第19話
「食べていいぞ、ミクラ」
「あいっ♪」
振り下ろされる無情の一撃。
二度目のそれは、一度目とは比べものにならないくらいに早かった。瞬きの間もなく到達する肉塊。数秒後の未来を想像し、私は思わず顔を背けた。
衝撃は、思ったよりも小さかった。音に至っては予想していたものとはまるで違っていた。
その、なんと言えばいいのだろう。
……ぼよん、だろうか?
「…え?」
瞼を開ける。
視線の先、異形の脚に押し潰されるそれがあった。
黒い毛玉。
光が波打つほどに艶やかな毛並。遠目ではあったけれど不潔な印象はなくて、むしろそのまま飛び込みたくなるような魅力がたるというかなんというか。
いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
問題なのは突如現れたあれが、先生と三蔵ちゃんがいた場所にあることで、
「馬鹿なっ、どうしてっ?」
悲鳴のような怒声。
それまであった余裕が一瞬で剥がれ落ちた。ツバキは、目をむき出し、鬼気迫る表情で毛玉を凝視している。その形相があまりに必死過ぎて、私はツバキさんから目を離せなくなった。
直後。
何かが視界に飛び込んでくるまでは。
「 」
咆哮が轟いた。
先ほどとは違う、どこか澄み渡るような響き。
一瞬で私の思考を奪ったそれは、怖さじゃなくて感動に近い衝撃だったと思う。というより、聞き惚れた。
視線の先、ツバキさんよりなお大きな牙が彼女に迫っていようとも、その思いは少しも変わらなかった。
ツバキが飛んだ。
その後を、毛玉から飛び出した何かが追った。
黒い体毛と同じく輝く鱗が見て取れる。毛玉からは想像もできないほど巨大な頭部。口元には髭があり、その眼は緋色に輝いている。胴体は細長く、爬虫類を連想させる。なのに嫌悪感がないのが不思議だった。いや、むしろ神々しくもある。
竜。
黒い竜。
今、私の目の前にいるのは紛れもなく伝説で語り継がれる存在である。
「ふざ、けるなっ!」
蜘蛛が蠢いた。
威嚇するように全身を震わせ、直後に何かが飛び出した。脚と言うにはあまりに鋭利な何かが複数。漆黒の総身を串刺しにせんと物凄い勢いで殺到する。
甲高い金属音。
蜘蛛が伸ばした何かは固い鱗に弾かれた。衝突の瞬間、ほんの僅かの間、竜の動きが硬直する。
それをツバキは逃さない。
空を滑るように移動し、あっという間に距離を置いた。
同時に、六体の蜘蛛全てが動く。
その巨体からは考え難い機敏さで、黒竜へと飛びついた。黒竜は身を捩ってかわそうとする。
瞬間、蜘蛛が溶けた。文字通りの意味である。蜘蛛の形状を捨て、黒竜を覆うように広がっていく。
その異変に、黒竜は対処できなかった。
黒竜よりなお濃い黒が全身を伝うように広がっていく。空中で暴れ狂おうとも、いくら咆哮を上げようとも浸食が止まることはない。
咆哮が濁り、空中で動きを止める。
ついに全身を染められ、黒竜は完全に沈黙した。
「は、あはははははっ、なにがあるかと思えば、よくもまぁ、こんな代物を用意していたこと。うふ、ふふ、あはははは!」
何がおかしいのか、ツバキは大声で笑い始めた。
それが虚勢なのか、安堵から来るものなのかは私にはよくわからなかった。ただ、やはりあの黒竜は突然現れたものではなく、事前に誰かが用意したものであって。というか、あの登場の仕方ではまるで。
だめだ、思考がまとまらない。
目の前で起きたことを処理しようにも、これでは怪獣映画を見た後のような気分にしかならない。
何が起きているのか、私にはさっぱりわからない。
ただ、一つ。
ツバキの周囲に漂う銀色の線だけが、何を意味するのかわかった。
「あははは、あ?」
哄笑が止まる。
と、同時に、銀閃が煌めいた。
「ぁ」
四散するなにか。
ここからでは遠くてよくわからない。
千切れた腕とか、落ちていく足とか、飛散る赤い液体だとか。そんなもの私には見えなかったし、何より空を浮いている時点で現実とはまるで思えないのだから今更そんなことを見せられても何も感じないというか誰かが死ぬ場面は既に見ているし慣れたなんて言えないけれどだからと言ってそんなことで動揺することはないというか人としてそれは当たり前なのだし何より母が。
そう、母が死んだ。
