第2話

 外はすでに暗くなっていた。

 手続きを終えた後、静馬は良二に連れられて外に出た。入口の両脇を固めた守人達の視線が痛い。いい加減顔も覚えられているのだろう。居心地は悪かったが、これから先の展開を考えると幾分かマシだと静馬は思った。

 良二から荷物を渡される。

「忘れ物がないか確認しろよ。んで、もう来んなよ」

「わかってるよ」

 筆、硯、炭、水筒だけが入った鞄を持って正門へ向かう。待ち人は見えないが、おそらく敷地の外にいるのだろう。

 静馬の師匠は極度の官警嫌いである。

 そんな人間にわざわざこんなところまで来させたのだ。破門されても文句は言えまい。いや、むしろ自分からいくべきだろうか。

 そんなこと考えていると、正門に着いた。果たして、


「お勤めご苦労様」


 静馬の待ち人はすぐに見つかった。

 ひょろりとした男である。背は高く、手足が長い。にこにこと柔和な笑みを浮かべて佇む姿はどこ老練とした雰囲気を醸し出している。

 名を飯村啄木。

 静馬の師匠にして、雇用主である。

 静馬は、開口一番頭を下げた。

「すいませんでしたっ!」

「気にしない、気にしない。話は聞いてるから、早く帰ろうよ」

 軽い。

 およそ不祥事を起こした弟子に対する師匠の態度とは思えない。

 すでにあきらめられているのだろうか、とも静馬は思ったが前回も前々回も同様だったことを思い出す。

 静馬が頭を上げるとすでに飯村は歩き出していた。慌てて追いかける。

「今日は鍋だってさ。三蔵ちゃん、あれ気に入ったみたいだね」

 そうですか、と静馬は相槌を打つ。

 飯村は鼻歌でも歌いだしそうなほどのんびりとした雰囲気で歩いている。拍子抜けどころかある種の気味の悪さを静馬は感じた。

 つまりは、普段通りである。

 尊敬はしていたが、静馬はこの男が苦手だった。

「あの、師匠」

「なんだい?」

「その」

「説教は嫌いだ。反省は自分でするもんだろう」

 そう言われては黙るしかなかった。

 三歩分、後ろに下がって歩く。

 飯村は静馬の態度に気付いているのかいないのか、いや、恐らくきづいているのだろうが、その上で無視しているのだ。

 そういう態度も静馬が苦手とする理由の一つだった。

「静馬君の気持ちもわかるよ」

「えっ」

「俺たちの商売は、まだまだ世間の理解ってもんが足りないからね」

 静馬は言葉の意味をくみ取るのに時間がかかった。やはり、この男とは感性がずれている。言葉自体は、静馬も同意見だった。

 紋筆家は、世間から軽んじられいている。

 筆一本、極論で言えばそれだけで飯が食えるのだ。目に見えるものを作らず、筆で絵を描くだけで高額な料金を巻き上げていく。しかも、お上のお墨付きだ。

 批判の的になるのは当然である。

 なにより、


「誰でも再現ができるんだからね、そりゃ、金を払うのが馬鹿らしくなる」


 それこそが、最悪の問題だった。

 炭と硯、そして、筆。

 これで書店にでも売っている目録があればそれだけで紋筆は再現できる。もちろん、初歩的なものではあるが。

「それは」

「確かに、僕らがやったほうが効率もいいし、長持ちもする。普通の人より色々なことができるよ。けどね、大体の人間はそんな細かいことは必要ないんだ。灯りが点ればそれでいいし、野菜が長持ちするならなおいい。だけど、それ自体に必要以上にお金を掛けようと思う人は少ないんだよ。まして、僕らが要求するのは相当の金額だ」

