静馬の印

折口 平

第一部

第一章 黒賀屋静馬

第1話

第一章 黒賀屋静馬


「はぁっ? 払えないって、どういうことですかっ!」

「いや、その、大変申し訳ないのですがぁ」

「いくらなんでもそれはないでしょうっ! こっちだって仕事で来てるんですよっ!」

「私共も辛いんですよ。最近景気が悪くて、いや、何も払わないってわけじゃない。ただ今は手持ちがなくて」

「じゃあ、手形でも証文でも何でもいいんで出してください。そろそろ戻らないと、私もまだ仕事が残っているので」

「いやいや、さすがに証文まで持ち出す必要はないんじゃぁないですかね? いや、払わないってわけじゃないんですよ、払わないってわけじゃ」

 じゃあ、とっと金払え。

 のど元まで出かかった言葉を、黒賀屋静馬は懸命に飲み込んだ。ここでキレては金がもらえない。何より相手の思うつぼである。

 相対する男は眉毛を八の字にして、払わないわけじゃないんですよ、と幾度も繰り返している。なんてわざとらしい。踏み倒す気満々の白々しい態度に、静馬は怒りを通り越して空恐ろしさを覚えた。

 静馬が依頼された作業を終え、支払を受ける段になってのことである。

 案内されたのは狭く薄暗い個室だった。

 照明は暗く、窓ひとつない。痛んだ革製のソファとどこか色あせたテーブルが置かれている。それ以外は何もない。

 静馬自身、歓迎されていないことは承知していたので特に問題はなかった。

 だが、その後の対応は予想のはるか斜め上をいった。お茶がでないのは当たり前、一時間の待ちぼうけはまだ我慢できる。

 金が支払われない。

 もはや忍耐を超えている。それこそ、尊厳あるいは面子の問題である。

「そりゃ、私どもとしても心苦しいですよ? しかしねぇ、あまりに突然でしょ? 点検で問題が見つかって、すぐ修理しなきゃ動かないなんて……もちろん、お宅のことは信頼してますよ。だからって、ちょっと都合が良過ぎるような、ねえ?」

「定期点検を延期してきたのはそちらでしょう? ただでさえ安価な炭を使ってるんです。定期的な点検を怠ればすぐにガタがきます。そんなことは何度も説明したはずですが?」

「まぁ、それは確かに。けれど、毎月の点検の上、修理費まで出るとなると」

「それなら、もう少し安全性の高い炭を使いましょう。工事費は別途になりますが、今よりは経費は嵩まないはずです」

「はぁ、でおいくらで」

「以前、見積もりは出したはずでが?」

「あー、あれですか。その、お安くは、ならない?」

「なりませんね。こればかりはお上が決めたことなので」

「そう、ですか」

 はぁ、と男はため息を吐いた。ついでに舌打ちをしたことも静馬は見逃さなかった。

 ため息をつきたいのはこっちである。

 のらりくらりと話題を変えられるのも我慢の限界だった。静馬は多少強引にも話をつけることにした。

「とにかく、点検料と修理費は払ってもらいますからね」

「いや、ですから」

「これに応じてもらえないなら、出るところに出させてもらいます。うちだって商売でやってるんですから」

「そりゃ、わたしだって馬鹿な話だとは思いますよ。だけど、うちの若旦那が」

 

 がらり、と唐突に扉が開いた。

 

 静馬は反射的に視線をそちらに向ける。

 そこにいたのは大男だった。

 背丈は六尺を優に超え、七尺に届かんばかりである。着物の上からでもわかるほど胸板は盛り上がり、首が異様に太い。その上に乗った顔は大造りで、眉毛は太く、鼻が高い。およそ日本人とはかけ離れた体躯と容貌をしている。

 静馬は天を仰ぎたくなった。これで話がまとまらないと確信したからだ。

 大男は、見た目に相応しい野太い声を発した。

「おお、なんだ。飯村のところの小僧じゃないか。うちになんか用か」

「…今日は点検があったのでお邪魔させていただきました。そこで欠陥が見つかり修理させていただいたところです」

「なに?」

 ぎろり、とにらみつけられる。

 本当に勘弁してほしい。

 むき出しの敵意に静馬はいら立ちを覚えた。目の前の男を相手取ったときとは、違う感情。敵意には敵意を。静馬は態度に表れぬよう、努めて無表情を装った。

 大男の視線が移行する。

 静馬の目の前にいる男が、びくりと身を強張らせた。

「おい、俺が言ったこと、覚えてるよな」

「えっと、すみません若旦那。しかし」

「しかしもなにもないだろうが、ボケ」

 腹の底に響く声。

 目の前の男は一言だけで委縮してしまった。

「俺は検査代を見直してもらえといったはずだ。検査代と修理代だ? 検査代の見直しはどうした?」

「あ、あの、その。見直しをしてもらおうと思ったのですが、丁稚の奴らから湯の出が悪いということで、喫緊に見てもらう必要があると」

「言い訳はするなといつも言っているだろうがっ!」

 怒号。

 男は目に涙まで浮かべて言葉を失っている。大男の眼光は鋭さを増すばかり。静馬は目の前の男に同情したくなった。

 照目又造。

 身の丈七尺に迫る偉丈夫で、大浴場照目の若旦那である。性格は至って傲慢。他者を静馬が所属する事務所のお得意先であり、外見に見合った剛腕経営者である。

 客先であっても手代や番頭に罵声を浴びせ、その威容を見せつける。

 静馬が最も嫌悪する人種である。もっとも、相手の方も同様であるらしいが。

 照目はひとしきり男を威圧すると静馬に視線を向けた。

 不快な視線。見下していることを隠そうともしない。

 静馬はざわつく感情を懸命に押さえつけた。

「というわけだ。お取引願おう」

「ふざけたことを言わないでいただけますか? 料金を払ってもらうまで帰れるわけないでしょうが…!」

「話を聞いていなかったのか? 料金が高すぎる。安くしてからまた来い」

「だからお上がそれで統一してるん」

「知らん。安くしろ」

「だか」

「くどい」


「落書き屋風情が偉そうに講釈を垂れるなっ!」


 静馬の忍耐が、崩壊した。

 