目の前で、肉体を切り刻まれて死んだのだ。
あっさりと。
「玲ぃいいいいいいいっ!」
気付くと叫んでいた。
どこにいるかはわからない。ただ一言言ってやらなければ、いや、そうじゃない。そもそも玲を批判する必要なんてなくて、だからと言って黙っていることもできなくて、いや、もうどうすればいいのかわからなくて。
どん、と何かがぶつかった。瞬間、視界が遠ざかっていく。
この感触は覚えている。
いや、何より目の前にひどく厳つい男の顔があった。
「み、三喜男?」
「舌噛むなよ」
浮遊感。
相変わらずこの男は人の話を聞かない。
頬に当る風を感じながら、向かっている先を見る。驚いた。思ったよりもはるかに大きい。
未だ空中に浮いたまま黒く染まった竜。
ふと、気付いた。
僅かに光が漏れている。おそらくは右腕。その先端から輝きが漏れ出し、徐々に全身に広がっていく。
兆しが見えてからは早かった。
全身を覆っていた黒は瞬く間に白へと変貌する。
目を開けていられないほど強い光を発した後、その威容を見せつける。
なんて、美しい。
目を奪われて呼吸が止まるなんて初めての経験。それでも、私はただ見つめることしかできないでいる。
近づけば近づくほどにその存在に圧倒されて、視線が合うと私は頭が真っ白になった。
何故か、竜が頭を垂れる。
そこに三喜男は飛び乗った。もちろん、私も。
「ちょっ」
何か言う前に三喜男は私を下ろした。
鱗の硬い感触と艶やかな体毛の柔らかい感触。
三喜男は腹這いに近い体勢になって、体毛を掴んでいる。視線で倣うよう伝えて来た。
振動が走る。
私は反論する間もなく、三喜男に倣った。
加速。
不思議と風は感じない。
視線を前に向ければ、流れる景色の速さに目が回りそうになった。と、視界の隅で何かがこちらに向かって飛んできたのが見えた。
玲だ。
彼女は私の隣に着地すると、私の方を一瞥してから同じ体勢をとった。
言葉はない。
態度も普段と変わらない。
…わかってる。
玲が正しいし、私もそれが正しいと理解している。
だけど、そうだけれど、なにか一言くらいあったっていいんじゃないかって。
そう思っていたのに、
「 」
咆哮が聞こえた。
後方、そう遠くない場所からである。
視線を向けて、私は愕然とした。
蜘蛛である。
六体の蜘蛛が森を蹂躙しながら迫っている。
その先頭。
一際大きな蜘蛛の上に彼女がいた。
ツバキ。
刻まれた四肢は未だ宙を漂い、頭部のみが見て取れる。胴体は見当たらなかったが、徐々に身体の各部が合わさっていく様子を見れば何の心配もいらないだろう。
心配?
私は自分自身を笑い飛ばしたくなった。
母。
そんなもの、もうどこにもいない。
あそこにいるのはもはや人ではなく、この世界を呪う亡霊なんだから。
*
とある村落で少女が一人攫われた。
それだけならよくある話、この出来事には問題が二つあった。
一つは、攫ったのが竜であること。
もう一つは、年を跨いで帰った少女が身ごもっていたことだった。
生まれた赤子は、すぐに親元を離された。
忌子の烙印のみならず、人の子ではないということで村では手におえないと判断されたからだ。産声一つ残して、村落から赤子の存在は消えた。
それから、赤子は何不自由なく育てられることになる。
引き取られたのはとある神社。神主の子として生きることになった赤子は、物心つくころには自身の異常性を理解していた。
肌の色の違い、体のつくり、顔の彫り。
なによりも自身のチカラが他より強いことを自覚するまで時間は掛からなかった。
自分は他と違う、特別なのだ。
養父である神主も言葉にはしなかったがそう扱った。実の子ではなくとも、いや、実の子よりも大事にしてくれていることは周囲の目から見ても明らかだった。
それが、彼女にとっては嬉しかった。
生みの親よりも育ての親を信じるほどには。
更に数年が経ち、彼女は少女と呼べるまでになった。天真爛漫な性格は人を惹きつけ、その美しさは近隣に聞こえるまでになった。
ある時、少女は気付いた。
養父が自身に向ける目が変わったことに。
それから、少女にとっての日常は変わることになる。それまで目にしてきたもの全てが根底から覆ったのだ。
意味もなく怯える日々。
