

 今日と明日の予定を脳裏でくみ上げる。どうやら、今日は徹夜することになりそうだった。


                   *


 静馬は三喜男と玲に別れを告げ、珀芽の店を出た。

 まだ事務所に戻るつもりはなかった。行く先は郊外にある書店である。徒歩で行くには時間がかかるため、巡回車に乗り込むことにした。

 停留所には何人か先客がいる。いつの間にか、通りにも人影が見え始めていた。

 待つこと数分、滑るように車体が現れた。

 四つの車輪の上に四角い車体が乗っている。よく磨かれた硝子窓と車体が見ていて気持ちいい。つい先月完成したばかりの交通機関は街の住人に受け入れられたようで、車内は満席だった。静馬は立ったまま目的地へ向かう。

 市街地から郊外へ。

 駄賃を車掌に払い、停留所に降りる。

 地面に黒い液体を滴らせながら巡回車は街へ戻っていく。静馬はその姿を見送った。轍の間を沿うように曳かれた一本線が、数秒の間を空けてから消える。

 車体が視界から消えてから、静馬は目的地へと向かった。

 自動車は紋筆を動力に動いている。

 静馬も詳しい原理はわからない。ただ、先頭と後部から垂れている黒い液体は紛れもなく、紋筆で利用される墨汁のそれである。地面に触れて数秒で気化するのはそれだけ消耗が激しいのだろう。

 数十人単位の人間を載せ、あの大きさの車体を動かすのだ。相応の熱量が必要になる。あとは印の組み合わせだが、車輪を動かすほかにも空調の調整についても考えなければならない。いや、そもそも運転手はどうやってあの車体を操っているのだろうか。複数の印を同時に起動しなければあれほど快適な乗り心地にはならない。問題は具体的にどれだけの印を発動させているか——そんなことを考えていると、目的地に着いた。

 郊外の広大な敷地を余すことなく利用した建物。

 数百人を収容できる広さに加え、通行路を計算されて作られた本棚による間取り。棚に並ぶ書籍は無数にあり、その全てを購入することができる。静馬にとっては夢のような場所である。ただ一冊の値段が高すぎるのは問題だった。

 店内に入る。

 会計が入口近くにあり、本を買おうとする人達が列をなしているのが見えた。

 客層は広い。小等部に通う前であろう小さな子供から杖を付いた老人まで。休日のせいか家族連れが多いように見えた。

 目的の棚は店内の奥まった場所にある。静馬は会計の脇を抜け、奥へ向かった。

 文学、化学、数学。

 天井にぶら下がる標識を辿る。意外なことに以前訪れていた時とは標識の位置が変わっていた。どころか、本棚に配置された本の密度上がったようにも感じられた。さらに本が増えるのかもしれないな、と静馬は思った。

 目的の標識が見えた。

 地理。

 本棚から適当な一冊を引き抜き、開く。静馬は、ほうと息を吐いた。

 開いた頁には無数の印が描かれている。

 一見すると、筆でめちゃくちゃに塗りたくったような絵である。だが、実際は違う。幾重にも重ねられた印はそれぞれを補い合う形で配置されている。わかるのはそこまでである。静馬には実物を見ても、未だに理解できない部分があった。

 印を起動する。

 ぶぅおん、と音がする。塗りたくられた絵が発光し、画が浮かび上がった。

 異国の風景とおそらくは筆者であろう人物の写真。右下には枠取りされた目次が配置され、色とりどりの様々な文字が躍っている。

 静馬が手に取ったのは異国の旅行体験記である。

 海を渡った先にある異国の伝記は、静馬にとってだけではなく最近の流行ものだ。今回は亜細亜の中部、静馬がおそらくは一度も足を運ぶことのない土地である。

 静馬が念じると、画面は自動で切り替わる。

 饒舌で諧謔の混じった語り口、何より画面に映る写真が静馬の好みだった。

 お上品に距離をとって撮られたものではなく、贔屓目に見ても素人が撮ったような近距離でぼやけた写真。写真機を片手に街へ繰り出したと言った感じの撮り方がひどく好ましく感じた。

 十頁ほど立ち読みしてから、値段を見る。

 高い。

 銀三十匁とはいくらなんでもぼり過ぎである。静馬の一月分の給料の五分の一に近い。最近は景気が良いとはいえ、これではよほどの金持しか買えないではないか。

 もう一度、本に目を通す。

 惜しい。今回は久々の当たりだった、見逃すには非常に惜しい。

 給料日はつい先日だった。貯えはそれなりにあったが、この出費は痛い。痛いが見逃すにはあまりに惜しい。

 もう十頁だけ、と目を通してから買うことに決めた。決め手は民族料理。作り方まで書かれたそれを、三蔵に見せてやりたかったからだ。

 会計へ向かおうとして、


「あの、これってどうやって点けるんですか」

 

 そんな風に声を掛けられた。


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