                   *

 

 紋筆、と呼ばれる技術がある。

 特殊な炭で印を描き、様々な事象を引き起こす。ある印は物を軽くし、ある印は重くする。川の流れを早める印もあれば川の流れを緩める印もある。森羅万象、様々なものへと作用し、意のままに操る技法。

 黒賀屋静馬はその技法を会得した紋筆家である。見習い、が後につくが。

 依頼を受けるのも修行の一環だった。

 はじめのうちはよかった。学んだ技術を活かせると静馬も懸命に顧客の要望に応え、その分に応じて報酬も貰えた。もちろん事務所に大部分は収めたが、金額などは気にならなかなった。

 雲行きが怪しくなったのは、依頼を一人で任せられるようになった頃からだ。

 世間を知れ、と先生は言った。

 静馬はこの二週間で、この言葉の意味を痛いほど理解した。

「んで、金が払われなかったり、ケチ付けられたり、苦情を言われる度に、静馬くんはここにきてるってわけだ」

「そんな頻繁に来てねえだろ」

「週に三回目だぞ? 習い事でもねえんだ。いい加減、とっ捕まってもおかしくねえんだぞ。この馬鹿野郎が」

 反論しようにも正論にすぎる。

 目の前で険しい顔をする友人から目を背け、静馬はそっとため息を吐いた。我ながら情けない。事情聴取というの名の説教はひどく煩わしかったが、自業自得とあきらめるほかなかった。

 狭い個室に、静馬はいる。

 白を基調とした殺風景な内装にみすぼらしい机と椅子。窓は高く、扉は静馬の背後に位置している。外界と隔絶された空間特有の空気と生活とは無縁のにおいが物悲しい。幸いだったのは天井の照明が強いことだ。あの胸糞悪い部屋よりはよほど居心地がいい、と静馬は思う。それがまずいというのも、静馬が一番理解していた。

 机を挟んで対面に座る男、月野良二は険しい顔で言う。

「おい、なにのんきな顔してんだ」

「別に」

 良二は静馬の返答に眉根を寄せたが、すぐに表情を緩めた。呆れたのだろう。良二は深く息を吐いてから、姿勢を崩した。

「まったくよぉ、お前が試験突破したってときは見直したんだけどなぁ」

「あ?」

「本気で勉強してたろ。らしくねえとは思ったけど、応援してたんだぜ」

「おー、ありがとうございます」

「茶化してるわけじゃねえよ。そんぐらいお前は頑張ってたさ。紋筆家ってのは立派な職業だ。誇りを持ってるのもわかる。俺だって、仕事を馬鹿にされたら腹が立つ。けどよ、暴力はだめだ。それをやっちゃ全部終わりだよ」

「わかってるよ、そんなことは」

「しかも、逆にのされるってお前、赤っ恥どころの騒ぎじゃねえぞ」

「うるせえっ!」

 静馬は怒声を放つ。直後、左頬に鈍い痛みが走った。

 思わず、両手で押さえる。

 口内の傷が開いてしまったようだ。薄い血の味に顔を顰め、腫れた頬が更なる傷みを発したため静馬は押し黙るしかなかった。

 良二は、また息を吐いた。

「喧嘩弱いくせによ」

「しょうがねえだろ、金出さねえって言われて帰れるかよ」

「値段交渉してたって聞いたぜ?」

「…おれじゃ相手にならねえって言いやがったんだ」

「なってねえじゃねえか」

 静馬は押し黙るしかなかった。

 本当にこの男は痛いところばかり突く。だからこそ、こんな仕事をやっているのだろうと静馬は思った。

 かりかりと書類に文字を躍らせる姿が妙に様になっている。

「ま、相手の方も訴えはしないってよ。支払については、俺らは関知しないんでよろしく」

「…前々から思ってたけど、それって無責任だろ」

「そういうのはそういう専門家に言えってことだよ」

 民事不介入、だっただろうか。

 争いごとに首を突っ込む癖に状況には無関心。まさしく無責任の極みである。といってもいちいち指図されたら邪魔なことこの上ないが。

「それより、お前、発表どうするんだ? この分じゃろくなもんにならないだろ」

「発表?」

「来週から教育部で授業だろ? …なんだ、忘れてたのか」

 完全に忘れていた。

 そもそも課題に手すら付けていないことを思い出す。静馬はどうしてこう悪いことは続くんだと頭を抱えたくなった。

 教育部。

 年代ごとに初等部、中等部、高等部の三つに分かれる教育機関である。静馬と良二はともに一回生として高等部に所属している。

静馬たちは、現在、就業研修の最中である。

「あー、どうすっかな」

「ま、明日から休みだからな。そこで何とかしろよ」

 不意に、静馬は背後の扉が開く音を聞いた。

 振り向くと、年配の男がこちらに半身を乗り出している。男はいかつい顔のまま手で何か合図した。

「お迎えだとよ」

 良二は立ち上がり、扉の方へ向かう。

 静馬は動かない。

 解放されることへの安堵感はあった。だが、立ち上がることができなかった。ひどく、気分が重くなっている。静馬がいつまでも立ち上がらないことを不審に思ったのか、良二は怪訝そうな顔で言った。

「どうした?」

「いや、その」

 静馬は少し躊躇ってから言う。

「…師匠になんて言おうかなって」

「知るか」

 

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