だが、それもすぐに終わることになる。
ある夜、少女は養父に呼び出された。
既に覚悟は決まっていた。
これまでの日々とこれからの日々。その転機となる時が来たのだと、少女は受け入れることにしたのだ。
待っていたのは、養父だけではなかった。
彼女に厳しくも優しかった養母も、養母の次に面倒を見てくれた姉貴分も、最近は生意気だが後ろを付いてきた弟分も。
そこには少女の家族がいた。
安堵と共に困惑した。
呼び出された意図も、何故か真剣な養父も少女には理解できなかったからだ。
結果としてではあるが、少女の覚悟は無駄ではなかった。
彼女は養父のみならず、自身の家族を救うために生きることになる。そのために、彼女は彼らに引き取られたのだ。
その事実を知り、少女は喜んだ。
こんな自分でも生きる価値があったのだ、と。それまで抱えていた負い目をようやく捨てることが出来る、と。
少女は、その身を委ねた。
そして、惨劇は始まった。
三日三晩。
少女は本来の姿を取り戻し、その全霊を以って焼き尽くした。
彼女を受け入れた家も、人間も、その都市そのものも。
純白の鱗、紺碧の瞳、銀色に輝く体毛。
その全てを変えて、彼女は暴れ狂った。
何故、そんなことをしたのか。
少女は決して語らない。
何を言われ、何をされようとも決して語らない。
ただ一言。
人でありたい、と。
彼女はそれだけを口にした。
償え切れない罪を犯し、それまでの全てを捨て去った。
それでも。
それでも、彼女は人でありたいと願ったのだ。
*
「それが、ミクラちゃんの過去ですか?」
「そう。それが僕と彼女が出会った経緯さ」
空を泳ぐ。
竜——ミクラちゃんの背中は思った以上に快適だった。
揺れは思いの外大きいけれど、強風は感じない。体毛がクッション代わりになって座り心地も悪くなかった。
背後からは六匹の蜘蛛。
距離は縮まらずも離れない。
森を蹴散らしながら、諦めることなく追いかけてくる。
…もう何時間経っただろう。この追い駆けっこが始まってから既に半日は経ったような気がする。
「初めて会った時、彼女は言葉を話すことが出来なかった。どころかこちらの言葉すら理解できていなかったんだろう。意思疎通が出来なくて苦労したよ。彼女が何を欲しているのか、何をすべきなのか。その判断が出来るまでどれだけ時間がかかったことか」
やがて少女は言葉を取り戻す。
うわ言のように繰り返された一言は形を変えて、飯村に訴えた。
人としての生。
神に近しく罪科という枠組みから外れている存在は、あくまで枠の中にこだわった。そこにある思いがどんなものなのかなんてわかるはずもない。
わかる筈もないのに、私は気になった。
「そして、私はミクラを連れ帰った。そこからは共同生活さ。文字や一般常識はもちろん、ご飯の作り方から洗濯や家事全般。印が使えないからなくても出来るように家具を整備し直したりね。けれど覚えの速さには驚いた。一月も過ぎるころには、知識も家事も生きていく上では十分すぎるほどに成長したよ。特に料理は、私が作ったものなんて食卓に出すのもおこがましいほどに上達した」
「…ねぇ」
横やりが入る。
私の隣で不機嫌そうに寝転がっていた玲が声を上げたのだ。
「…その話、まだ続ける気?」
「ああ。大事な話だからね」
「つってもなぁ」
三喜男も口を開いた。
こちらは心底退屈そうにしている。
「今、そんな話をして何になるんです? この状況をどうするか話合った方がまだマシだと思うんすけど」
「それはどうにもならないからね。だから、少しでもやるべきことはやっておかないと」
三喜男が深く息を吐く。
玲に至ってはこれ見よがしに舌打ちをした。
私だって、この状況に思うところはある。
視線を彼方へ。
蜘蛛よりも遙かに遠く、件の巨体が見える。
巨人、と言った方が正しいかもしれない。
骨格に肉が付き、大分形が出来上がっている。顔だけは頭蓋骨がむき出しだが、それ以外は見れる姿になっていた。
神。
遠い次元の存在はこちらを見据えたまま動かない。
「既にここは神の領域だ。空間も時間も全て向こうの思い通りになっている。そこから逃れることはできない。開戦の合図は向こうがするから、それまで大人しくしている他ないんだよ」