 僕が言いたいことがわかる、と飯村は言う。

 ここからは耳にタコだった。

 今日はこうつなげてきたか、と静馬は辟易とした。


「だからこそ、人として付き合いが大事になるんだ。君の筆とお客さんじゃない、君とお客さんで仕事は始まるんだ。それを肝に銘じなさい」


                  *


 飯村啄木紋筆事務所は市内の中心街から南に外れた場所にある。二階建ての西洋式の建造物、その一階である。

 周囲の建造物とは明らかに違った趣が良いところだ、と飯村は言う。静馬にとっては周囲から浮き過ぎていて違和感を覚えるだけの建物だった。

 正面からではなく、裏口から中へ入る。

 靴を脱ぐと味噌の香りがした。

 飯村は事務所の方へ寄ってから向かうと言う。静馬も付いて行こうとしたが、先に行くようにと指示された。

 そう言いわれては従うほかない。静馬は階段を上り、廊下伝いに奥の間へ向かう。扉を開けると、小さな背中が見えた。

「あ、おかえりー」

「…ただいま」

 とんとんとん、と一定の間隔で包丁の音が聞こえる。ぐつぐつと煮立つ鍋。食卓にはいくらかの料理が置かれ、中央に火鉢が置かれていた。

 茶碗やお椀はすでに配置されている。

 手伝おうにも段取りはすでに整っていた。仕方なく、静馬は自分の席に座る。ついでに火鉢に触れる。

 ぶぉん、と音がして火がついた。

 印が作動したのである。

「お鍋、持ってくよー」

 静馬はぎょっとした。

 見れば、明らかに身の丈に合っていない大きな鍋を抱えた少女がいる。足取りに不安はないが、それでも見ていて心臓に良いものではない。

 褐色の肌に汗を滴らせ、少女は慎重に慎重に運んでいる。静馬は足もとに落ちている布やら紙やらをどかし、進路を確保。少女が無事に鍋を運び終えるのを見届けた。

 なにをやっているんだ、おれは。

 そんな思いと同時に、静馬は何故かほっとした。

 思いの外、心労があったらしい。

 何度か鍋の位置を訂正し、少女は得意そうな顔を静馬に向けてきた。にんまりとした笑顔。小生意気な態度だったが、まるで邪気を含まない(ように見える)笑顔にはかなわなかった。

 翡翠色の瞳が静馬をじいっと見つめている。

 ため息を一つして、静馬は少女の頭を撫でた。

「ありがとう、三蔵」

「えへへ。どういたしまして」

 お勤めご苦労様です、と言って三蔵は頭を下げた。

 あざとい。

 そうは思いつつも、年下のためか無碍にする気にはならなかった。

 三蔵、と書いてミクラと読む。

 褐色の肌、翡翠色の瞳、そして、幼いながら彫りの深い顔立ち。言葉は流暢だが、明らかに異国の生まれである。

 静馬がこの事務所に来る以前からいたらしいが、詳しいことはわからない。飯村に聞いても、拾ったとしか言わなかった。

 子供盛りであるはずなのに家事をこなし、人見知りではあるものの礼儀を弁えている。そして、謙虚で素直。まさしく理想の子供である。静馬の目から見ても、それは明らかだった。

 不自然なほどに。

 と言っても、それは問題にすることとは思えなかったし、根負けした部分もあった。何より、慕われて悪い気はしない。

 静馬にとっても、三蔵はかわいい妹分だった。

「お、やってるね」

 がらりと扉を開けて、飯村がやって来た。手には布で包まれた何かを持っている。飯村は台所の方へ向かうと、中身を取り出して三蔵へ渡した。

 歓喜の声が聞こえた。

「お肉っ!」

「お客さんからもらったんだ、猪だってさ」

 猪。

 静馬は驚いた。そんな豪勢な代物をよく貰えたものだ。

 三蔵は、早速肉を鍋にぶち込んだ。

 その迷いのない手際に静馬は呆れたが、飯村は笑みを浮かべて席に着いた。三蔵も自分の席に着く。

 ぐつぐつと煮立つ鍋の音を背に、飯村は手を合わせた。静馬と三蔵も倣う。

 唱和。

「「「いただきます」」」

 とにもかくにも、こうして飯村啄木事務所の一日が終わった。ここからは飯村家の団欒である。


                *


「猪肉って、たれはどうするの?」

「卵、でいいんでしたっけ?」

「へぇ、すきやきみたいなんだな」

 他愛ない会話を交わしながら、そそくさと鍋を平らげる。白菜、もやし、豆腐、榎。なにより濃い目の味噌で味付けしたのが幸いしたのか、思いの外癖がない。卵を絡め、白米の上に乗せると箸が止まらなかった。