「それはさっき聞きましたよ」
空間も、時間も、何もかも。
その全てが支配されている。
言葉にすればそれがどれだけ馬鹿馬鹿しいことか。実際にそんなことがあればもっと馬鹿馬鹿しい気分になる。
既に私たちはミクラちゃんから離れることはできない。こうして私達が話していることすら、ミクラちゃんの力なしではありえないのだ。
「しかし、君らのミクラ嫌いも大概だと思うよ。彼女は見た目通りの少女だ」
「別に俺は嫌ってませんよ。ただ、こいつが」
「…私は切れないものは嫌い」
「まだ根に持っているのかい?」
「…うるさい」
そうとだけ言って玲は黙り込んだ。
先生は苦笑を浮かべ、それから私を見る。
「彼女は人間としての生活を得た。けれど、その過去まではなくすことはできない。本来であれば、彼女は神の一柱としてあるべき存在だった。それなのに人として生きる道を選んだ。だからこそ、神は彼女を標的にしているんだろう。裏切り者には殊更厳しいんだろうな」
それが現状の理由。
神はミクラちゃんを倒すために力を取り戻そうとしている。逃がすつもりも毛頭ない。
時間と空間の檻。
私達は果てのない逃走を続けている。文字通り、いくら進めども眼下の森から逃げる術はない。
続ければ続けるほど神は力を取り戻し、最後にはその力で滅ぼされる。
それが、私達の現状である。
「でも、ミクラちゃんも神様になれるんですよね? だったら、神様に対抗する力をもってるんじゃ」
「そこが問題なんだ。彼女は人としての生を選んだ。だから、生まれ持った力しか使えない。神とは祀られて初めてそうなるから、彼女はその力を使えないんだ」
突然、先生の表情が変わった。
意外そうな、驚いたような表情と言えばいいのか。
が、すぐに笑みを浮かべる。どこか、嬉しそうな笑みだった。
「…いや、ごめん嘘だ。彼女はその力を使うことが出来る。出来るけれど、使わないんだ」
一瞬、言葉を失った。
出来るのに使わない?
思わず、先頭を見る。巨大な角が飛び出し、艶やかな黒髪に包まれた後頭部。地平へ向かって進む姿に初めて怒りを覚えた。
と、
『ごめんね、お姉ちゃん』
鼓膜からではなくどこか別の所から。
まるで脳に直接響いたような声に、身を竦めた。
「…ミクラちゃん?」
『ごめんね、驚いた? あのね、今だと言葉がしゃべれないんだ。だから、こうやって直接話してるの。えっとね、気持ち悪くない? 揺れとか大きくない?』
響く声は透き通り、どこか優しい。
おずおずとした話し方に、私はすぐに緊張を解いた。
ミクラちゃんだ。
この声は間違いなくミクラちゃんで、この背中もミクラちゃんなんだ。私はようやく実感できた。
「大丈夫、ちょっと驚いただけだから。いや、ちょっとじゃないかな」
『ごめんね。この姿、あんまり好きじゃないから』
どこかずれた返答に苦笑する。
そうだ、これでこそミクラちゃんだ。
「そうなんだ。でもとっても恰好良いと思う。空を飛ぶ姿なんてすっごく素敵」
『えへへ、ありがとー』
何故だか、私まで嬉しくなってきた。
直接響くせいなのかもしないが、普段よりも感情がストレートに伝わってくるような気がする。
『あのね、お姉ちゃん』
「ん、なに?」
『先生の話、どう思った』
混じりっ気なしの言葉に、私は息を呑む。
怯えだとか疑うとかそんな負の感情じゃない。もっと複雑で、返答を躊躇わせる響きを感じた。ただそれ以上に返答を求める思いも強く感じた。
私は言葉を選ぼうとして、止めた。
何故か、素直に答えるべきだと思ったのだ。
「正直、ミクラちゃんの気持ちがわからなかった。どうして、人間として生きたいと思ったの?」
焼き払った。
一つの都市をまるごと、彼女を受け入れた人すらも焼き払った。
突発的なことだったのかもしれない。もしかすれば、そこにはなにか特別な理由があったのかもしれない。
だけど、それを行ったのは紛れもなく彼女だ。
そこまでのことをしておいて、なお、彼女は人でありたいと思ったという。
その理由がとても気になった。
『そっか。うん、お姉ちゃんならそう言うと思った』
安堵の声。
ミクラちゃんはどこか優しげに言葉を続けた。
『それをお姉ちゃんに伝えようと思ったんだ。きっとお姉ちゃんの役にも立つと思う』
私の役に?