 静馬が三杯目をおかわりするころには、鍋は空になっていた。飯村は晩酌をはじめ、三蔵は満足そうに足を投げ出している。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様、いや、実にうまかった。三蔵はどうだ?」

「うん、お腹いっぱい♪」

 弾んだ声が心地いい。

 静馬は食後の倦怠感を無視して立ち上がった。三蔵も食器を重ね始める。火鉢に触れ、印の起動を止める。

 重ねた食器を運ぼうと静馬は腰を上げる。ふと、視線に気づいた。三蔵が見ている。

「どうした?」

「いいなぁって」

 ぼそっと呟いて、三蔵は口元を抑えた。

 なにが、とは静馬は言わなかった。正確には言葉に困ってしまったのだ。なんと言うべきか、静馬にはわからない。

 気まずい沈黙を、

「気にすることはない」

 飯村がそっと解いた。

 普段通りに焼酎を注ぎ、普段通りに口をつける。あまりに自然なしぐさで、静馬はつい飯村を見た。飯村は言葉をつづける。

「確かに、紋筆はこの国で生まれた者しか使えない。けど、使えなくても生きることはできる。むしろ、炭の代金もかからないからね。僕らを雇って高い維持費をかけることもない」

 正論である。いや、自分で言うのもなんだが。

 実際、紋筆家に対して払われる金額は高額だった。

 印とは、特定の形を為し、その形に応じて効果を具現化する図面である。前途したように、その種類は多種多様だ。水を井戸から組む必要がないのも、ろうそくがなくとも灯りが灯るのも全ては印のおかげある。

 この技術が生まれたのがいつなのかは不明だが、普及しだしたのはここ十年のことである。陰陽寮が幕府と提携して一般家庭にまで広めることを支援したらしい。授業で学んだ話ではあったが、実際、静馬が物心ついた頃はここまで便利ではなかった。

 だからこそ、世間は紋筆家というのを軽視している。あの若旦那はその典型であった。いや、何もあの男だけではない。静馬はここ最近、あの手の人種からの依頼を回されてきたのだ。

 やれ、代金が高い、あたしにもできそう、落書きじゃないかなどなど。それらの言葉が静馬の堪忍袋を引き裂いてきた。

 思考が脱線しているな、と静馬は思った。重要なのは、もっと別なところだ。

 紋筆は、この国で生まれた人間にしか用いることができない。

 いかなる理由でそうなのかは不明である。ただ、異国の血が流れる三蔵では紋筆を行使することができないのだ。それはつまり、社会生活において多大な影響があるということである。飯村の言葉は慰めでしかない。

 彼女は、生まれながらに諦めるしかない人間なのだ。

 少なくとも、この国で生きている限りは。

 三蔵は、不安げな顔をしている。時折、静馬も目にする表情だった。

 その表情の背景を、静馬は知らない。飯村は、当然それを知っているのだろう。

「でも…」

「君はいつも僕たちに美味しい料理と笑顔をくれる。何よりまだ幼い。自分にはできないことだらけだなんて悩むことはないんだ。これから、ゆっくりと自分ができることを探せばいい。大丈夫、後ろめたいと思う必要はない。君は、ここにいていいんだ」

「…うんっ!」

 三蔵は普段の笑顔を浮かべ、静馬から食器をかっさらった。台所へとかけていく。 静馬は余った食器を持っていこうかと思ったが、「私がやる」の一言で動けなくなった。

 結局、腰を下ろす。

 飯村はゆっくりと酒を含んだ。

 静馬はつまみのするめをくすねる。飯村は驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。

 なんとなく、それが面白くなくてまた手を伸ばす。やはり、飯村は何も言わなかった。

 静馬は、何故自分の機嫌が悪くなったのかいまいち理解できなかった。


                   *


 翌朝、静馬は街へ出かけた。

 行く当てはない。

 いや、行先の目途はついている。ただそこから何をするかを決めていなかった。

 飯村事務所を出て、北へ向かう。市街地へ入ると休日のせいか閑散としていた。店は軒並み閉まり、通りを歩く人の姿はない。昼になれば話は違うが、今はまるで活気というものが感じられなかった。