困惑する私に構わず、ミクラちゃんは言葉を続けた。
『私は人間が嫌いです。この世界で一番醜い生き物だと思っています』
その言葉は。
何故か、私の心を穿った。
*
それが人間だと気付くのに三日掛かったと彼女は言った。気付いた後もそれが人間だとは思えなかったと言葉を続けた。
まるで汚物が詰まった肉袋。
それが、彼女が竜になってから人間に抱いた感想だという。
『私が覚えているのは、我慢ならないという感想だけでした。周囲には不快なものがあって、それが何故か私に視線を注いでいた。ただ見ているならそれでよかった。けど、私にはそれがどんな視線なのかすぐに理解できました』
品定め。
無遠慮な視線が彼女の全身を隅々まで嬲った。
彼女は不快な視線に耐えたが、それだけでは済まなかった。
それらは彼女の価値を見定め、狂喜した。
それが引き金だった。
『気持ち悪かった。ただ、気持ち悪かったんです。少しでもそれをなくしたくて、私は懸命にもがきました』
三日三晩暴れ続けた。
結果も過程も先生の話の通り。
彼女は全てを失って、初めてそれを自覚した。
『正直、わけがわかりませんでした。私が彼らにとってそういう存在になるということはわかっていました。けれど、あの視線を受けた時。わかっていたはずなのに、衝撃を受けました。きっと、どこかで期待していたのかもしれない。でも、そんなものどこにもありませんでした』
ミクラちゃんは人の心を見透かすことが出来るのか。
今更ながらそんなことに気付いた。や、頭の中に直接語り掛けることが出来るのだ。その程度のことで驚く必要もないか。
『それだけじゃない。見知らぬ人達も私には許せなかった。そう、許せなかったんです。そこにあるだけで、いや、あってはいけないものだと思いました。今でも、それに近い感情を持っています。だって』
『人の心には自分しかないんです。他人なんて入る隙は微塵もない』
それは。
それは、当然のことだと私は思った。
『思いやりなんてどこにもない。私に見えたのはどす黒い欲望だけでした。今でもそれがわかります。貴方達の心には自分しかない。どうすれば自分をよりよく改善できるのか。自分を満足させられるのか。自分を高められるのか。他人に関する感情はその延長線上でしかなくて、そうすれば自分にどんな利益があるのかを常に計算している。それを意識的にやっている人が社会的に成功していて、それに鈍感な人は誰からも認められない』
優しさとは何か。
人に対して優しくするべきだ、と私も教わった。誰だってそうだろう。優しさは生きていく上で大切なことだと何度も繰り返し教わってきたはずだ。
では、何をすれば優しさになるのだろう。
困っている人を助けることだろうか。思いやりをもって相手と接することなのだろうか。それとも誠意と敬意を払い、相手と接することなのだろうか。
その全てが正しいし、それだけでは足りないと私は思う。
だからこそ、それは全て自分のために行うべきことなのだとも。
『…やっぱり、お姉ちゃんは本当に強いね』
「え?」
『見返りを求めない。きっとそれはとても大事なことなんだと思う』
でも、それだけじゃ足りない。
おそらくミクラちゃんはそう言葉を続けたかったんだろう。私だってわかっている。自分に出来ないことをやろうとしても、それが誰かを救うことであっても決して優しさではないんだ。
『でも、その時の私にはそれがわかりませんでした。この姿になるとつくづく思います。私は人間が嫌いで、世界で一番醜いと思っています。
でも、私はその中で育ちました。親も兄弟も友人も、今でも思い出します。彼らとの思い出は本物で、それを自分でなくしてしまった。その罪を裁く者も糾す者も既に存在していません。だから、それを残すために私は人であろうと思ったんです。償いと言うにはあまりに都合が良くても、私はそう生きたい。そう生きると決めたんです』
都合がいい。
彼女自身が言った言葉ではあるけれど、紛れもなくその通りだ。厚顔無恥なんて言葉ではまるで足りない。
ただ。
「——そう生きると決めた」
ようやく、私は何が心を穿ったのか自覚した。
そう生きると決めた。
それがどれだけ都合が良かろうと、彼女はそれを貫くことを決めている。
自分の生き方に筋を通す。
私は、彼女の言葉の響きに固い決意を感じ取ったんだ。
『お姉ちゃんは静馬を助けたいんだよね。でも、それはどうして?』
助けたい。
それはもちろんやさしさでも、まして思いやりなんかじゃない。
「あいつが私を救ってくれたから。だからその恩を返さなきゃいけない。じゃないと、そうじゃないと」
現状、周囲の環境、立ち位置。
日常生活において重要な事柄に向き合わなかったのは、何故か。
その理由は、先生の問いかけに対する答えでもある。
「私は」
「私はこの世界が大嫌い。私は、私の世界でやり残したことがいっぱいあるのっ!」
ようやく。
ようやく、私は本心を口にすることが出来た。
*
まぁるい月が嗤っている。
けたけたと笑う無貌の人形も眩いばかりの星々も、赤い炎も見当たらない。
月明かりに照らされた丘には何もなく、あの男の姿も見当たらなかった。
停滞した世界。
殺風景さも相まって寂しさを感じた。
だから、というわけでもないが。
これで終わりなのだと、私は理解した。
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