 大通りを外れ、路地裏へ。

 ここは更にひどい。

 土を踏み鳴らしただけの道に沿うように小屋が無数に並んでいる。

 すべて飲み屋である。あるいはその手の店だ。

 一つ一つの軒先に看板が立て掛けられ、外壁のそこかしこに印が描かれている。夜になればそれらが発動し、一夜限りの歓楽街が現れる。

 その設計に静馬は関わっていた。もちろん、飯村の手伝いでしかなかったが。作業の大変さよりも達成感の方が記憶に新しい。ついこの間のことのはずなのに、静馬には随分昔のことのように思えた。

 そんな縁もあって、静馬はここに度々通っている。今向かっているのはその一角にある店だ。

 襤褸小屋の中でも一際異彩を放っているそれである。

 煉瓦式の西洋風の建築物である。だが、飯村事務所のような建築物とは全く趣が違う。

 赤い煉瓦を四方に積んだだけの物体。

 端的に言えば、そんな建物である。さらに異様なのは通りに面した壁に大きな目が描かれているところだ。

 精巧に描かれているわけではない。一筆書きで描かれた無骨な絵。それこそが、今静馬の正面に見えるものだった。

 静馬は、何とも言えない気持ちになった。これこそが静馬の仕事の成果だからだ。

 飯村に指示され、描いた印。来る度に気恥ずかしくなるのだが、その分誇らしい気分にもなる。

 静馬は瞳の部分に触れる。

 がちゃん、と何かがずれる音がして煉瓦の壁が割れた。滑らかに動く。人一人分が入れる隙間から奥へ向かうと地下へ向かう階段が目に入った。静馬は階段を降りる。

 中は石造りで、壁面には印による明かりが灯されていた。

 背後で扉が閉まる音が聞こえたが、静馬は気にせずに進む。目的地は目の前だった。

 珀芽亭。

 おそらくは外国の意匠によるものだろう。金属の板に彫り込まれた模様は今まで見たことがない。

 扉の取っ手に手を掛ける。

 からんからん、と軽快な音を立てて扉は開いた。

 初めに飛び込んできたのは木の板だった。顔のような模様が描かれている。おそらくは盾だろうか、様々な色彩で描かれたそれは一目で異国の代物だとわかる。

 ほかにも精巧に作られた異人風の人形、壁に立て掛けられた時計、丸い球体など様々な物がところ狭しと室内に置かれている。

 隅の方に卓と椅子があり、卓の上に割り箸と楊枝が細長い容器に入れられていた。

 

「いらっしゃーい」

 

 間延びした声が奥の方から聞こえた。

 静馬が目を向けると、いつの間にか少女がいた。眠そうに目をしばたかせている。

 その仕草があまりにも少女らしくて、静馬はおかしくなった。

 少女は、不機嫌そうに眉根を寄せる。

「なんだ、あんたか」

「すいません。朝飯、あります?」

「ない。…と言いたいとこだけど、すぐ作るよ。ここは飯屋だからね」

 あー眠い眠い、と少女はこれ見よがしに言う。

 奥へ向かう少女へ、静馬は声をかけた。

「珀芽さん」

「あん?」

「目、どうたんでしたんですか?」

「は?」

 少女は怪訝そうに首を傾げた。

 まだ気づいていない。

 静馬は言う。

「両目を閉じてちゃ、前は見えないですよ」

 ぱっちりと開いた一つ目が、二三度瞬きをした。

 少女ははっとした表情を浮かべてから、おでこの目を閉じる。

 次に開いたのはあごの位置、首元、頬。

何度か繰り返して、ようやく両瞼が開いた。

「悪い悪い、見苦しいもんを見せたね」

 珀芽は照れたように笑う。

 その仕草があまりに人間臭くて、静馬は何となく笑ってしまう。

 珀芽、百目。

 目の前にいる少女、いや、彼女は人間ではない。


                  *

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